第25話 モップの騎士道
北神聖マリア記念病院の最上階へと続く回廊は、静まり返った夜の底で、底冷えのする大理石の冷気を放っていた。無機質な蛍光灯が放つ青白い光は、一定の周期でジジ……と不吉な羽音のような異音を立て、俺の神経を逆なでする。
視界の先に広がるのは、もはや病院の廊下などではない。それは剛三が権力と金に物を言わせて築き上げた、物理的な暴力の防波堤である。
行く手を阻むのは、総勢十名を超える屈強な黒服たちの群れだ。どいつもこいつも、特注のスーツがはち切れんばかりの大胸筋を誇示し、首の太さは俺の太ももほどもある。
(あかん、これ、実写映画やったら開始五秒で俺が雑巾みたいにボコボコにされて、無音のスタッフロールが流れる絶望的な展開やで!)
俺の心臓は、肋骨を内側から叩き壊さんばかりの勢いで暴れ狂っていた。一歩踏み出すごとに、喉の奥に鉄の味がせり上がってくる。手ぶらの俺に対し、相手はプロの威圧感を全身から蒸気のように放っているのだ。そのあまりの戦力差に、膝が笑い出しそうになったその時、俺の視界の端に、運命の悪戯か、あるいは神の救済か、一箇所の扉が飛び込んできた。
そこには『清掃員以外立入禁止』のプレートが掲げられていた。
「これや……これしかない……! 背に腹は代えられへんねん!」
俺はなりふり構わずその扉を肩で突き破り、中へと転がり込んだ。埃っぽい空気の中に乱雑に置かれたバケツや洗剤の山をかき分け、俺の手が掴んだのは、一本の頑強な木製の柄を持つ、重厚なモップだった。
「これや! これさえあれば、まだ、まだ戦える……はずやろ!」
俺はモップを槍のように水平に構え、廊下へと躍り出た。だが、その先端に付いているのは鋭い鋼の刃ではない。長年の酷使によって黒ずみ、鼻を突くような消毒液と古いワックスの匂いをたっぷり吸い込んだ、湿り気を帯びた綿の塊である。
《タクミ! 何ですの、その目を覆いたくなるような汚らわしい棒切れは! わたくしの、鳳凰寺家正統なる後継者の戦いに、そのような雑巾の親戚のなれの果てを持ち出すなんて、正気を疑いますわ! 貴方、正真正銘の阿呆なのですか!?》
俺の背後で、霊力の枯渇により今にも透けて消えそうな凛が、必死の形相でキンキンと高音のクレームを叩きつけてきた。彼女は生霊。実体を持たないはずの彼女にとってすら、そのモップから漂う世俗の汚れと洗剤の混じった臭気は、耐え難い精神的苦痛であるらしい。
「贅沢言うな! 武器がないよりマシやろが! ほら、文句言う暇あったら、お前のその『超感覚』でなんとかせえ! このままやと、俺もろともお前も、あのゴリラ軍団のプロテインの肥やしにされてまうぞ!」
俺が悲鳴に近い声で怒鳴ると、凛は顔を真っ赤にして、いや、霊的な輝きを激しく波打たせて、俺の脳内に直接、暴力的なまでの感応波を叩き込んできた。
《……いいですわ、特別に教示して差し上げます! 感謝なさい! 正面の男、左の膝が僅かに外側を向いておりますわ。そこへ重心を乗せて、泥臭く突っ込みなさい! 後の動きは、わたくしが貴方の神経を直接、無理やり引きずり回して差し上げますわよ! わたくしの運動神経を舐めないで欲しいですわね》
その瞬間、俺の体は俺自身の意志を完全に置き去りにして、奇怪な躍動を始めた。
武術の心得など人生で一度も持ったことのない俺の腕が、凛の意志によって強制的に駆動され、モップを円月を描くように旋回させる。
右から襲いかかってきた、丸太のような腕を持つ巨漢に対し、俺はモップの柄を、相手の膝関節の裏側へとピンポイントで叩き込む。
グシャリ、という生々しく鈍い感触が、モップの柄を通じて両手に伝わる。男が肺の中の空気をすべて吐き出すような苦悶の声を上げ、大理石の床に崩れ落ちる。それと同時に、俺はモップの先端、あの、濡れそぼった灰色の綿の塊を、別の男の顔面に力一杯、左右に擦り付けるように押し当てた。
(うわ、これ、自分でやってて思うけど、最低最悪の攻撃やな! 洗剤の匂いと古いホコリが、男の鼻腔に直撃しとる!)
《何を躊躇しておりますの! 感傷に浸っている暇などありませんわ! 次ですわよ! 左から来る男の右肘、そこを支点にして、モップを梃子のように使いなさい! 貴方のその野暮ったい筋肉にも、ようやく一分ほどの使い道ができましたわね!》
凛の指示は、もはや助言などという生易しいものではなかった。彼女の霊的な意志が、俺の筋線維の一本一本を直接操作し、俺を一つの人間兵器へと変貌させていた。
俺はモップを槍のように突き出し、関節を砕き、鼻腔を洗剤で攻め、泥臭く一人ずつ沈めていく。黒服たちは、ただの清掃用具を振り回す、清掃員ですらない素人に翻弄されるという、職業人生最大の屈辱に顔を真っ赤にして、なりふり構わず襲いかかってきた。
だが、いくら凛の感覚が冴え渡っているとはいえ、あまりにも多勢に無勢だった。
俺が三フロア分を駆け上がった疲労で一瞬、呼吸を乱した隙だった。背後、死角から忍び寄った別の黒服が、太い腕を頭上に振り上げ、俺の後頭部を粉砕せんばかりの勢いで拳を振り下ろそうとしていた。
「……ッ!? しまった、後ろ――!」
俺が振り向くよりも早く、背後でこの世のものとは思えないほど激しい、光の炸裂音が響き渡った。
《……させませんわ! このような凡俗の背中を守る盾になるなど、鳳凰寺の数千年の歴史に泥を塗る行為ですが……今のわたくしには、これしか選択肢がありませんのよ! 悔しくて、涙が出そうですわ!》
凛が、己の魂そのものを燃料として燃やし尽くすような、絶望的でいて誇り高い絶叫を上げた。
彼女の霊体が、一瞬だけ目も眩むような黄金の輝きを放ち、物理的な質量。断じて通過することのできない硬度を持って俺の背後に顕現した。
黒服の拳が、凛が作り出した透明な、しかし鋼鉄よりも頑強な壁に激突し、バキッという嫌な音を立てて男の手首がへし折れた。男は、まるで巨大なプレス機を殴ったかのように絶叫し、血の気の引いた顔で後退した。
(お嬢様……お前、自分の霊力を、そんな、もう消えてまいそうなのに……!)
凛の輪郭は、今の無理な具現化によって目に見えて希薄になり、もはや背景の白い壁紙と区別がつかないほどに霞んでしまっている。光の粒子は絶え間なく彼女の体からこぼれ落ち、床に届く前に夜の闇に吸い込まれて消えていく。
彼女は荒い息を吐き、今にも膝をつきそうなほどに憔悴しきっていたが、その尊大な笑みだけは、決して崩さなかった。
《……何を見惚れておりますの、タクミ。わたくしが、このわたくしが、身を挺して稼いだ数秒ですわよ。さっさと、あの泥を固めたような醜悪な叔父の鼻柱を、その薄汚い棒切れで叩き折ってきなさいな!》
凛の体から溢れ出す光の粉は、まるで彼女の命のカウントダウンのようだった。
彼女の魂が限界を超えて悲鳴を上げているのは、同期している俺の脳に、熱く焼けた針を直接突き刺されるような激痛となって伝わってくる。
「……わかっとるわ! お前のその無駄に高い、高すぎて成層圏まで突き抜けとるプライド、俺が責任持って守り抜いたる!」
俺は千切れかけたモップの柄を、指の骨が軋むほどに握り直し、最後の数フロアを駆け上がるために、廊下の大理石を力一杯蹴り上げた。
背後で消え入りそうな光を放ちながら、それでも俺を見守る彼女の気配を、俺は一秒たりとも忘れることはできなかった。
(待っとれよ、剛三。お前が踏みにじろうとした、このお嬢様のどうしようもなく不器用な意地……今から俺が直接、その歪んだ顔面に叩き込んでやるからな!)
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