第08話 満員電車の不可侵領域
証拠の破片という、あまりにも重すぎる真実の断片を、使い古して角が擦り切れた安物の財布にねじ込んだ俺たちは、阪神電車の改札を潜った。
駅のホームへ上がる階段の途中で、隣を浮遊する凛が《この機械にわたくしの魂が吸い込まれることはありませんの?》などと、文明の利器を化け物か何かと勘違いした時代錯誤な心配を口にする。
その声は俺の鼓膜を直接揺らすが、周囲の喧騒にかき消され、誰にも届くことはない。
そんな彼女を無視してホームへ上がると、ちょうど昼下がりの特急列車が、重々しい金属音を響かせ、線路を軋ませながら滑り込んできた。
(この塗料片が鳳凰寺の車のもんやと証明するには、それ相応の機関に持ち込まなあかん。せやけど、今の俺がまともに動いたところで、その瞬間に鳳凰寺の権力に握り潰されるんは目に見えとる。まずはこの欠片がこれ以上劣化せえへんよう、遮光性の高いピルケースでも手に入れて保管せなあかんな……。そないなしょうもない買い物のために、なんでこんな惨めな気分で電車乗らなあかんねん)
車内は、買い出し帰りの主婦や、タブレットを睨みつける移動中の会社員で、そこそこの混雑を見せている。
独特の人の体温と空調の乾いた風が混ざり合った、淀んだ空気が俺の鼻を突いた。
(最悪や。座れるかどうかの瀬戸際。この状況で、横に目に見えへん、それも自分を世界の中心やと思い込んどる我儘お嬢様連れとるんは、精神的な拷問やないか。目的地着くまでに、俺の理性が蒸発してしまわへんか、それだけが心配や)
俺は血眼になって空席を探し、運良く連結部近くのベンチに、たった一箇所だけ残された隙間を見つけた。
周囲の求職者やサラリーマンたちの視線を出し抜くようにして、そこへ滑り込むように腰を下ろす。
ようやく重い荷物と自重から解放され、一息つけると思ったその瞬間、隣の空間から氷河の底を這うような冷気がじわりと這い寄ってくる。
視線を向ければ、凛は座席の上にふわりと浮いたまま、愛用の扇子を優雅に広げて高貴な鼻先を覆い、露骨に嫌悪の表情を浮かべて俺を睨みつけていた。
《タクミ、何を平然としておりますの。この下俗な布切れの上に、わたくしを座らせるつもりかしら》
彼女の言葉は、まるで真冬の池に突き落とされたかのような鋭い冷たさを持って、俺の耳元を突き刺した。
俺は周囲に不審がられないよう、一点を見つめたまま、腹話術師も驚くような技術を駆使して、唇を最小限に動かし応戦する。
「贅沢言うな。これでも特急やぞ。地べた這いずり回って歩くより、何倍もマシやろが。少しは世間の常識、あるいは忍耐っちゅう高尚な概念を学んでくれや」
だが、俺のそんな涙ぐましい努力や、社会への配慮など、この世間知らずな生霊お嬢様には一ミリも届かない。
彼女は、まるでこの車両そのものが巨大なゴミ箱であるかのように、周囲の乗客たちを蔑むような目で見回した。
その視線が、俺の首筋に染みついたヨレヨレのスーツの汚れに止まったとき、彼女は今日何度目か分からない深い溜息を吐き出した。
《問題はそこではありませんわ。見なさいまし、あの脂ぎった大男が、獲物を狙う獣のような浅ましい足取りでこちらへ向かってきますわよ!》
凛が鼓膜を突き破らんばかりの悲鳴を上げた。
見れば、部活帰りとおぼしき、全身から汗の蒸気を立ち昇らせた大柄な学生が、凛の浮いている”空席”を目がけて、その巨大な質量を預けようとしていた。
物理法則が通用しない彼女と、物理的な質量そのものである学生。
もし二人が重なれば、凛のプライドは粉々に砕け散り、俺はその後の八つ当たりで灰にされるに違いない。
(やめろ。座んな。そこには鳳凰寺家の至宝、いや、めちゃくちゃ扱いづらい核弾頭級の生霊が鎮座しとるんや。もし重なったりしたら、俺がどんな超常的な祟り受けるか分かったもんやない!)
俺は反射的に、隣の席に私物の中身が詰まって角が歪んだボロボロのカバンを力一杯叩きつけた。
ドン、という鈍い音が車内に不自然に響き渡り、スマートフォンの画面に没頭していた乗客たちの視線が一斉に俺へと集中する。
「あ、すみません。連れが、連れがすぐ来るんです。酷い腹痛で、今あそこのトイレに籠っとるんです。せやから、ここは絶対空けといてください」
学生は、腰を浮かしかけたまま怪訝そうな顔をして動きを止めた。
俺の必死さを通り越してどこか狂気を孕んだ形相と、カバンを掴む手の不自然な震えに気圧されたのだろう。
彼は小さく鼻を鳴らし、『変な奴』とでも言いたげな視線を俺の額に刻みつけると、逃げるように隣の車両へと去っていった。
その背中がドアの向こうに消えるまで、俺は呼吸を止めていた。
(ふう、死ぬかと思た。……って、俺は何しとんねん。これやったらただの公共の場で座席独占しとる迷惑極まりない不審者やないか。無職の俺に、これ以上の社会的レッテル貼り付けんといてくれ。この車内の空気、もはや毒ガスみたいに俺の肺を圧迫しとるやろが!)
周囲の乗客から向けられる、冷ややかな、あるいは、関わると不幸になるという確信に満ちた憐れみの視線。
それが、幾千もの針となって俺の全身を切り刻む。
だが、凛はそんな俺の精神的な崩壊などどこ吹く風で、空中で優雅に細い足を組み、ふんぞり返るようにして自分の領土を占領した。
《当然の処置ですわね。貴方の下民なりの浅知恵、ほんの少しだけ評価して差し上げますわ。ですがタクミ、まだ安心はできませんわ。あの向こう側に座っている老婆の買い物袋を御覧なさい。あれ、泥のついたネギが剥き出しで突き出ておりますわ。わたくしの清らかな服に触れそうですの。もっとこちらへ寄りなさいまし》
「これ以上寄ったら、物理的にお前と俺が混ざり合うやろが! 隙間なんか一ミリも残っとらんのや。俺の肩、もう窓ガラスにめり込んで、外の景色と一体化しそうなんやぞ!」
俺は顔を引き攣らせ、限界を超えて体を端に寄せた。
座席の端にある、硬くて冷たいプラスチックの仕切りが、俺の肋骨を無情に圧迫し、悲鳴を上げさせる。
《……っ! 貴方のような下民と重なるなど、万死に値しますわ。不敬、あまりにも不敬ですわ。早よう、その汚らわしい肩を限界まで縮めなさい。わたくしのワンピースが貴方の薄汚れたスーツに触れるなど、想像しただけで全身が総毛立ちますわ》
凛は顔を真っ赤にして、実体のない、だが白く美しい拳を振り上げ、俺の肩をポカポカと叩く仕草を繰り返す。
当然、物理的な衝撃は万分の一も伝わってこない。
だが、彼女から発せられる強烈な支配欲と意志が、目に見えない圧力となって俺の胃をキリキリと雑巾のように締め上げる。
俺は必死に体を丸め、あたかも『目に見えない巨人に押し潰されている』かのような、生物としてあり得ない奇妙な姿勢を維持し続けた。
(無職の男が、誰もおらん空間に向かって怯えて、必死に肩すくめながらボロボロのカバン死守しとる地獄絵図。これ、次の駅で鉄道警察隊に首根っこ掴まれても一切文句言われへんよな。俺の人生、このまま留置場か、あるいは白い部屋で終わるんちゃうか?)
窓の外を高速で流れていく神戸の街並みが、今の俺には酷く遠く、二度と戻れない理想郷の出来事のように感じられた。
電車がカーブを曲がるたびに、俺の心は加速度的に、音を立てて擦り減っていく。
凛はといえば、窓ガラスに映る自分の霊的な姿を眺めながら、満足げに扇子を動かし、鼻歌を歌う余裕すら見せていた。
《タクミ、あちらの赤子の泣き声も耳障りですわ。わたくしの崇高な思考を妨げる、嘆かわしい雑音ですわね。今すぐあの赤子をあやして、その口を封じなさい。わたくしの心の平穏が、その不快な音響によって無残に乱されますわ》
「無茶言うな! 俺が近づいたら、それこそ不審者情報として地域メール回って、一発で事案確定やろが! 赤ちゃんかて、俺みたいな、未来失うて死んだ魚みたいな目ぇした男に見つめられたら、恐怖で余計火ぃついたみたいに泣くに決まっとるやろ! 俺に社会的に死ね言うとるんか!」
俺は必死に虚空へ向かって、もはや自分でも何を言っているのか分からない呪文のような抗議を投げ続ける。
周囲からは、いよいよ本気で『見てはいけない、関わってはいけない』を見るような、深い絶望の眼差しを向けられ始めた。
母親は俺を害獣でも見るような目で警戒して赤子を抱き直し、隣の席のサラリーマンは、逃げるようにイヤホンを耳の奥底までねじ込んだ。
電車が次の駅、そしてまた次の駅へと進むたび、俺の社会的生命力という名の残高は、着実に、かつ確実に底を突いていく。
駅のホームに立つ通勤客たちが、車内の俺の異様な姿を見て一瞬ギョッとした表情を浮かべ、目を逸らすのが手に取るように分かる。
終着駅に着く頃には、俺の精神は、長年放置されて泥水に浸かり、腐りかけたボロ雑巾のようにボロボロに疲れ果てていた。
もはや、立ち上がるための筋力すら、凛の言葉の暴力によって根こそぎ吸い取られたかのようだった。
(復讐果たす前に、俺の社会的信用が完膚なきまでに消失して、指名手配されるんが先か。それとも俺の脳が、この極限のストレスに耐えきれんようになって真っ白に壊れるんが先か。……どっちにせよ、前途多難なんてもんやない。これは、片道切符の地獄巡りや)
ようやく電車が駅に滑り込み、重厚な金属音を立ててドアが開く。
凛は、《ようやくこの不潔な箱から解放されましたわ》と言わんばかりに、優雅に、かつ傍若無人にホームへと舞い降りる。
彼女の瞳には、これから始まる鳳凰寺家の暗部を暴き立てる戦いへの無邪気で残酷なまでの熱意が宿っている。
俺は、もはや自分の脚かどうかも分からないほど感覚の消えた足で、フラフラになりながら、その後ろ姿を必死に追いかけるしかなかった。
その足取りは、まるで底なし沼を引きずっているかのように重い。
俺の心臓は、逃れられない運命への絶望を感じたかのように、早鐘のように脈動するのだった。
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