第26話 庭園の記憶
北神聖マリア記念病院の最上階。防音設備が完璧に施され、外界の喧騒を一切遮断した、金に飽かした重厚な扉を、俺は全身の重みを乗せて蹴破った。その先に待ち構えているのは、冷酷な笑みを浮かべた黒幕、剛三であると確信していた。だが、視界に飛び込んできた光景は、俺の予測を根底から覆すものだった。
静寂が支配する特別室の奥。そこに立っていたのは、狡猾な叔父ではなく、圧倒的な威厳と峻厳な佇まいを崩さない鳳凰寺家現当主、すなわち凛の父親だった。
広い室内には、最高級の牛革の匂いと、微かに線香を思わせる高貴な香りが漂っている。
本来、剛三の言葉を信じ、俺を不審者として排除する側にいるはずの父親が、なぜこの時間に、この場所で、一人立ち尽くしているのか。
その理由は、父親の背後で規則的な電子音を刻む、複雑な管に繋がれた凛の肉体にあった。剛三は、医学的根拠を捏造した脳死判定書を突きつけ、「これ以上の延命は、鳳凰寺の誇りを汚す醜態です。当主として、愛娘の魂を解放する決断を」と言葉巧みに誘導したのだ。父親は、自らの手で愛娘の命の灯火を消すという、身を切るような苦渋の選択を迫られ、孤独な絶望の中にいたのである。
(あかん、計算が狂った。剛三がおると思って乗り込んだのに、ラスボスどころか、もっと話が通じそうにない一族の長が、絶望の淵で立ち尽くしとるやんか!)
俺の全身は返り血と、逃走の際に浴びた雨水で無惨に汚れ、呼吸は喉の奥が焼けるような喘鳴を上げている。
父親は、突如として扉を破壊して現れた薄汚れた男に対し、眉一つ動かさずに射抜くような鋭い視線を向けた。その瞳の奥には、愛娘の命を終わらせるべきかという、地獄のような葛藤と、それを強いた運命への凍てつくような静かな怒りが燃えている。
《タクミ! 何を呆然としておりますの! お父様がここにいるということは、あの卑怯な剛三が、わたくしの命を完全に奪うための最終段階に入ったということですわ! 今すぐに、わたくしたちが命を賭して奪い返した真実を伝えなさい!》
俺の背後で、霊力の枯渇により今にも透けて消えそうな凛が、必死の形相で脳内に直接、激しい雑音のような声を叩きつけてきた。
彼女の霊体は、本社ビルで警備の目を逸らすために空間そのものを掌握しようとした代償により、もはや背景の壁紙がはっきりと見えるほどに薄くなっている。
俺は一歩踏み出し、肺に残った乏しい酸素のすべてを絞り出すように、喉が裂けるほどの絶叫を上げた。
「聞け! 鳳凰寺の当主! お前がずっと昔、鳳凰寺の庭園の隅にある、あの古びた金木犀の木の下で、お嬢様と交わした親子だけの約束を!」
父親が傍らの呼び出しボタンに手を伸ばすよりも早く、俺はその言葉を投げつけた。
その瞬間、父親の太い眉が僅かに、しかし確実に震えた。俺は凛の意識から奔流のように流れ込んでくる、眩いほどに温かな記憶の断片を、そのまま自分の言葉に変えて、父親の心臓へ叩きつける。
「『いつか庭園のすべての花が枯れても、わたくしが父親の心の杖になりますわ。ですから、泣かないでくださいませ』。そう言って笑った幼き日の娘の言葉を、お前は剛三の吐いた疑念という名の泥で塗り潰し、あまつさえ自らの手で、その尊い魂を消し去るつもりか!」
その瞬間、特別室の空気が一気に凍りついた。親子の情愛だけが知り得る、血の繋がった二人だけの世界から隔絶された聖域の記憶。父親の瞳から、それまで俺を拒絶していた鋭利な殺気が消え、代わりに剥き出しの人間としての激しい動揺が溢れ出す。
「……貴様、なぜその言葉を。それは、私と凛以外、誰も知るはずのない……」
俺は震える手で、懐の奥深くに忍ばせていた小型の記憶媒体を取り出した。それは、剛三が絶対の聖域と信じていた隠し金庫に侵入し、死線を超えて奪取した、あの日の惨劇を克明に刻んだドライブレコーダーの記録だ。
「これを見ろ! 剛三がお前を陥れ、お嬢様の命を使い潰そうとした。その汚らわしい魂の記録や!」
父親は、俺という不審者への警戒よりも、娘の真実を知りたいという本能に突き動かされ、背後に控えていた側近へと鋭い視線を投げた。
「……再生しろ。今すぐ、この室内にある大型の映写装置へ接続し、一秒の漏れもなく全てを映し出せ。この男の言葉が真実か、それとも虚言か、私の目で確かめる」
側近が即座に動き、装置を壁面の巨大な液晶パネルへと接続した。
数秒の静寂の後、映し出されたのは、逃げ場のない真昼の太陽が残酷なほどに照りつける、どこにでもある市街地の光景だった。
映像は、ごく普通の道路を映し出していたが、その平穏は瞬時に引き裂かれる。
画面中央、凛の姿が鮮明に捉えられた。その背後から、猛烈な加速音を轟かせて一台の黒塗りの車両が、進路を歪めてまで肉薄する。
ブレーキをかける気配など微塵もない。鈍い衝撃音とともに、お嬢様の華奢な体が白昼の路上へと無残に叩きつけられ、木の葉のように舞い、アスファルトの上で物言わぬ塊へと変わる。その凄まじい衝撃により、彼女の愛用していた手提げ袋が裂け、中身が陽光の下で虚しく散乱する様までもが克明に記録されていた。
その直後、車内に響き渡ったのは、耳を劈くような剛三の狂気に満ちた高笑いだった。
『はははは! 傑作だ! 太陽の下で鳳凰寺の至宝が地に伏すとはな! これで当主の座は私のものだ。あのアホな兄を、絶望の底へ引きずり下ろしてやるわ! 見ろ、この鮮やかな散り際を! 誰も見ておらぬ、この白昼の孤独な死こそ、生意気な小娘に相応しい末路よ!』
映像の中の剛三は、降り注ぐ日光を嘲笑うかのように、自らの姪を物理的に粉砕した実感を噛み締め、下卑た歓喜を爆発させていた。その瞳には、血の繋がった親族への慈しみなど欠片もなく、ただ権力への渇望と、兄への歪んだ劣等感から生じた破壊衝動だけがぎらついていた。
父親の顔から血の気が完全に失せ、代わりに大地を根底から揺らすような激しい憤怒が、その全身を支配していく。握りしめた拳からは血が滲み、室内の空気が父親の放つ威圧感だけで物理的に重くなったように感じられた。当主としての矜持、親としての情愛、それら全てを土足で踏みにじった実の弟への言葉に尽くせぬ殺意が部屋を満たしていく。
《タクミ、よくやりましたわ。……感謝、いたしますわ。わたくしの無念を、こうして父親に届けてくれて……。これで、わたくしも、ようやく一族の呪縛から……》
凛の霊体が、安堵したように俺の肩にふわりと重なる。彼女の誇りが守られたという確信が、俺のボロボロの体に最後の力を与えてくれた。彼女の瞳には、先程までの悲痛な輝きではなく、どこか遠くを見つめるような、穏やかな光が宿っていた。
(終わった。これで、このお嬢様の不遇な受難も、ようやく終止符や!)
俺は、その場に崩れ落ちるように膝をつきながらも、顔だけは真っ直ぐに上げていた。
父親の怒りは、もはや俺に向けられることはない。その猛火のような敵意は、今まさに一族を裏切り、自らの野望のために全てを焼き尽くそうとした真の逆賊、剛三へと向けられた。
父親は側近に対し、低く、しかし有無を言わせぬ絶対的な命令を下す。
「全力を挙げて剛三を捕らえろ。生死は問わん。鳳凰寺の血を汚し、凛の命を弄んだ報い、その身を以て分からせてやる。奴が逃げ込める場所など、この世のどこにも残さぬと思え」
その言葉とともに、病院内に控えていた鳳凰寺家の精鋭たちが、一斉に動き出した。それは静かなる嵐の始まりであり、剛三という男の命運が完全に尽きた瞬間でもあった。
タクミとして、このお嬢様の心からの笑顔を、たとえ俺の脳内だけであっても取り戻せたのなら、この泥臭い雨の中の激走も、少しは報われたんかもしれん。
(お嬢様、次は、次はもう、タクシー代くらい自分で払ってくれよな。俺、今月もうピンチなんやから! それに、この服のクリーニング代も、きっちり請求させてもらうで!)
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