第29話 抜け殻の帰還
北神聖マリア記念病院。鳳凰寺家の威信を体現したような白亜の巨塔は、昇り始めた朝日の光を浴びて、眩いばかりの神々しさを放っていた。だが、その光が強ければ強いほど、俺が身を潜める建物の影は濃く暗い。
俺は、黄金の粒子となって霧散していった凛の最期の微笑みを網膜に焼き付けたまま、誰にも気づかれぬよう、音もなく病室を後にした。
病院内は、ようやく訪れた断罪劇の終焉と、主の意識回復という奇跡に沸き立っていることだろう。廊下を走る看護師の足音や、無線で指示を飛ばす警備員たちの怒号が遠くで響いている。もし今、ここで鳳凰寺家の者に捕まれば、面倒なことになるのは火を見るより明らかだった。
しがない無職の男が、なぜ叔父の剛三を追い詰める決定的なドライブレコーダーを持っていたのか。
なぜ、当主である凛の父親と、今まさに目覚めようとしている凛本人しか知り得ないはずの極めて私的な会話の内容を把握していたのか。それらを論理的に説明する術を、俺は持たない。
(生霊のお嬢様に教わりました、なんて口にしたところで、待っているのは感謝の言葉やなくて、精神病院への強制入院か、情報の出所を吐かせるための過酷な尋問やろな)
俺は襟を立て、うつむき加減に通用口へと急ぐ。朝日の眩しさが、徹夜明けの瞳には暴力的なまでに突き刺さる。病院を囲む高い鉄柵を抜け、鳳凰寺という巨大な権力の重圧から逃れるように、俺は表通りへと足を踏み出した。
背後で、巨大な門が重々しい音を立てて閉まる。これでいい。俺という異物は、この物語から静かに退場すべきなのだ。
駅までの道のりは、通勤や通学を急ぐ人々で溢れ始めていた。日常の喧騒。それは、つい数時間前まで俺が身を置いていた、血と怨嗟と超常現象が入り混じった非日常とは、あまりにかけ離れた世界だった。俺は、新開地の薄汚れた安ホテルを潜伏先としていた数日間を思い返す。ようやく、あの殺風景な仮宿を払い、本来の居場所へと戻る時が来たのだ。だが、その足取りは羽よりも重い。
錆びついた外階段を上り、建付けの悪さゆえに開けるたびに耳障りな悲鳴を上げる、あのボロアパートのドアを引く。
視界に飛び込んできたのは、平穏とは程遠い、蹂躙の痕跡だった。
剛三の手の者たちによって徹底的に破壊された、俺の生活の残骸。
エンジニアとしての俺の命綱であったメインPCの液晶は、その心臓部を鋭く貫かれ、黒い影を曳きながら沈黙している。床にぶちまけられた技術書は、知を繋ぐ背表紙を無残に裂かれ、俺が社会への復帰を誓って書き連ねた履歴書の束は、まるで踏みにじられた意思のように無残に散らばっていた。
刃物で執拗に切り刻まれた畳の傷口からは、中身が絶望を吐き出すように剥き出しになり、そこにはかつて交わしたささやかな祝杯、その中身であったアルコールの酸えた死臭が、古い埃の匂いと混じり合って停滞している。
いつもなら。
この地獄絵図のような惨状を前にしても《まあ、なんという浅ましい光景ですの。タクミ、さっさと片付けなさいな》と、耳に馴染んだあの傲慢で、不協和音めいた凛の声が、この静寂を打ち破ってくれたはずだった。あるいは、俺の絶望を鼻で笑いながら、その透明な指先で《不採用。次はもっとマシな人生を書きなさいな》と、俺を突き動かすあの気配がそこにあるはずだった。
だが、今の俺を待っていたのは。
耳に馴染んだ、あの賑やかで愛すべき不協和音さえ失われた、暴力的なまでの無音であった。
玄関で靴を脱ぐことさえ忘れ、俺は部屋の真ん中で、ただ立ち尽くす。
カーテンの隙間から差し込む朝日の光が、破壊されたPCの破片を冷酷に照らし出している。そこには、彼女が好んで浮遊していた定位置も、俺のデスクを占領していた尊大な影も、何一つ残っていない。
先ほどまで、俺の隣には確かに鳳凰寺凛という強烈な奴が存在していた。たとえ彼女が実体を持たぬ存在であったとしても、その言葉は俺の心を揺さぶり、その存在はこの狭く汚れた空間を、彼女という鮮烈な色彩で塗り潰していたのだ。
「……ただいま」
独り言として吐き出した言葉は、反響することもなく、安っぽい壁紙に吸い込まれて消えた。
彼女という、あまりにも強烈で、あまりにも鮮やかな劇毒のような色彩。それが唐突に、そして永遠に欠落したこの部屋は、破壊される前よりもずっと、ひどく壊れて見えた。彩度を奪われた古いモノクロ映画のセットのように、薄っぺらで価値のない空間に成り果てていた。
俺は、立ち上がる気力さえも、指先から零れ落ちていくのを感じた。
膝から崩れ落ちるように、切り刻まれた畳の上に腰を下ろす。以前の俺なら、これが当たり前の日常だったはずだ。孤独を飼い慣らし、ディスプレイの光だけを友としていた日々。かつての俺は、この静寂こそが誰にも邪魔されない安らぎだと信じていた。
なのに、今はどうだ。この狭い六畳間が、まるで見知らぬ荒野のように広く、凍えるほどに寒々しく感じられてならない。破壊された部屋の惨めさよりも、彼女がいないという事実の方が、俺を鋭く切り刻んでいた。
(……静かすぎるわ)
朝の光に身を晒しながら、俺は深く項垂れ、膝を抱えた。
彼女の魂は、あの日差しの中で肉体へと還った。それは俺たちが必死に目指した、最高の結果であったはずだ。彼女は本来あるべき鳳凰寺の令嬢という高潔な立場に戻り、俺のような、日銭を稼ぐことさえままならない男とは、二度と交わることのない地平へと去った。
それなのに、胸の奥を抉るようなこの喪失感は何だ。
寂しい、悲しい、そんなありふれた語彙では、この胸に空いた巨大な風穴を表現するにはあまりに軽すぎる。それは、自分の体の一部を無理やり引き剥がされ、そこから絶え間なく熱が逃げていくような、鈍い痛みを伴う欠落感である。
彼女に朱筆で汚された履歴書。彼女に無理難題を押し付けられた、あの地獄のような日々。
俺を罵倒し、振り回し、傲慢に振る舞いながらも、時折見せる年相応の少女のような微かな微笑。それらすべてが、今の俺にとっては、この冷徹な沈黙よりもずっと、生の実感に満ち溢れていた。
(終わったんやな。……ほんまに、全部。あの夢みたいな、狂った時間は)
視界が、この部屋の殺風景な破壊の跡に慣れてくる。
机の上に放置されたままの踏みにじられた履歴書。そこにはもう、彼女のいたずら書きも、修正の指示も入ることはない。彼女が《不採用。書き直しなさいな》と笑いながら突き返してくることも、もう二度とないのだ。
俺は重い瞼を閉じ、逃れるように意識を深く、深く沈めていった。耳元で、今にもあの声が《いつまでそうして座っているのです。見苦しいですわよ、タクミ》と、不機嫌そうに響くのではないかという、叶わぬ淡い期待を抱きながら。
だが、何度意識を研ぎ澄ませても、聞こえてくるのは遠くを走る通勤電車の音と、古ぼけた冷蔵庫の唸るような振動音だけだった。
彼女という、世界で一番贅沢で、一番鼻持ちならない光が消えた後。
俺の部屋に残されたのは、以前よりもずっと濃くなった出口のない深い喪失の影だけだ。
俺は、ようやく訪れたはずの平穏を、耐え難いほどの寂寥感とともに受け入れるしかない窓の外では、何も知らない新しい一日が始まろうとしており、俺は一人、色彩を失った世界に取り残されていた。
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