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<全50ep> 鳳凰寺凛の生霊事件簿 ~視えるのは、世界で無職(おれ)一人~  作者: 第三ひよこ丸
第1部 【不吉な同居人】

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第07話 極小の塗料と消された現場

 あの日、俺の平穏を木っ端微塵に砕いた忌まわしい衝撃音が響いた呪わしい交差点。

 五月の湿った風が、埃っぽいアスファルトの熱を撫でるように吹き抜けていく。

 俺は重い足取りで、数日前に「最悪の出会い」を果たしたその場所へと戻ってきていた。


(正直、二度と近づきたくなかった。無職の分際で事件の真相究明やなんて、どこの探偵小説の読みすぎやねんって話や)


 周囲を見渡せば、そこには日常の風景が何事もなかったかのように平然と横たわっている。

 行き交う人々は、俺のすぐ横にある世界のバグを軽やかに通り過ぎていく。


(せっかくの休日や。いや、俺は毎日が休日みたいなもんやけど、それでもこの嫌な記憶しかない場所にわざわざ足運ぶんは、正気の沙汰やない。普通やったら、安ビール飲みながらテレビでも眺めて、昼寝しとる時間やのに)

 

 そう、俺のすぐ隣。

 地上から数センチ浮いた不自然な位置には、不機嫌そうに高そうな扇子を仰ぐ鳳凰寺凛がいた。

 彼女の純白のワンピースは、排気ガスに塗れたこの殺風景な場所において、あまりにも不自然に眩い。

 まるでモノクロの無声映画の中に一箇所だけ極彩色の絵の具をぶちまけたような、暴力的なまでの異彩だ。


 彼女が動くたびに、実体のない身体から溢れる高貴な気配が、周囲の淀んだ空気を無理やり浄化していくのが分かった。

 それは一種の神々しさすら感じさせるが、その中身はおそろしく我儘なお嬢様である。


《タクミ、何を呆然と突っ立っておりますの》


 凛は、実体のない指先でこれ見よがしに高貴な鼻先を覆い、周囲を見渡しながら不満げに唇を尖らせた。


《わたくしの肌が、この不潔な空気で汚れてしまいそうですわ。早う、その卑しい腰を屈めて、地を這う蟻のように証拠を探しなさいまし》


 彼女の声は鈴の音のように透き通っており、俺の耳元を直接震わせる。

 だが、その美声が紡ぐのは、いつだって俺の尊厳を容赦なく削り取るような無慈悲な命令ばかりだ。


「無茶を言うなよ。あの日からもう何日経ってると思ってるんだ。雨だって降ったし、道路清掃の車だって何度も通ってるはずだ。血痕の一つも残っちゃいないさ」


 俺は周囲を警戒しながら、極めて小声で毒づいた。


「だいたい、俺がここで地面這いずり回っとったら、速攻で通報されて、俺の再就職の道は完全に閉ざされるんやぞ。ただでさえ不審者扱いされるスーツ着とるっちゅうのに」


 実際、事故現場の路面は不自然なほどに綺麗な状態を保っている。

 急ブレーキの痕跡はおろか、割れたライトの破片、あるいは飛び散ったはずの血の一滴すら見当たらない。

 まるで熟練の清掃業者が、その痕跡を根こそぎ奪い去ったかのような、完璧すぎるまでの片付けられ方だ。


 それは、事故そのものを歴史から抹消しようとする、巨大な権力側の意志が顕現したかのように感じる。

 その不気味さに、俺の背筋に冷たい汗がじわりと滲んできた。


《鳳凰寺の名を冠する者が、路上で無様に転がされたのですわ。わたくしを撥ね飛ばした愚か者が、己の罪を覆い隠そうと躍起になるのは道理。……ですが、この凛の目は欺けませんわ》


 凛はふわりと蝶のように舞い、横断歩道の端、縁石が僅かに欠けた場所へと指を差した。

 彼女は俺と縁石の間に割り込むようにして、その透き通った貌をアスファルトにまで近づけていく。


《そこですわ、タクミ。その澱んだ溝の隙間を御覧なさい》


 凛の瞳には、かつて見たことがないほどの冷ややかな熱が宿っている。

 それは名門の人間が抱く、ある種の苛烈な好奇心のようでもあった。


《わたくしの魂が、微かな違和を捉えておりますわ。さあ、その鈍な五感を研ぎ澄ませて、わたくしの指示に忠実に従いなさいまし!》


 俺は深く溜息を吐きながら、汚れたアスファルトに膝をついた。

 不審なものを見る通行人の冷たい視線が、俺の背中に突き刺さる。

 平日の昼間から地面を這いずり回る、ヨレヨレのスーツを着た男。

 どう見ても職質対象の不審者そのものであることは、俺自身が一番よく理解していた。


(頼むから、何も見つからんといてくれ。そうしたら、これは俺が仕事探しすぎて見た白昼夢やったってことで片が付くんや。仕事さえ見つかれば、全部元通りになる)


 俺は祈るような気持ちで、指先で溝に溜まった土を掻き分ける。


(そうしたら、この美しすぎるくせに恐ろしく面倒なお化けお嬢様とも、晴れておさらばできるんやからな!)


 だが、運命女神は、徹底して俺に味方するつもりはないらしい。

 凛が指し示した縁石の深い亀裂の中に、一点だけ、異質な輝きを放つ塵が埋もれている。

 俺は心拍数が跳ね上がるのを感じながら、それを指先で慎重に掬い上げた。

 それは、一センチにも満たないほどの極小の塗装の破片だった。


「……見つかった。おい、これか? (頼むから違う言うてくれ!) ただのゴミにしか見えへんけど」


 直射日光を浴びたその瞬間、それは真珠のような深い光沢を放った。

 見る角度によって妖艶な紫から深い黒へと、まるで生き物のように表情を変える。

 明らかに市販の軽自動車や量産型の車両には使われない、特注の、それも気が遠くなるほど高価な塗料の欠片だというのが庶民の俺でもわかる。


《ええ。間違いありませんわ。その忌々しい色は、わたくしがよく存じていますもの》


 凛の声から、いつもの傲慢な響きが消え、凍てつくような鋭さが宿った。

 彼女は俺の手元を覗き込み、獲物を見つけた猛禽類のような眼差しでその破片を凝視する。


《鳳凰寺の屋敷の玄関先に並ぶ、あの無粋な鉄の塊と同じ色彩ですわ。わたくしをこの忌々しい姿に変えたのは、わたくしの血族であるということですわね》


 俺の指先にあるのは、単なる事故の遺留品ではない。

 それは、巨大な権力の力で強引に消し去られたはずの明白な殺意と陰謀の断片であった。


(不自然に清掃された現場。そして、そこに残された鳳凰寺家専用の塗料。……おいおい、これやと犯人は身内におるて言うとるようなもんやないか。サスペンスドラマの読みすぎであってほしかったわ)


 背筋を冷たい悪寒が突き抜ける。

 指先で感じる破片の冷たさが、六畳一間の安アパートで安ビールを飲み、ハローワークの求人票を眺めていた平穏な日々が、音を立てて崩壊したことを残酷に告げている。


《タクミ、震えておりますの? 情けない男ですわね》


 凛は空中で姿勢を崩し、俺の顔を覗き込むようにして、残酷なまでに美しい微笑を浮かべた。

 彼女の瞳には、俺の狼狽を楽しむような、加虐的な輝きが宿っている。


《ですが、貴方のその卑怯者ゆえの慎重さと、地を這うような執念が、ようやく役に立ちましたわね。鳳凰寺の至宝を預かる身としての役目を、ようやく果たしましたわ》


 その至近距離で見つめられる瞳の破壊力に、俺の心臓は不本意にも激しく鼓動を刻む。

 彼女が動くたびに、実体のない身体から溢れる気品が、俺の理性をじわじわと削っていくようだった。


《さあ、参りましょう。この薄汚れた破片を、真実へと至る鍵に変えるのです。わたくしの尊厳を傷つけ、このような姿に変えた不届き者に、相応の報いを与えなくてはなりませんわ》


 凛は扇子を鋭い音を立てて閉じ、決然と前を見据えた。


《ふふ、楽しい復讐劇の始まりですわね! わたくしの足となって、存分に働きなさいまし!》


(……ああ、分かった。どうせもう、ハローワークの認定日以外にやることもないしな。昨日かて面談で鼻毛に負けて追い出されたばっかりや。失うもんなんか、もう何も残っとらん)


 俺は、小さくも致命的な毒を持つその証拠を、使い古した財布の奥深くに押し込み、力任せに立ち上がった。


(人生、どん底まで詰んだついでや。とことん付き合ったる。どうせなら、エベレストに軽装で挑むような無謀な結末、見せたろうやないか!)

 

 背後では、満足げな笑みを浮かべた凛が、まるで行進を促すように声を上げた。


《歩くのが遅いですわ、タクミ! わたくしをこれ以上待たせるつもりかしら》


 彼女は相変わらずの調子で、周囲に聞こえないのをいいことに不平不満を喚き散らしている。

 

 ここから先は、もう戻れない。

 無職の男と、我儘極まりない美貌の生霊による、泥沼の真実暴きが幕を開けるからだ。


 俺の心臓は、逃れられない運命への恐怖と、そして自分でも驚くほどの昂揚感で、激しく脈打っている。

 物語は、俺の惨めな現状を燃料にして、さらに残酷で滑稽な速度で回り始めるのだろう。

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