第31話 背筋を伸ばした不採用通知
ハローワークの自動ドアが、静かな動作音とともに滑らかに左右へと開く。その瞬間、俺を迎えたのは、冷房が隅々まで行き届いた快適な空気に包まれる。
視界に広がるのは、手入れの行き届いた明るいベージュのフロアタイル。そこには機能美を感じさせる背もたれの高い椅子が整然と並び、今までの役所が持っていた陰鬱な空気など、微塵も感じさせない。壁に貼られたインフォメーションの数々も、整理整頓されたデザインで統一されており、そこには『働く人を支援する』という現代的な活気が満ちていた。
俺は、その洗練された空間の中で、自分の場違いな居心地の悪さを感じながら、指定された番号の椅子へと腰を下ろした。
(……ハハハ、めっちゃ綺麗やんけ。俺の心の中のゴミ溜めみたいな風景とは大違いや。最新のシステムが動いとる城に、お門違いの村人が迷い込んだみたいやな)
周囲を見渡せば、リクルートスーツに身を包んだ若者から、落ち着いた私服のベテラン層まで、誰もが清潔な空間に相応しい真剣な面持ちでタブレットや書類を見つめている。
俺は負けじと、ボロボロのシャツの上から胸のポケットを掌で押さえた。そこには、あのお嬢様……凛に、手加減という言葉を辞書から削除したような勢いで真っ赤に書き換えられた、あの呪いの履歴書が収まっている。
朱色のインクが鮮やかにのたうち回るその紙は、この清潔なオフィスの中でさえ、異様なほどの熱量を持って俺の胸板を叩き、『お前はこのままでいいのか』と激しく問いかけてくるようだった。
やがて、天井のスピーカーから、明瞭で落ち着いた合成音声が響き渡った。
「番号札、三十五番の方。四番相談窓口へお越しください」
その声は、広々としたロビーに反響し、俺の耳の奥で、運命を切り拓くための合図のように凛と鳴り響く。
俺は、膝の上に置いた両手を強く握りしめてから、ゆっくりと、しかし確実に自分の足に力を込めて立ち上がった。
四番相談窓口。
そこに座っていたのは、これまでに膨大なキャリアの再構築を冷静にサポートしてきたのだろう、理知的な眼鏡の奥に鋭い光を宿した中年の男性職員だった。
彼は、俺の雇用保険受給資格者証を受け取ると机のパソコンで個人情報を確認する。
そこには、俺がシステムエンジニアとして、一社だけに骨を埋める覚悟で、キーボードの刻印が消えるまで叩き続けてきた、泥臭くも真面目な戦いの足跡が刻まれているはずだった。
しかし、職員から返ってきた言葉は、この明るい空間に不釣り合いなほど、現実の厳しさを突きつけるものだった。
「……田村拓己さん、ですね。前職はシステムエンジニア。一社に長く貢献してこられた。その実績自体は、非常に素晴らしいものです。ですがね、田村さん。ここからは現実的なマッチングのお話になります」
職員は、デスクに置かれた最新の液晶モニターから視線を外し、俺の心の防壁を易々と貫通するような、曇りのない瞳を向けてきた。
「今のIT業界の変化の速度は、貴方が考えている以上に凄まじい。一度この現場から離れ、ブランクを作ってしまったということは、それだけで最新の技術スタックから取り残されているという評価になりかねないんです。以前と同等の条件での復帰は、正直に申し上げて極めて困難だと言わざるを得ません。もっと今の自分の市場価値を客観的に捉えて、条件を大幅に引き下げていただかないと、こちらとしても紹介できる案件が限られてしまいます」
淡々と、そして論理的に告げられる市場価値の低下。
それは、俺がこれまで必死に、ボロボロになりながらも守り続けてきたエンジニアとしての自負という最後の壁を、最新の解析ソフトで無効化するような、あまりにも残酷な正論だった。
俺は思わず、言葉を失う。論理的な指摘であればあるほど、反論の余地が見つからず、言葉が喉の奥で氷のように固まってしまった。
(……あぁ、やっぱりそうなるんか。俺が積み上げてきたもんは、賞味期限切れのプログラムと同じやったってことか)
視線が、無機質に点滅するカーソルの動きへと力なく逃げ出した。
明るく開放的な窓口のはずなのに、俺の体はどんどん縮こまっていく。
背中には重たい鉛でも背負わされたように丸まり、首は縮こまり、まるで今すぐこの眩しい場所から、デジタルデータの塵となって消え去りたいと願う臆病な小動物そのものになっていた。
しかし、絶望が俺の全身を支配しようとした、まさにその瞬間だった。
耳元で、懐かしくも、あるいはたまらなく腹立たしい、あの透き通るような涼やかな風が、強烈な勢いで吹き抜けた。
《相変わらず、情けない恰好ですわね。その猫背を即座に直しなさいな!》
脳内で響き渡ったのは、間違いなく凛の声だった。
彼女はもう、ここにはいない。生霊として俺の部屋の主導権を握り、俺の冴えない生活を隅から隅までダメ出ししていたあのお嬢様は、もう元の肉体に戻ったはずだ。
なのに、その叱咤は、どんな電子的な警報よりも鋭く、眠っていた俺の神経を一本ずつ叩き起こしていった。
《鳳凰寺の下僕として、そのようなドブネズミのごとき卑屈な姿を見せるとは……私の名誉が泥を塗られる思いですわ。もっと誇り高く、天を突くような鋭さで背筋を正しなさい。タクミ!》
俺の体は、まるで強力な電流を流されたように、ビクンと大きく震えた。
幻聴だ。そんなことは、俺自身が一番よく分かっている。
それでも、あいつにだけは、こんな無様な姿を絶対に見られたくないという思いが、心の奥底からマグマのように噴き出してきた。
(……あー、ほんまうるさいわ。おらんようなっても、文句のキレだけは仕様変更なしやな。ほんまに、どこのシステムまで俺を追いかけてくるつもりやねん、あのお嬢様は!)
俺は心の中で精一杯の強がりの悪態をつきながら、ぐにゃりと情けなく曲がっていた背骨を、まるで特注の鋼鉄の芯を無理やり通したみたいに、下から上へと一気に引き起こした。
パキパキパキ、と鳴る関節の硬い音。それが、俺の中の錆びついていたエンジンのピストンが、青白い火花を散らして爆ぜる音に聞こえた。
俺は丸まっていた両肩をグッと力強く開き、胸を張り、逃げ出しそうになっていた視線を真っ直ぐに、職員の瞳の奥へとぶつけた。
職員が、まるで見えない衝撃波にでも晒されたかのように、少しだけ驚いた表情で目を丸くするのが分かった。
「……おっしゃる通り、私にブランクがあるのは事実です。自分が今、市場において非常に厳しい状況にあることも重々承知しています」
俺の口から出た声は、自分でも驚くほど深く低く、それでいて一本の矢のように真っ直ぐな響きに変わっていた。
つい先ほどまで漂っていた湿っぽさや卑屈さは、もうどこにも見当たらない。
「ですが、私が前の会社で心血を注いで積み上げてきたロジックも、エンジニアとしての責任感も、それだけは決してアップデートで消えるものではありません。自分自身を不採用だと決めつけて、このまま腐って生きていくことは、もうしたくないんです。私を本気で信じて叱ってくれた相手に、胸を張れる生き方をしたいと思っています」
一度言葉を切ると、俺はデスクに向き直り、職員へと真っ向から対峙した。
職員の表情から、事務的な相談業務という仮面が見る間に消え失せ、一人の人間としての驚きと、技術者への微かな敬意が混じり合うのが肌で感じられた。
「条件がどれほど厳しくても構いません。泥に塗れてでも、一から這い上がれる場所を、プロであるあなたの目で選んで、私に紹介してください。私のシステムエンジニアとしての最後の意地、まだ使い切ったつもりはありません!」
職員は、まるで初めて本物の”意志”を目の当たりにしたかのように、じっと俺の顔を凝視した。
彼は深く、重々しく一度頷くと、まるで何かに取り憑かれたような猛烈な速さでキーボードを叩き始めた。
カタカタカタ、カカッ、というリズミカルで力強い音が、俺の新しい人生のソースコードを一列ずつ書き換えていく音に聞こえた。
「……分かりました、田村さん。失礼しました。今のあなたの目は、少なくとも、ただ流されているだけの敗北者の目じゃありませんね。これほどの熱意を見せられて、こちらが適当な対応をするわけにはいきません。全力で応えさせてもらいますよ」
モニターに次々と映し出される、条件は過酷だが挑戦しがいのある求人情報の数々。
それらは全て、俺という物語の新しい章を、血と汗で書き始めるための真っ白で美しい原稿用紙のように見えた。
(見とけよ、お嬢様。あんたが、ふふん、当然ですわね、って鼻で笑いながら、それでも少しだけ満足そうに頷いてくれるような、最高の俺を今度こそ完成させてみせるからな)
窓口を後にする俺の背筋は、窓から差し込む眩しい日の光を正面から受けて、どこまでも真っ直ぐに、そして誇り高く天を指していた。
胸ポケットにある、あの朱色の履歴書の感触。
それが、もう二度と冷めることのない俺の心の火を、いつまでも熱く、激しく燃やし続けていた。
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