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<全50ep> 鳳凰寺凛の生霊事件簿 ~視えるのは、世界で無職(おれ)一人~  作者: 第三ひよこ丸
第3部 【病院潜入と生霊の消滅】

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第23話 高貴なる生霊の震え

 新開地の路地裏、潮風と排気ガスが混じり合う湿った夜の底に、そのボロホテルは死んだ魚のような目で佇んでいた。一泊四千円の安宿。部屋の壁は薄く、隣室の住人が吐き出す濁った咳払いや、階下を通り過ぎる酔客の卑俗な笑い声が、遮光性の低いカーテンの隙間から、まるで実体を持った粘着質な影のように這い入ってくる。


 畳の目には、いつの時代のものとも知れぬ染みがこびりつき、室内の空気は澱んでいた。

 俺は、古びたパイプベッドに腰を下ろし、軋む金属音を聞きながら、焦燥感に焼かれる胸を抑えていた。

 

(最悪や。なんで俺が、鳳凰寺なんていう雲の上の存在の御家騒動に巻き込まれて、新開地の掃き溜めで震えとかなあかんねん)


 その時だった。部屋の隅、埃を被ったまま放置されていた、骨董品のような旧式のテレビが、奇怪な咆哮を上げた。

 主電源のボタンすら押していないというのに、画面が火花を散らすような勢いで明滅し始めたのだ。白黒の砂嵐が暴力的な速度で吹き荒れ、室内の磁場を狂わせていく。


「……ッ!? なんや、なんや、何が起きとるんや!」


 テレビのスピーカーから漏れ出すのは、この世の果てから響くかのような、ひび割れた不快なノイズ。それは、ここから遠く離れた場所にある、清潔で無機質な病院の特別室の音を、無理やり空間ごと引きずり出してきたかのようだった。


《……タクミ! 貴方、何をしているのですの! 早く、早くこの下等な音を止めなさいな!》


 俺の隣に立つ、生霊となった凛が、激しく肩を揺らして叫ぶ。彼女を包む淡い光は、ノイズに呼応するように波打ち、今にも霧散してしまいそうなほどに危うい。だが、その声だけは相変わらず不遜な響きを帯びていた。


《ああ、おぞましい……! わたくしの、わたくしの聖なる肉体に、あのような穢らわしい男が近づいている気配がいたしますのよ! あの剛三ですわ! あの泥を固めたような醜悪な意志が、わたくしの眠りを妨げようとしておりますの!》


 凛はテレビの画面を指差し、その瞳に憤怒と、そして隠しきれない死への恐怖を宿した。彼女の肉体は現在、集中治療室で眠り続けているはずだ。だが、死に瀕した本能が、肉体と生霊の間に不可視のパスを繋ぎ、今まさに病院で起きている惨劇の序章を、このボロ部屋に中継していた。


(生霊なんて便利なもんやないってことか。本体が死にかけたら、こっちもタダじゃ済まへんのやな)


 スピーカーから、ついに逃れようのない意志が言葉となって溢れ出した。


「……処置を始めろ。ミスに見せかけるだけでいい。後のことはこちらで処理する」


 それは、実の姪を消し去ることに何のためらいも感じさせない、剛三の乾いた声だった。

 その瞬間、凛の身体を形作っていた光の輪郭が、目に見えて希薄になった。安ホテルの煤けた壁紙の模様が、彼女の胸のあたりを透過してはっきりと見える。


「……あ……」


 彼女の唇から漏れた声は、言葉を成す前に空気の中へと溶けて消えていく。

 凛は己の胸元を、自身の肉体が消滅しようとしている実感を、信じられないといった様子で見つめていた。


《……タクミ、わたくし、消えるのですか……? このような、洗っていない雑巾の匂いがする場所で、貴方のような凡俗を最後に見届けて、わたくしの高貴な人生は終わるのですの……?》


 凛は必死に手を伸ばし、空を切った。その仕草は、鳳凰寺の令嬢としての誇りすら脱ぎ捨てた、ただの震える少女のそれだった。


《嫌ですわ……! 嫌、嫌ですわ! 死にたくありませんわ! まだ、わたくしは、最高級のヴィンテージワインを飲み干してもいませんし、貴方に跪かせる楽しみも残っておりますのよ! 待ちなさい、こんな一方的な幕引き、わたくしは認めませんわ!!》


 凛は、幼子のような無様な仕草で、俺のシャツの袖を掴もうと必死に指を動かした。

 だが、その指先は虚しく布地をすり抜け、彼女の絶望的なまでの震えだけが、空気の振動となって俺の腕に伝わってくる。実体を持たないはずの彼女の手が、今は酷く冷たい風のように感じられ、そして今にも霧散してしまいそうなほどに脆い。


(あの不遜な女が、触れることすらできんと震えとるなんてな……)


 掴むことのできない凛の拳は、苛立ちと恐怖で激しく空を打っている。その必死な抵抗とは裏腹に、彼女の存在感は刻一刻と失われていた。


「おい、しっかりせえ! お嬢様なんやろ! そんな情けない顔すんなや!」


 俺は咄嗟に、枕元に放り出していた携帯端末を掴み取る。病院に直接乗り込む力も、システムを支配するような力も、今の俺にはない。だが、病院の外側から剛三の足を一時的にでも止める、泥臭い悪あがきならまだ残されている。

 俺は画面を叩き、病院の夜間受付に対し、鳳凰寺家の本家に連なる有力な親族の名を騙った偽装連絡を叩き込んだ。


「本家の指示や! 令嬢の容体に関して重大な疑義があるねん! 今すぐ特別室の責任者を電話に出せ! 抜き打ちの監査チームがすぐに向かうからな!」


 電話の向こうで受付の職員が慌てふためく気配が伝わってくる。さらに俺は、病院の管理部や警備室に向け、鳳凰寺家の名を冠した緊急の呼び出しを次々と自動送信した。


「……止まれ、剛三。お前の思い通りにはさせへんぞ」


 本家からの抜き打ち調査が入ると思わせれば、剛三の協力者である医師や看護師たちに、一瞬の動揺と保身の心理が生まれる。完璧な静寂の中での事故を望む剛三にとって、他人の目がいつ入り込んでくるか分からんこの騒がしい状況は、最も嫌う誤算となるはずや。


 廊下を走る足音、鳴り響くナースコールの音。テレビのノイズ越しに、病院内が蜂の巣をつついたような騒ぎになっているのがわかる。


《……ふん、少しは動けるようですわね、タクミ。貴方のその詐欺師のような姑息な手際……鳳凰寺の騎士としては噴飯ものですが、わたくしを繋ぎ止めるための足掻きとしては、僅かに評価して差し上げてもよろしいですわ》


 凛の身体に、ほんの少しだけ光の強さが戻った。だが、彼女の姿は依然として小刻みに震え、透き通ったままだ。

 俺は確信した。こんな目眩ましは、持って数十分。剛三が体制を立て直せば、次はもっと確実な方法で、彼女の命の灯火を吹き消しにくる。


(ここでこうしてても、いつかは終わる。なら、やることは一つやな)


 俺はベッドから跳ね起き、掴むことのできない彼女の震える手に向けて、強く手を伸ばした。


「お嬢様。その高貴な人生の続きが見たいんなら、俺の側から一秒たりとも離れなや!」


《……な、何を。タクミ、どこへ行くつもりですの?》


「決まっとるやろ。病院や。直接、あいつの面拝みに行ったるわ!」


 俺は安ホテルの煤けた扉を蹴るようにして開け、新開地の夜の喧騒へと飛び出した。

 実体のない彼女を連れて、死の淵に立つ肉体を取り戻すための、あまりにも無謀で、しかし唯一の反撃。


 俺は、この消えゆく小さな震えを無視することなんて、俺には到底できなかった。

 

(待っとれよ、剛三。お前の完璧なシナリオ、俺らがぶち壊したるからな!)




 新開地の薄暗い駅前を、俺はなりふり構わず走り抜ける。生霊である凛は、まるで俺の影に縫い付けられたかのように、必死の形相で背後を浮遊してついてくる。


《ちょっと! 貴方、あまりにも速すぎますわ! わたくしのドレスが……いえ、この霊体が風圧で千切れてしまいそうですのよ!》


「贅沢言うとる場合か! 今は一秒が命取りなんやぞ!」


 俺はタクシー乗り場に滑り込み、停車していた一台のドアを強引に開けた。運転手が驚いた顔でこちらを見るが、俺は構わず後部座席に飛び込む。


「北神聖マリア記念病院までや! 倍出すから、信号無視してでも飛ばしてくれんか!」


 タクシーが夜の神戸を猛スピードで駆け抜ける。窓の外を流れる街灯の光が、凛の青白い顔を断続的に照らし出していた。彼女は座席に腰掛けることもできず、不安定に揺れながら、俺の肩のあたりで怯えたように身を縮めている。


《タクミ……もし、間に合わなかったら……》


「……弱気なこと言なや。お前は鳳凰寺凛やろ。あんな叔父貴に負けてたまるかってんだ」


 俺は携帯端末を握りしめ、病院のフロアマップを脳内に叩き込んだ。

 剛三が待ち構える特別室。そこはまさに、死神が支配する牙城や。だが、この不遜な令嬢の震えが止まらん限り、俺の足が止まることもない。


 夜の闇を切り裂き、俺たちは彼女の肉体が囚われた地獄へと、真っ向から突っ込んでいった。

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