第30話 朱色の叱咤
俺は深く、肺の底に溜まった澱をすべて吐き出すかのように長い溜息をつくと、無残にひっくり返った安物のテーブルを、断末魔のような軋み音を立てさせながら強引に引き起こした。
ガタつく脚を無理やり固定し、その場に力なく腰を下ろす。視界に入るのは、剛三の放った追手たちが残していった、剥き出しの狂気と悪意の残骸ばかりだ。
(……ハハハ、笑えるな。生霊がいなくなった途端に、俺の城はただのゴミ溜めかよ)
胃袋の奥は空っぽで、まるで心臓のすぐ横に巨大な風穴が開いて、そこを冷たい隙間風が絶え間なく吹き抜けていくような感覚だった。
俺は周囲のガレキをかき分け、奇跡的に中身が漏れていなかった発泡酒の缶と、賞味期限が数日前に切れて石のように硬化した乾燥イカの袋を、まるで泥の中から宝探しでもするかのように拾い上げる。
プルタブを引き絞れば、プシュッという、どこか情けない音が虚しく部屋の四隅に吸い込まれて消えた。
俺は無意識のうちに、身体の左側をぽっかりと空けて座っていた。
十センチ、いや五センチでもいい。少しでも横にずれれば、そこにはつい先ほどまで、あの傲慢不遜で鼻持ちならない、それでいて透き通るような美しさを持っていた令嬢が、当然のような顔をして滞空していたはずなのだ。
彼女はいつも、そこで優雅に脚を組み、俺の堕落しきった私生活を、まるで排水溝に詰まった汚物でも見るかのような目で見下ろしていた。
「……あーあ、飲もう。今日はもう、全部忘れて、このガレキの中で泥のように眠ってやる」
ぬるくなった液体を喉に流し込む。
いつもなら、この瞬間に耳元で、あの凛とした、しかし猛毒を含んだ声で言われていたであろう言葉が脳裏をよぎる。
《相変わらず、つまみが貧相ですわね。そのような、どこの馬の骨とも知れない乾燥した物体を後生大事に口にしているから、貴方の思考はいつまでもドブネズミのように低俗なのですわ。もっと高貴な栄養を摂取しなさいな、タクミ!》
毒を含んだ涼やかな声が、俺の鼓膜を容赦なく叩きにくるはずだった。
その高飛車な罵倒を聞くたびに、俺はこう反論するのが常だった。
「うるせえな、これが庶民の至高の晩餐なんや! 文句があるなら自分で何か作ってみろや! 出来んくせに!」
口角に泡を飛ばして言い返す。それが、俺たちの奇妙で、それでいて不思議と充実していた日常の一部だったのだ。
しかし、今の俺の左側にあるのは、埃が朝日に照らされて無意味に舞っているだけの冷え切った虚無だ。
失ってから初めて、あのわがまま放題で、手のかかる、それでいて誰よりも誇り高かった生霊が、俺の空っぽだった日々のすべてを鮮やかに塗り潰していたのだと思い知らされる。
彼女の不在という事実は、遅効性の毒のように、ゆっくりと、しかし確実に俺の胸を締め付けていった。
あの日差しの中で黄金の輝きとなって消えた彼女。その光が消えた後の世界は、まるで古いテレビの色彩設定を最低まで下げたみたいに、灰色で味気ない、退屈な記録映像に変わってしまった。
(……一人になってしもうたな。あんなに騒がしかったのが、嘘みたいや)
俺は深い溜息とともに、ぐったりと項垂れた。
その時だ。投げ出した視線の先に、一枚の白い紙が目に留まる。
脚がガタついた古いテーブル。剛三の部下たちによる破壊の嵐を、どういうわけか奇跡的に逃れたその端に、それはひっそりと存在感を放って残されていた。
それは、俺が書き上げ、彼女によって幾度となく突き返された履歴書だった。
俺は震える指先で、その紙を掴み上げる。
埃を被り、端っこがわずかに丸まったその紙面には、俺が自暴自棄になって適当に書き殴った経歴を、一切の容赦なく真っ赤に塗り潰すかのような、執拗なまでの添削が躍っていた。
《字が汚すぎますわ。ミミズがダンスを踊った跡のような乱雑な文字で、一体誰が貴方の内面を見ようと思いますの? 即座にやり直しなさいな》
さらに、その下には追撃のような言葉が並ぶ。
《鳳凰寺の協力者が、この程度の価値だと思われては私の名誉に関わりますわ。もっと自分の置かれた立場と責任を理解しなさい》
そして、最後の一行には、彼女の魂が叫んでいるような力強い筆跡でこう記されていた。
《「もっと高い志を、自らの魂を削り出したような強い言葉を示しなさい。不採用ですわ、タクミ》
紙面を埋め尽くした鮮やかな朱色の跡。
それはまるで彼女の血管を流れる熱い血のように、無機質な紙の上に生命の脈動を刻んでいた。
脳裏に、あの凛の不敵な微笑みが、そして俺の心臓を鋭く射抜くような厳しい眼差しが、ありありと蘇ってくる。
(……なんやねん、これ。勝手におらんようになったくせに、文句だけは一人前か。生霊のくせに、本体に戻っても性格の悪さは据え置きなんか?)
これこそが、彼女が確かにこの場所にいた証だ。
俺と一緒に戦い、俺をこっぴどく叱り飛ばし、どん底で腐り果てていた俺の襟首を掴んで、無理やり光の当たる場所へ引きずり上げた、彼女の魂の欠片そのものだ。
「……はいはい、わかった、わかった。お嬢様は、まだ俺のこのザマに納得してないってわけやな。地獄の果てまで追いかけてきそうな勢いやんけ」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
彼女は去った。肉体を取り戻した本物の鳳凰寺凛として、俺のような、今日を生きるのに必死な一般人とは一生縁のない、はるか高い場所へと還っていった。
でも、彼女が俺に遺したこの”朱色”は、今もこの紙の上で、俺を厳しく熱烈に叱咤し続けている。
不採用か。上等や。あんたが認めざるを得んような、ぐうの音も出ぇへんほど最高の真っ白で完璧な人生を、今度こそ書き上げたらぁ!
俺は、ヨレヨレになったシャツの袖で、熱くなった目元を力任せに拭った。
そして、その真っ赤に染まった履歴書を、まるで世界で唯一の宝物か、あるいは守り刀でも扱うように、胸のポケットへと深く深く、大切に仕舞い込む。
指先に伝わる紙の硬い感触が、冷え切っていた俺の身体に、再び前を向くための爆発的な熱を送り込んでくる。
俺は力強く立ち上がる。
破壊された部屋の惨状を振り返る必要はない。今の俺には、過ぎ去った思い出に浸ってメソメソと泣き言を言っている暇なんて、一秒も残されていないんだ。
俺は建付けの悪いドアを、壊れんばかりの勢いで開け放った。
外には、眩しいほどの清々しい朝日が降り注いでいる。
俺は錆びついた階段を一気に駆け下りた。潮風が鼻先をくすぐる、愛すべき神戸の街へと力強く踏み出す。
坂を一歩、また一歩と下りていくごとに、心臓の鼓動が速まっていく。
俺の住むアパートは、神戸でも有数の坂の街にある。ここから平地へ降りるだけでも一苦労だが、今日の俺の目的地は、さらにその先、雲を掴むような高台にある場所だ。
目指す場所は、ただ一つ。
俺は再起を誓い、歩みを早める。
向かう先は、この街ならではの空を突き刺すような急勾配の坂道。
その頂上で、厳しい現実という名の巨大な壁が待ち構えている場所だ。
ハローワーク。職業安定所。
胸のポケットにある、あの真っ赤な添削の重みが、歩くたびに胸板を叩く。
それが、折れそうになる俺の心を、どこまでも厳しく、そして優しく律し続けている。
(見とけよ、お嬢様。あんたが採用と認めざるを得ないくらいのもんを完成させたるからなな)
坂道の先に広がる、どこまでも高く青い空を仰ぎ見ながら、俺は一度も振り返ることなく、その険しい斜面を下り続けた。
色彩を失っていたはずの世界に、今、俺の力強い歩みとともに、一筋の熱い朱色が確かな光となって戻り始めつかのようだった。
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