第32話 見えない網
職を求める困窮者の吐息が澱む公共職業安定所の自動扉を抜け、俺は三宮の喧騒へと足を踏み出した。
初夏の強い陽光が、不自然なほど白い叩きを焼き、逃げ場のない熱気が喉の奥にまとわりつく。生ぬるい風が吹き抜けるたび、街路樹の葉が擦れる音さえも、俺を追い詰める嘲笑のように聞こえてならなかった。行き交う人々は皆、目的があるかのように足早に去り、職を失い、行く末を見失った俺一人だけが、この焼き付くアスファルトの上に置き去りにされているような錯覚に陥る。
その時、懐の携帯電話が、心臓を直接掴むような激しい律動で震え出した。
画面に浮かんだのは、元同僚の佐藤の名であった。
俺は直感的に、喉の奥に冷たい氷を流し込まれたような、言いようのない不吉な予感を覚えた。
(……佐藤からか。珍しいな。あいつ、二度と連絡なんかせんと思っとたけどな)
通話の釦を押し、耳に当てる。聞こえてきたのは、普段の彼からは想像もつかない、ひどく狼狽し、隠しきれぬ苛立ちを帯びた掠れ声だ。
「……田村か。お前、今どこにおるんや。いや、どこにおっても一緒か。……お前、自分が今、どないな酷い状況に放り込まれとるか、分かって動いとるんか?」
受話器から漏れる佐藤の声には、これまでの平穏を無理やり剥ぎ取られたような焦燥が滲んでいた。
俺は行き交う人々を避け、古びた建物が立ち並ぶ狭い路地の煤けた壁に背を預けた。壁に染み付いた油と埃の臭いが、俺の現状を象徴しているようで胸が塞がる。
「久しぶりやな、佐藤。急にどないしたんや、そんな血相変えて。俺なら今、ちょうど職安を出たとこやけど……」
「仕事の話なんか、もうどうでもええ! 田村、俺の話をよう聞け。……鳳凰寺や。あの鳳凰寺いう家が、お前の身辺を執念深く、それこそ蟻の這い出る隙間もないくらいに洗い倒しとるんや」
鳳凰寺。その名を聞いた瞬間、背筋を一本の太い氷の柱が突き抜けたような感覚に襲われた。
神戸の街を根底から牛耳る、底知れぬ権力。それは、俺のような名もなき技師が抗えるような、生易しい存在ではない。名門の誇りという名の暴力が、音もなく俺の首元に刃を突き立てている。
電話の向こうで、佐藤が落ち着きなく吐息を漏らす音が聞こえる。
「あいつらが張り巡らせとる情報網は、俺らの想像をはるかに超えとるぞ。お前のこれまでの足跡、人脈、食うとるもんから寝とる場所まで、全部があの巨大な網に掛かり始めとるんや」
「……なんでそこまでされなあかんねん。俺はただ、やるべきことをやっただけやぞ。正当な理由があって、あの日も」
「それが一番の問題なんや、田村。思い出せ。……あの日、お前が俺のとこに持ち込んできたアレや。深夜の裏門で、泥まみれになって、あんな惨めな嘘までついて俺に押し付けた、あの塗料片や」
佐藤の刺すような言葉に、記憶の底に沈んでいたあの夜の光景が、鮮烈な色彩を伴って蘇ってきた。
雨に濡れた事故の現場。逃げ去った高級車。
俺はあの時、誇りをかなぐり捨て、アスファルトに這いつくばって、飛び散った微細な塗料の破片を一つ拾っったんだ。その破片こそが、巨大な権力の綻びを突く唯一の武器になったのは確かだった。
(……待て。あの時、俺は。危険を察知して、佐藤にアレを捨てろと言うたはずや。あいつの身に火の粉が飛ばんように、証拠はすべて消せと。……それなのに、なんで今、あいつはその話を持ち出しとるんや)
俺が言葉を失っていると、佐藤は吐き捨てるように言葉を継いだ。その声は、鋭く、剥き出しの敵意さえ混じっている。
「お前に言われた通り、捨てようとしたわ。いや、捨てたふりをしただけやったんかもしれん。……俺の中の技術者としての性分が、あの未知の組成を持つ欠片を放っておけなかったんや。それを、奴らに見抜かれた」
佐藤は一度、何かを飲み込むように言葉を切り、周囲を警戒するように声を潜めた。その沈黙が、彼が置かれた異常な緊張状態を物語っている。職を失う恐怖、生活を壊される怯え。それらすべてが、伝わってくる。
「あいつらは、俺の机の奥底まで辿り着きよったんや。鳳凰寺の差し金と思われる人間が、俺の隠し場所を正確に指し示して現れた。……あいつらは、あの塗料片を突きつけ、それがどこから来たのか、誰が持ち込んだのか、一切の逃げ道を塞ぐような理詰めで問い質してきたんや」
佐藤の声は、恐怖と、そして友を裏切らざるを得なかった断腸の思いで、今にも千切れそうだ。
理屈と数値こそが世界の正解だと信じてきたあいつにとって、この目に見えぬ巨大な暴力は、どれほどの重圧であったのか。緻密に計算された絶望を突きつけられ、論理の城壁は脆くも崩れ去ったのだ。俺が「捨てろ」と命じたはずのその一欠片が、今や友を縛り上げる鎖となっていた。
(……くそ、俺の詰めの甘さが、佐藤を地獄に引きずり込んだんか。あいつ、真面目すぎるが故に、あの証拠を完全に消去しきれんかったんか。鳳凰寺は、俺たちが手を切ろうとしたその痕跡すら、逃さず掴みおった)
俺の胸の中で、煮えたぎるような憤りと、出口のない無力感が渦を巻く。
あの日、必死の思いで行った分析依頼さえも、あの一族にとっては、自らの聖域を汚す不届きな部外者の行いとして、とうに記録されていた。俺たちがどれだけ足掻こうとも、奴らの掌の上で転がされているに過ぎない。
「田村……堪忍な。俺はもう、これ以上は突っぱねられへんかった。俺にも守るべき立場があるんや。妻子もおる。お前一人のために、すべてを投げ出す覚悟は、俺にはなかった。奴らは、俺が隠し持っていたことを弱みとして、徹底的に揺さぶってきたんや」
佐藤の声は、深く、暗い淵に沈み込んでいた。かつての戦友を売ったという自責の念が、その短い言葉に凝縮されている。それを責める権利は、俺にはない。俺が捨てろと言った時に、力ずくで奪い取ってでも処分すべきやった。
「お前が今朝、職安で何を言うたかまで、あいつらは知っとる様子やった。逃げろなんて言わん。そんなもん、今のあいつら相手には通用せえへん。ただ、覚悟しとけ。奴らは、お前を単なる目撃者としてやなくて……排除すべき障害として認識し始めとるぞ」
佐藤の警告は、重苦しい余韻を残したまま、一方的に途切れた。
耳に残るツゥツゥという無機質な音。
俺は、どこまでも青く広がる五月の空を見上げた。しかし、そこにはもう、清々しさなんて欠片も残っていなかった。空の色さえも、鳳凰寺の冷淡な瞳の色に染まっているかのように見える。
(……ふん、執念深いんはあのお嬢様譲りか。ええわ、やってみい。佐藤が捨てきれなかったあの塗料片の報い、俺が全部引き受けたるわ。こっちは最初から失うもんも、守るべき肩書きも何もない、ただのエンジニアや。あんたらがどれだけ巨大な網を張ろうが、俺は俺のやり方で、その網の目を食い破ったる)
俺は、震えそうになる指先を強く握りしめ、再び歩き出した。
もう、背中を丸めて歩くのは終わりだ。
佐藤が守り、そして奴らに奪われたあの塗料片。その事実は、今の俺の心の中に、消えることのない反撃の火を灯していた。
鳳凰寺家という巨大な怪物。その喉元に食らいついてでも、俺は自分の人生を、そしてあいつと過ごしたあの時間を、誰にも汚させはしない。
神戸の街並みが、まるで巨大な牢獄の格子のように見え始めたとしても、俺の足取りは、先ほどよりもさらに深く、力強く、この街の地面を踏みしめていた。
どこかで見ているであろう監視者共に向けて、俺は不敵な笑みを浮かべて見せた。ここからが本当の闘いや。どれほど高い壁であろうとも、蟻の一穴が城を崩すことだってあるはずや。俺は、俺が信じた道を、この煤けた靴で歩み続けるのみなのだから。
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