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<全50ep> 鳳凰寺凛の生霊事件簿 ~視えるのは、世界で無職(おれ)一人~  作者: 第三ひよこ丸
第3部 【病院潜入と生霊の消滅】

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第24話 同期するお嬢様レーダー

 天が底を抜けたのではないか。そう疑いたくなるほどの豪雨が、夜の神戸を容赦なく叩きつけている。

 タクシーのフロントガラスを絶え間なく打ち付ける雨音は、もはやドラムの乱れ打ちどころではなく、巨大な滝の直下に放り込まれたかのような暴力的な轟音となって、車内の空気を震わせている。

 ワイパーが親の仇を討つような剣幕で必死に往復し続けているが、濁流のような水膜はその努力を嘲笑うように視界を遮り続けていた。


 俺は後部座席に飛び込むなり、秒速の早業でスマートフォンを耳に押し当てた。

 

(アカン、これ、傍目には『深夜に必死で仕事の電話をする若手サラリーマン』に見えるはずや……。そう見えてくれんと、虚空に向かってキレ散らかす不審者として通報されて、病院に着く前にパトカー行きやからな!)


 バックミラー越しに、運転手が『またえらい殺気立った客が乗ってきたな』と言いたげな、不信感に満ちた視線を送ってくる。その視線が痛い。

 だが、そんな世間体など気にしていられないほど、俺の隣、厳密には座席の数センチ上には、この世で最も厄介で、かつ、物理法則を無視した不条理が鎮座しているのだ。


《ちょっと! 貴方、この車は一体何なんですの! あまりにも揺れすぎではありませんか! 脳漿がシェイクされて、わたくしの高貴な知性が泡立ってしまいそうですわ!》


 透き通るような肌を震わせ、霊力の枯渇で今にも霧散しそうな凛が、俺の耳元でキンキンと高音のクレームを叩きつけてくる。

 彼女は幽霊ではない。今まさに病院で死線を彷徨っている『生きた人間』の霊体。つまり生霊だ。それゆえに、重力の影響は受けないはずなのだが、タクシーが急カーブを切るたびに、彼女の体は光の尾を引きながら車内の壁にめり込んでは、不快そうに顔を顰めている。


「……ああ、わかっとるって! せやから無茶言うな言うてんねん! 今はプロジェクトの緊急事態やから、多少は我慢せえ!」


 俺は必死にスマートフォンのマイクに向かって(フリをして)、隣の空中に向かって吠え続ける。

 運転手が「プロジェクト……? 恐ろしい業界やな」と呟き、アクセルを踏み込む。タクシーは山の手の高台に聳え立つ北神聖マリア記念病院を目指し、心臓が口から飛び出しそうなほどの急勾配を、エンジンを軋ませながら登っていく。


《そもそも、この座席の革の質は何事ですの? 鳳凰寺家の犬小屋の方が、まだマシな絨毯を敷いておりますわよ。もっと優雅に、雲の上を滑るように進む最高級の車を手配できなかったのですの!? 貴方の手配能力は、ドブネズミの集会所並みですのね!》


 凛の罵詈雑言は、霊力の低下に反比例して勢いを増していく。

 世俗の常識を一切知らない彼女にとって、一泊数千円の宿からタクシーでの強行軍は、人生最大の汚辱に等しいのだろう。だが、文句を言われている俺の方は、窓の隙間から染み込んでくる雨水で尻のあたりが冷え切り、心身ともに限界が近かった。


「誰のせいでこんな目に遭っとる思てんねん! 全部お前の身内の剛三とかいうオッサンが仕掛けた騒動やろがい! 現場の苦労も知らんと、最高級やのなんだのと、メルヘンなこと言うとる暇あったら少しは協力せえ!」


 受話器のフリ越しに低く怒鳴り返すと、凛は一瞬、言葉に詰まって眉を吊り上げたが、すぐに激しく咳き込み、己の胸を強く押さえた。

 

 彼女を形作る光の粒子が、タクシーの車内に満ちる闇に吸い込まれるように、はらはらと散っていく。その光が弱まるたびに、彼女の存在感が希薄になり、背景にある空のティッシュ箱が彼女の体を透かしてはっきりと見えるようになった。


《……くっ、わたくしの……わたくしの尊い霊力が、もう……。指先が、この汚らしい雨に溶けるように霞んでいきますの……。タクミ、わたくし……消えてしまうのですか? このような、洗っていない雑巾の匂いがする車内で、貴方のような凡俗の横で、わたくしの高貴な物語は終わってしまうのですの……?》


 凛の声から不遜さが剥がれ落ち、代わりに剥き出しの震えるような焦燥が混じり始める。

 

 死。彼女がこれまで「下々の者が経験するもの」として遠ざけてきた現実が、今、冷たい雨の夜となって彼女を包囲していた。

 俺の袖を掴もうとして、何度も何度も、細い指先が虚空をすり抜ける。その物理的な拒絶が、彼女の絶望をさらに深いものにしているのが、嫌というほど伝わってきた。


(……しゃあない。ここでこのお嬢様を消したら、俺のこれまでの苦労も、このクソ高いタクシー代も全部、ドブに捨てることになるからな!)


「おい、そこまで言うんなら、その高貴な力とやらを見せてみろや! 同期や! お前のその無駄に鋭すぎる感覚を全部こっちに回せ! 中の様子を、今すぐ正確に俺の頭にブチ込め。頼むで、これがお前の意地を見せる最後のチャンスや!」


 俺は仕事の打ち合わせを装う口調を保ちつつ、意識の奥底にある”扉”を全開にする。

 彼女の冷たい震えと、死への恐怖を丸ごと受け入れるように、精神の防壁を取り払う。

 その瞬間、俺の視界は、現実の枠組みを越えて爆発した。


 モノクロだった夜の景色が、数多のデータと熱源反応が混じり合う極彩色のデジタルデータへと塗り替えられていく。

 タクシーの鋼鉄のボディすら透過し、前方にそびえ立つ北神聖マリア記念病院の巨大な構造が、血管のように張り巡らされた配線の一本一本に至るまで、俺の脳内へと強引に流れ込んできた。


 厚いコンクリート壁の向こう側、静まり返った廊下で獲物を待つ刺客たちのドクン、ドクンという暴力的な心拍音。

 天井の隅に設置された監視カメラが、首を振る際に発する微かな機械音の周期。

 さらには、剛三が潜む特別室周辺の空気の流れ、酸素の濃度、微かな電磁波の乱れまでもが、精密な「戦術地図」となって俺の脳内に直接投影された。


《……ああ、なんという下俗な感覚……! 貴方の脳内、こんなにも雑多で、安っぽい食い意地が張っていて、わたくしへの不満と悪態に満ちているのですか!? 脳が泥水に浸かっているようですわ! 吐き気がいたしますわよ!》


(文句言うな! 今はこれしかないんや! それに不満があるのはお互い様やろ! 俺の脳内を勝手にルームツアーしといて贅沢言うな!)


 俺は念じるように心の中で凛に毒づいた。彼女の『超感覚』と俺の『必死の身体能力』が、雨の中で一つに溶け合う。

 もはや俺一人で走っているのではない。彼女の瞳が俺の目になり、彼女の耳が俺のセンサーとなっていた。

 

 タクシーが病院の裏門に滑り込むと同時、俺は千円札を数枚、座席に放り出した。停車するのも待てずにドアを開け、叩きつけるような雨の中、俺は病院へと地を這うような勢いで激走を開始した。


(正面玄関は警備が固い……左の通用口、あと三秒でカメラが右を向く!今や!)


 俺は雨の飛沫を派手に上げながら、最短距離を突っ切る。

 北神聖マリア記念病院。その神聖な名前とは裏腹に、内部は今や剛三の手によって張り巡らされた死の罠で満ちている。だが、凛の同期は凄まじかった。壁の向こうに潜む刺客の立ち位置が、まるで透視しているかのように鮮やかな赤でハイライトされて浮かび上がる。


《タクミ! 右の柱の影! あのような安物のスーツを着た、鳳凰寺の品位を汚す存在が隠れておりますわ。蹴散らしておしまいなさい! 貴方のその野暮ったい足癖を存分に振るうのですわよ!》


「無茶言うな! 俺は格闘家やない言うとるやろ! それに、あの距離で蹴ったらこっちの足の骨が折れるわ!」


 俺は病院内に駆け込み、大理石の床に泥だらけの足跡を刻みながら、階段を一段飛ばしで駆け上がり、小声で凛に反論した。

 病院独特の鼻を突くような消毒液の匂いが、凛の同期を通じてさらに鋭く俺の神経を逆なでしてくる。

 だが、雨音は俺の足音を消す味方となり、凛のレーダーは俺の目を神の領域へと引き上げている。


 呼吸はとうに限界を超え、喉の奥からは鉄の味がせり上がってくる。足が鉛のように重い。

 それでも、視界に映る”戦術地図”の赤い光が、俺の足を一歩先へと突き動かす。剛三の息がかかった監視の目を、紙一重のタイミングで潜り抜けるたび、俺の生存本能が熱く昂ぶっていくのがわかった。


(特別室まで、あと三フロア。待っとれよ剛三……。お前の完璧なシナリオ、俺らがぶち壊したるからな!)


 肺が焼けるような痛みを伴いながらも、俺は止まらない。

 病院の床を蹴り上げ、俺たちは彼女の肉体が囚われた地獄の最深部へと、確実に歩みを進めていた。


 (お嬢様、しっかり……って、離れんなよ! ……あ、掴まれへんのやったな。ほんま、最後まで不便な体やな、お前は!)

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