表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<全50ep> 鳳凰寺凛の生霊事件簿 ~視えるのは、世界で無職(おれ)一人~  作者: 第三ひよこ丸
第2部 【科学捜査と見えないスパイ】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/50

第22話 耳鳴りの子守唄

 蹂躙された聖域を後にし、俺たちが辿り着いたのは、新開地の場末に打ち捨てられたように佇むビジネスホテルだった。

 一泊四千円。煤けた壁紙には数十年分の煙草の脂が染み付き、安っぽい洗剤と湿気たカビの匂いが混じり合って鼻を突く。だが、今の俺たちには、この掃き溜めのような空間こそが、鳳凰寺剛三の監視網という巨大な網の目から漏れた、唯一の安全地帯だった。


 俺は工場での重労働と、我が家を精密に破壊されたことによる精神的摩耗により、身動き一つ取れないほどの疲弊に囚われていた。

 狭いシングルベッドに泥に汚れた体を引き摺り下ろすと、老朽化したスプリングが、まるで俺の人生を象徴するかのような断末魔の軋みを上げる。

 脳裏にこびりついて離れないのは、切り刻まれた畳と、無残に砕かれたパソコンの死体。怒りは青白い炎となって胸の奥を焼き続けていたが、肉体はその熱量に耐えきれず、深い闇の底へと沈もうとしていた。


「……タクミ。貴方の様子は、見るに堪えませんわ。少しは横になり、その貧相な肉体を休ませなさい。……後のことは、このわたくしが万全の体制で管理して差し上げますわ」


 鼓膜を叩いたのは、凛のどこか慈悲深い、それでいて相変わらず不遜な響きを含んだ声だった。


「……ああ、恩に着るよ。……それじゃあ、一時間だけ……意識を落とさせてもらうわ」


 掠れた声で応じ、俺は吸い込まれるように、湿った枕へと顔を埋めた。

 今この瞬間だけは、復讐も、剛三の恐怖も、全てを忘却の彼方へ放り出したかった。だが、鳳凰寺の至宝たるお嬢様の管理とは、平民の想像を絶する、ある種のリスクを伴うものだった。


「……ねん、ねん……ころりよ……おころり、よ……っ」


 直後。俺の脳髄を、未知の衝撃が貫いた。


 それは音程という概念を根底から蹂躙する、凄まじい破壊的音響である。

 凛が紡ぐ旋律は、優雅な子守唄のはずが、まるで錆びついた巨大な歯車が無理やり回転しているような、あるいは冷却装置の全回転翼が一斉に異音を上げているような、暴力的な不協和音となって俺の意識を直撃してくる。


「……っ!? な、なんや、今の地響きは……っ!」


 眠気が一瞬で宇宙の彼方まで吹き飛ぶ。俺は跳ね起きようとしたが、あまりの殺人的音痴ぶりに脳の処理能力が追いつかず、指先一つ動かせない。

 だが、凛は至って真剣である。眉をひそめ、慈しむように、一生懸命に音を紡いでいる。だが、その純粋な意志とは裏腹に、出力される歌声は、可聴域を乱高下する地獄の震動と化している。


 凛自身は、自らを完璧だと思い込んでいる。おそらく、周囲の大人たちも、その圧倒的な家柄と美貌に気圧され、彼女の口から発せられる音を、新しい時代の芸術か、あるいは選ばれし者にしか理解できない神託として祭り上げてきたに違いない。

 

 彼女から、以前聞いたことがある。それは、彼女の歌声を聴いた音楽の巨匠が言葉を失ったという逸話も、感動したからではなく、あまりの音痴ぶりに専門家としての存在意義を根底から粉砕されたからだろう。

 彼女自身、自分が放つ音が、現実世界の物理定数を歪めるほどの代物だとは露ほども疑っていないのだ。


《……あら、タクミ? どうしてそんな、この世の終わりでも目撃したような顔をしていますの? わたくしの歌声に、感極まって言葉も出ませんか?》


 歌を中断し、凛が心外そうに俺を覗き込んできた。

 その瞳には、申し訳なささと、俺を気遣う深い、深すぎるほどの慈愛が宿っている。

 このお嬢様、自覚がない。それどころか、自分の歌声を『魂を浄化し、活力をもたらすもの』とまで信じ切っている。


「……いや……。なんというか、想定外やったわ。一瞬で脳の一次記憶が強制消去された」


《ふふん、当然ですわ。さあ、遠慮せずに、その身をわたくしの慈悲に委ねなさい。……それから、タクミ。貴方の身嗜みも看過できませんわ。鳳凰寺の者は、たとえ潜伏中であっても気品を忘れてはなりませんのよ》


 凛はそう言うと、良かれと思ってお嬢様の感性に基づいた身の回りの世話を焼き始めた。

 生霊としての彼女が『俺の服装を整える』という強い意志を向けた瞬間、俺の感覚は歪み始める。

 実際に服が変化したわけではない。だが、俺の脳が『正装を強いられている』という彼女のイメージに直接汚染され、シャツの襟元が糊を限界まで塗りたくったかのようにガチガチに硬化していると錯覚し始めた。ボタンがミリ単位の狂いもなく整列しているという強烈な固定観念が、鉄板のような剛性となって俺の首を容赦なく締め上げてくる。


「……うぐっ……首が……苦しい……っ」


《あら、少しばかり威厳を強調しすぎましたかしら? でも、背筋が伸びて良くなりましたわよ。さあ、次は安眠のための環境改善ですわ。貴方の脳内に直接、鳳凰寺を象徴する高貴な香りの記憶を共有して差し上げますわ!》


 彼女が最高級の薔薇を想い描いた瞬間、俺の脳内にある嗅覚中枢が強引に叩き起こされた。

 物理的な香りが漂うのではない。彼女が『最高』だと信じて疑わない薔薇のイメージが、情報の洪水となって俺の意識を蹂躙する。それは脳に直接原液を流し込まれたような、暴力的なまでの芳香の概念た。お嬢様の完璧の辞書には、加減という概念が存在しない。彼女が提供するあらゆる豊かさは、常に最大出力で流し込まれる過剰な奉仕であった。


 さらに凛の暴走は止まらない。彼女は、俺の額に浮いた冷や汗を拭うべく、慈しみの思念を集中させた。


《見ていられませんわ、そんなに汚らしい汗を流して。わたくしが直々に清めて差し上げますから、じっとしていなさい。……ほら、耳の裏まで入念に。貴方はわたくしの専属なのですから、常に清潔でなければなりませんわ》


 慈愛に満ちた言葉とは裏腹に、ポルターガイストを利用した接触は容赦がない。俺の皮膚は瞬く間に悲鳴を上げていく。もはや介護という名の精神的虐待である。


「待て……お嬢様、意識が削れる……痛い、痛いから……っ!」


《あら、感覚が過敏になっていますのね。きっと精神の磨耗が原因ですわ。では、わたくしが貴方の意識に直接、鳳凰寺に伝わる究極の安寧のイメージを流し込んで差し上げますわ。これこそが、選ばれし者のみが許される最高の休息ですのよ》


 彼女が俺の額にそっと指先を触れた瞬間、脳内に雪崩れ込んできたのは、安らぎとは程遠い情報の暴力だった。

 

 広大すぎる鳳凰寺の庭園の風景、歴代当主の肖像画が並ぶ重苦しい回廊、そして延々と続く家訓の講義音声。それらが処理不能な速度で神経を駆け抜け、俺の精神を執拗に掻き回していく。


(あかん……これ、子守唄やない……精神汚染の総攻撃や……!)


 耳元では壊滅的な不協和音が鳴り響き、意識の底は過剰な薔薇の概念で麻痺し、首は錯覚による締め付けに悶え、脳内では貴族の倫理観が強制導入される。

 

 だが、不思議だった。

 そのあまりに無様で、あまりに不器用な、そしてこの世で最も正解から遠い献身を受けているうちに、俺の胸を占めていたドス黒い怒りと恐怖が、少しずつ形を変えていく。


 鳳凰寺凛。傲慢な女王であり、剛三という怪物に人生を奪われかけた被害者。

 彼女は今、自らの誇りも、鳳凰寺としての威厳もかなぐり捨てて、必死に俺を支えようとしている。音程の一つも取れないほどに不器用な、だが混じり気のない真心をもって。


(……ほんま、救いようのないお嬢様やな)


 俺は心の中で苦笑しながら、耳を劈く不協和音と、錯覚による苦痛の奔流に、あえて身を投じた。

 工場の油の匂いも、蹂躙された部屋の悲鳴も、今は彼女の壊れた子守唄にかき消されていく。この歪な安息こそが、明日、再び地獄へ立ち向かうための俺たちの生存戦略である。


 俺は、殺人的な旋律を脳内再生機で強引に修正しながら、深い、深い闇の中へと、意識を解き放った。

ブックマーク、評価をお願い致します。

レビュー、感想等もお待ちしております。

誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ