第27話 道化の終焉
北神聖マリア記念病院、五階。神戸の街並みをその足下に跪かせるように、傲然と聳え立つ白亜の病棟。その深部に位置し、選ばれし者のみが入室を許される鳳凰寺家専用の特別室。俺は今、全身の細胞に鉛を流し込まれたかのような重苦しい疲労感を引きずりながら、強化ガラスの向こう側に広がる夜の光景を凝視していた。
指先が触れるガラスは、外気の影響を受けて氷のように冷たい。だが、俺の胸の内側で渦巻いているのは、その冷たさとは対極にある、焼けるような感情の残り火だった。
手元に残された、あのドライブレコーダーの小さなチップ。そこに刻まれていたのは、目を背けたくなるほどに醜悪で、吐き気を催すほどに生々しい、一切の虚飾を剥ぎ取られた真実だ。
叔父の剛三が駆る高級車が、凛を無慈悲に跳ね飛ばし、その華奢な肢体をまるで紙屑のように宙に舞わせる凄惨な一瞬。
そして、血飛沫に汚れ、歪んだ視界の向こう側で、実の姪を屠った充足感に酔いしれ、狂ったように馬鹿笑いを浮かべる剛三の顔。その映像は、俺の脳裏に消えない焼印として刻まれている。
それまで仮面のように静止していた鳳凰寺家現当主の顔が、映像の終焉とともに、噴火を待つ火山のような憤怒に染まったのを、俺はこの眼で見た。彼が放ったのは、もはや人間の発する音を越えた、大地を震わせる巨神の如き怒号であった。
「全力を挙げて剛三を捕らえろ! 生死は問わん。鳳凰寺の血を汚し、凛の命を弄んだ報い、その身を以て分からせてやる。奴が逃げ込める場所など、この世のどこにも残さぬと思え!」
当主の瞳に宿った、一切の慈悲を焼き尽くす深淵からの焔。その絶対的な命令が下された瞬間、病棟内に控えていた鳳凰寺の精鋭たちが、飢えた野獣の如き鋭敏さで一斉に動き出した。
それは長年、鳳凰寺という巨大な利権に寄生し、内部から食い荒らそうとしていた膿を、一気に絞り出すための容赦のない外科手術のように感じた。
俺は、その圧倒的な権力の行使を、ただ傍観するしかなかった。
俺は、特別室の窓から眼下の駐車場付近を凝視する。五階という高さは、地上の喧騒を完全に遮断するにはあまりに近く、そこで繰り広げられる断罪劇は、網膜に直接焼き付くほどに生々しかった。駐車場を照らす水銀灯の青白い光が、逃げ惑う者の影を長く、歪に引き伸ばしている。
地下から逃走を図ろうとした剛三の前に、漆黒のスーツを纏った男たちが、死神の如き沈黙を伴って立ちはだかる。逃げ場を失い、鼠のように袋小路へ追い詰められた剛三が、屈強な警備員たちに地面へとねじ伏せられ、無様にのたうち回っているのが手に取るように分かった。
「離せ! 離さんか! 貴様ら、私を誰だと思っている。鳳凰寺の一族に手を出す不敬を、その身で購うつもりか」
五階の窓辺にまで、剛三の口から漏れる支離滅裂な言い訳と、狂気を含んだ罵詈雑言が、夜の冷たい空気を震わせて直接叩きつけられてくる。当主の怒りの余波が、この空間の理すらも支配しているのか、届くはずのない高さまでその醜い叫びは鮮明に響き渡っていた。かつては優雅に振舞っていたであろう男の面影は微塵もなく、そこにあるのは、ただ己の保身のために吠え続ける、卑矮な獣の成れの果てだ。その姿は、この世の不条理を煮詰めたかのように惨めであった。
「……見てみぃ。お前の叔父さん、あんなに地べたを這いずり回って、見る影もないで」
俺は視線を地上に向けたまま、隣に漂う霊体へと言葉を投げかけた。すると、それまで氷のように静止していた凛が、ゆっくりと俺の隣に並ぶ。
彼女の霊体は、剛三が屈辱にまみれて取り押さえられる光景を見届けたことで、先ほどまでの激しい怨嗟と殺意に満ちた眼差しを、少しずつ霧散させていた。だが、その瞳に宿る光は、依然として冬の星のように冷ややかだ。
《ふん、見苦しい。あのように誇りをかなぐり捨て、権威という名の虚飾に縋り付く姿。鳳凰寺の名を冠することさえ、今のあの男には過分な贅沢ですわね》
凛の声には、刃のように研ぎ澄まされた高潔な響きがある。
彼女は、己を殺そうとした男の没落を、憐れみの一片すら見せずに眺めている。
時を経たずして、夜の帳を切り裂くように、鮮烈な赤色の警光灯が猛然と病院の敷地を包囲する。一台、また一台と、サイレンを鳴らさずにパトカーが滑り込んでくる。当主による迅速かつ隙のない通報。国家権力の牙は、鳳凰寺という巨大な意志に呼応し、裏切り者の退路を完全に、そして永久に封鎖せしめた。病院という聖域が、今は法による裁きの場へと変貌を遂げている。
青白い月光と、点滅する赤色の光が混じり合う混沌の中で、剛三の腕に無機質な手錠が嵌められた。カチリ、という乾いた音が、この高さまで聞こえてくるような錯覚に陥る。法の守護者たちによって、泥沼の中から引きずり出されるようにパトカーへと押し込められる剛三。その無様な最期を、凛は一筋の容赦もなく見届けた。
「……なぁ、ええんか、これで。お前の叔父さんが逮捕されるなんて、えらい醜聞や。こんなん世間に広まったら、鳳凰寺家の名に消えんキズがつくんちゃうんか?」
ふと、現実的な危惧が口を突いて出た。天下の鳳凰寺から犯罪者が出る。それは一族の栄華を支える基盤を、根底から揺るがしかねない汚点ではないのか。テレビやネットでこの逮捕劇が報じられれば、鳳凰寺の威光は失墜するのではないか。俺のような庶民には、それが当然の帰結だと思えた。
だが、俺の問いを聞いた凛は、ふっと小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、その形の良い唇を吊り上げた。
《ふふん。タクミ、貴方は鳳凰寺という家が、そのような程度の事態で揺らぐと本気で思っていますの》
彼女は窓の外、パトカーが連なる光景を冷ややかな瞳で一蹴するように続けた。その口調には、自身の血筋に対する揺るぎない確信と、絶対的な優越感が込められている。
《報道も、司法も、そして人々の記憶さえも。鳳凰寺家がその気になれば、幾らでも黙らせることは可能ですわ。醜聞? 名にキズ? そのようなものは、力無き弱者が恐れる妄想に過ぎませんわよ。明日の朝には、この件は跡形もなく塗り潰されていることでしょう。世の中の真実とは、誰が語るかではなく、誰が残すかによって決まるのですから》
その言葉は、俺たち一般人とは住む世界が違うことを、残酷なまでの特権意識と共に突きつける。一族の膿を出すためなら、国家権力さえも指先一つで動かしてみせる。それが鳳凰寺家の、そして鳳凰寺凛という少女が背負う影の重さなのだ。俺が抱いた懸念など、彼女にとっては道端の小石を避けるような些細な問題に過ぎなかった。
《わたくしを、あの日、暗闇の中に突き落とした罪。それを一生、光の届かぬ冷たい檻の中で反芻し続けるがいい。……お父様も、ようやく本来の顔を取り戻されましたわね》
彼女は、眼下の騒乱が去っていくのを、まるで完成された演劇の幕引きを眺める観客のように、満足感とともに受け入れた。俺は、窓枠を掴む手にさらに力を込めた。指先が微かに震えているのは、恐怖からではない。この非現実的な、一族の崩壊と再生の瞬間に立ち会っているという、魂の昂ぶりゆえだ。
眼下では、パトカーが次々と裏切り者を闇の向こう側へと連行していく。その赤色の閃光が、俺の網膜に焼き付き、離れない。あの光の群れが遠ざかるにつれ、病院の敷地には再び、夜の深い帳が降りようとしていた。
この街の夜が明ける頃には、すべてが書き換えられている。一族の裏切りも、醜悪な謀略も、そして。俺という異物が、この場所でお嬢様と共に戦ったという事実さえも。
鳳凰寺家の歴史の裏側に、この一夜の出来事は葬り去られ、何事もなかったかのような顔をして、輝かしい日常が再開されるのだ。
俺は、ようやく窓から手を離し、ゆっくりと深い呼吸を繰り返した。肺の奥深くまで、淀んだ殺意の代わりに、勝利という名の乾いた空気が流れ込んでくる。窓の外では、最後のパトカーが夜の闇へと消え、後に残されたのは、嵐の後のような、痛いほど静まり返った病院の庭だけであった。
俺の戦いは、ここで一つの区切りを迎えたのだ。
ブックマーク、評価をお願い致します。
レビュー、感想等もお待ちしております。
誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。




