第28話 静寂の聖域
北神聖マリア記念病院。神戸の街並みをその足下に跪かせるように、傲然と聳え立つ白亜の病棟。その最上階に位置し、選ばれし者のみが入室を許される鳳凰寺家専用の特別室。先ほどまでこの空間を地獄の釜の底へと変えていた叔父・剛三の醜悪な叫び声、そして鳳凰寺現当主が放った、大地を震わせるような巨神の如き怒号の残響は、今や冷徹な法の番人たちが裏切り者を連行するとともに、潮が引くように去っていった。
当主たる彼女の父親は、一族の汚濁を完全に拭い去り、実の弟である剛三の息の根を社会的に完全に止めるべく、司法の暗部を直接見届けるために現場を離れている。扉の外には、静止画のように微動だにしない鳳凰寺家選りすぐりの黒服たちが数人、沈黙の守護者として立っているだろう。この豪奢極まる死角に取り残されたのは、意識を失ったままの至宝と、それを泥沼の中から引き揚げた一人の無職だけだ。
後に残されたのは、防音設備が完璧に施された厚い壁に何度も跳ね返り、その行き場を失って沈殿した、肺に突き刺さるほど重苦しく密度の高い静寂だけである。一切の不純物や生活感を排除し、鏡面のように磨き上げられた漆黒の大理石の床には、ようやく訪れた夜明けの予兆が幾何学的な模様を描き出し、最高級の医療機器が刻む、死の秒読みよりも正確で情け容赦のない規則的な電子音だけが、時が止まったかのような静寂を虚しく切り裂いている。
「……ようやく、肺の最深部、肺胞の一つ一つにまで、まともな酸素が戻ってきた気がするわ」
俺は、病院内を駆け巡った激走、そして屈強な警備員どもを相手に一本の掃除用モップを頼りに繰り広げた、文字通りの死闘の影響で、全身の細胞に鉛を流し込まれたかのように重くなった体を、ベッドの傍らに置かれた椅子へと預けた。
それは単なる腰掛けではない。一脚で俺の数年分、いや、死ぬまでボロアパートでシステムエンジニアとして働き続けても到底届かぬほどの年収を軽く凌駕するであろう最高級の牛革の芳醇で濃厚な匂いを漂わせた、王者の座に相応しい至高の調度品である。
「さっきまでの、当主と剛三による血塗られた骨肉の争いの決着やら、国家権力の総力を挙げた一斉摘発の瞬間やら……。ほんまに、心臓がいくつあっても足りんわ。……これでもう、お前の不条理極まるボディーガードごっこも、強制終了やな」
広い室内には、鳳凰寺家特有の高貴な残り香と、それとは対照的な、生命の限界を維持しようとする無機質で鼻を突く消毒薬の匂いが複雑に絡み合い、澱んでいる。
「ただのしがない、この間までキーボードを叩いてただけの元システムエンジニアが、一生かかっても一度も経験せんはずの地獄絵図やったわ。人生のイベントフラグ、一気に回収しすぎやろ……」
俺の目の前には、無数の精密な管と、心拍や脳波を監視する複雑な配線に雁字搦めに繋がれ、まるで精巧に作られた物言わぬ白磁の人形、あるいは完成されたまま時を止めた芸術品のように横たわる、凛の本体が静止している。
その薄い胸元は、人工呼吸器の無機質な補助を受けて微かに上下を繰り返しており、彼女の魂が未だこの泥臭い現世に繋ぎ止められている唯一の証を、残酷なほど痛々しく刻んでいる。
《何ですの、その魂が口からだらしなく漏れ出しているような、締まりのない情けない顔は。見ていて不愉快極まりないですわよ》
実体を持たぬ凛が、俺の鼻先数ミリ、互いの睫毛が触れ合うのではないかという、通常の人間関係であれば即座に社会的抹殺を招きかねないほど密接な距離まで、音もなく空間を滑るように顔を寄せてくる。
彼女の霊体は、剛三が屈辱にまみれて手錠を嵌められ、権力の絶頂から奈落の底へと連行される光景を見届けたことで、先ほどまでの激しい怨嗟と殺意に満ちた昏い波動を、完全に霧散させている。
《まるで全ての仕事が終わったかのように、安っぽい三流ドラマの結末のような安堵感に浸りきった表情をして……。全く、覇気が足りませんわね》
彼女は、いつもの不遜で、どこか楽しげな色を湛えた笑みを、その形の良い唇に浮かべていた。それは自分の正義を貫き通し、立ちはだかる全ての障害をなぎ倒した者だけが浮かべ得る、高潔にして勝ち誇った微笑みのようにも見える。
《わたくしがこうして身体に戻り、以前のような、貴方とは次元の違う輝かしい日常に戻るのです。貴方の不器用な役目も、これでおしまいですわね》
彼女の存在は、夕闇の彼方に灯る最後の一光、あるいは夜の帳を静かに照らす冷ややかな月光のような、穏やかで神々しい光をその輪郭に宿している。手を伸ばせば容易くすり抜けてしまうはずの空虚な存在が、今は、この部屋に存在するどの物質よりも濃密に、俺の意識の核へと深く根を張り、魂を支配しているのを痛烈に感じていた。
「あぁ、せいぜい豪華で鼻持ちならない生活に戻ってくれ。俺の方も、明日からはまた地を這うような現実に戻らなあかん。……明日から、またハローワークに通って、あの死ぬほど愛想の悪い窓口のオヤジ相手に仕事を探す日々や。お前に真っ赤に染められた、あの文字の判別もつかん履歴書を書き直してな」
俺は、窓の外から差し込み始めた眩い朝日の光を、焦点の合わない疲れ果てた瞳で眺めながら、ぶっきらぼうに、しかしどこか慈しみを隠しきれない口調で言葉を吐き捨てた。
「……お前がいつまでも透けたまま浮いてるのを見るのも、いい加減飽きたわ。さっさと自分の中に戻れ。俺の仕事は、ここで終わりなんや」
当主である厳格な父親が不在の、この厚い扉に閉ざされた聖域の中だけは、俺とこの傲慢な自称師匠のお嬢様が、家の格も地位も、そして生者と霊体という境界線さえも脱ぎ捨てて対峙できる、最後にして最高の猶予であった。
(剛三は捕まり、お嬢様の誇りも守られた。これでようやく、俺の人生から『鳳凰寺凛』という劇毒が抜けていくんやな)
履歴書の余白がないほどに執拗な朱筆で塗り潰された、あの日々の記憶。それを俺は、世界で一番大切な、だがもう手放さなければならない宝物のように反芻する。
(あとはこの生霊が消えて、ベッドの彼女がその瞳を開けば……。俺はまた、ただの無職のタクミに戻る。ただ、それだけのことや)
俺の内心の独白に応じるように、窓から差し込む朝日の眩い光が、彼女の霊体を優しく包み込んだ。安堵の溜息を深く、長く吐き出した凛の霊体は、その指先から眩い黄金の粒子となって、キラキラと霧散し始める。
《ふん、命じられずとも戻りますわよ! 貴方のその救いようのないほど泥臭く貧相な生活。せいぜい、一人で足掻いてみせることですわね》
消えゆく輪郭の中で、凛は、かつて俺に見せたことのないほど柔らかな、だが相変わらず不遜な微笑をその唇に宿した。
《……貴方の顔、見飽きましたわ》
その最期の言葉とともに、彼女の霊体は完全に黄金の光へと溶け、空気の中に霧散していった。そして、その消失と完全に入れ替わるように。
(……っ!)
沈黙を守っていたベッドの凛の胸元が、大きく、力強く波打った。人工呼吸器の補助を必要とせず、自力で生命の維持を宣言するかのような、第一回目の深き呼吸が再開されたのである。
朝日の光に照らされた彼女の横顔は、もはや物言わぬ人形でなどなかった。
俺は、その力強い生命の脈動を間近で感じながら、同時に自分を包んでいた非日常が、黄金の粒子とともに霧散していくのを感じていた。明日からはまた、擦り切れた靴を履き、窓口で溜息をつく、果てしない現実が始まる。
ようやく訪れた本当の終焉を、俺は静かに、そして耐え難いほどの寂寥感とともに受け入れたのである。
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