第06話 鼻毛と絶望の面談室
鳳凰寺凛という名の美しくも傲慢極まりない生霊に命じられた最新端末の調達という任務は、現在の俺にとって、エベレストに軽装で挑むのと同義であった。
あのお嬢様は、情報の海を泳ぐためのオールが必要だと宣うが、そのための資金を工面する具体的な手段が、今の俺には一欠片も残されていない。
俺の手元にあるのは、使い古してボタンの印字が消えかけた財布と、その中に寂しく収まる数枚の硬貨、そして彼女の命令という名の逃れられない重圧だけだ。
俺は、彼女が「薄汚れた」と断じて忌み嫌ったヨレヨレのスーツを押し入れの奥から引っ張り出し、染み付いた生活臭を振り払うように埃を叩いて身を包むと、重い足取りでハローワークの重厚な扉をくぐった。
外の空気は、俺の将来を暗示するかのようにどこか湿り気を帯び、アスファルトの照り返しが容赦なく体力を奪っていく。
(まずは仕事や。仕事さえ決まれば、分割払いで最新の板状端末だろうが何だろうが買ったるよ)
窓口の待合室は、独特の重苦しい空気と、どこか焦燥感の混じった乾燥した匂いに満ちていた。
パイプ椅子に腰を下ろすと、冷たい金属の感触がズボン越しに伝わり、己の社会的な立場の危うさを改めて自覚させられる。
凛はといえば、そんな人間の悲喜こもごもが渦巻く空間など意に介さず、俺の隣の空席に、まるで玉座にでも座るかのような優雅さで腰を下ろしていた。
彼女の純白のワンピースは、この薄暗く殺風景な空間において、あまりにも不釣り合いなほど眩く、非現実的な輝きを放っている。
彼女が動くたびに、実体のない身体から溢れる気品が、周囲の淀んだ空気を浄化するように揺らめいた。
《タクミ、この場所の空気はあまりに不快ですわね。わたくしの肌が荒れてしまいそうですわ》
凛は、実体のない指先でこれ見よがしに高貴な鼻先を覆い、周囲を見渡しながら不満げに唇を尖らせた。
彼女の声は俺の耳元で直接響くが、周囲の疲れ切った求職者たちには、彼女の姿も、その高飛車な不平不満も一切届くことはない。
それが、この奇妙な二人三脚における唯一の救いであり、同時に最大級の火種であることに、俺はこの時まだ気づいていなかった。
やがて、無機質な合成音声が俺の受付番号を呼び、俺は死刑台に向かう罪人のような心持ちで、指定された面談ブースへと向かった。
背後からは、凛が「ほら、さっさと歩きなさい」と急かすような視線を送ってくる。
ブースに座っていたのは、いかにも事務的という言葉を体現したような、中年の男性相談員であった。
彼は分厚い眼鏡の奥から、俺が提出した貧弱な履歴書を、まるで欠陥品を検品するかのような厳しい目で見つめている。
彼が書類をめくるたびに、カサリという乾燥した音が響き、俺の心拍数は不規則なビートを刻み始めた。
俺は精一杯の誠実さを顔に貼り付け、少しでも印象を良くしようと不自然なほど背筋を伸ばし、彼からの質問を待つ。
目の前の男の眉間には深い皺が刻まれ、その表情からは一切の妥協を許さない厳格さが漂っていた。
「……田村さん、この短期間での離職理由は、具体的にはどのような?」
相談員の男が、抑揚のない冷ややかな声で問いかけてきたその瞬間であった。
俺のすぐ真横、視界の端で滞空していた凛が、獲物を見つけた猛禽類のような鋭い眼差しで、男の顔面を至近距離で凝視し始めた。
彼女は、俺と男の間に割り込むようにして、その透き通った貌を男の鼻先にまで近づけていく。
俺は、彼女が何か余計なことを仕出かさないか、冷や汗が背中を伝うのを感じながら、必死に男の目を見ようと努力した。
凛の瞳には、名門の人間が抱く、ある種の残酷な好奇心が宿っていた。
《……あら。タクミ、見てごらんなさいな。この男、信じられないほど滑稽な姿をしていますわよ》
凛の声が、静かなブース内に、鈴の音のような澄んだ響きで流れた。
その美声とは裏腹に、紡がれる言葉は決定的な毒を持って俺の鼓膜を刺す。
俺は返答しようとした言葉を飲み込み、必死に視線を泳がせ、彼女の存在を意識の外へ追いやろうと試みた。
凛は俺の抵抗をあざ笑うかのように、細く白い指先で男の鼻の下を正確に指し示した。
その指先は、男の尊厳を無惨に引き裂くための矛先となっていた。
《この担当者、鼻毛が一本、それも驚くほど力強く外の世界へ向かって主張を始めていてよ。まるで、主人の管理能力の欠如をあざ笑っているようですわ!》
(やめろ……頼むから、今その実況をするんはやめてくれ……!)
俺は、喉の奥からせり上がってくる笑いの衝動を、奥歯を噛み締めることで必死に封じ込めようとした。
一度気付いてしまうと、もう意識を逸らすことは不可能であった。
真面目な顔をして、俺のキャリアプランについて説教を垂れている男の鼻の穴から、確かに、漆黒の太い一本が、物理法則に抗うようにピンと跳ねているのが見えてしまった。
それは、彼の真剣な口調と相まって、もはや芸術的なまでの不条理を醸し出している。
その毛は、まるで独自の生命体であるかのように、男が言葉を発するたびに揺れ動いた。
《ふふっ……見て。彼が喋るたびに、その毛が呼吸に合わせて上下にダンスを踊っていますわ。なんて、なんて醜くも愛らしい、文明の敗北かしら!》
凛は、お腹を抱えるようにして空中で身をよじり、心底楽しげに笑い始めた。
彼女の笑い声は、俺の脳を直接揺さぶり、理性の防波堤を容赦なく削り取っていく。
男は、俺が急に顔を真っ赤にして震え出したのを、緊張のあまり体調を崩したと勘違いしたのか、さらに追い打ちをかけるように顔を近づけてきた。
鼻毛の先端が、まるで俺を挑発するかのように、より鮮明に視界を埋め尽くす。
「田村さん? 大丈夫ですか? 就職活動には、何よりもまず清潔感と自己管理が大切で――」
「……ブフッ!!」
限界であった。
「清潔感」という言葉が、その鼻毛の持ち主から発せられたという事実が、俺の笑いの沸点を見事に超えた。
俺は、噴き出した吐息と共に、ブース内に響き渡るような声を上げ、机に突っ伏して震え出した。
笑いを堪えようとすればするほど、鼻毛の残像が脳裏に焼き付き、凛の「ダンスを踊っていますわ」という実況が耳元でリピート再生される。
「……失礼ですが、田村さん。何がそんなにおかしいのですか。私は、貴方の将来のために真剣に話をしているのですよ」
男の顔から温厚な仮面が剥がれ落ち、不快感を露わにした険しい表情へと変わる。
俺は慌てて顔を上げ、涙目で痙攣する口角を必死に抑え込みながら、パイプ椅子から転げ落ちんばかりの勢いで立ち上がった。
「申し訳ありません! 違っ、違うんです、決してふざけているわけでは……! すみません、本当にすみません!!」
俺は腰が折れんばかりの勢いで、何度も、何度も頭をペコペコと下げ、目の前の男に対して必死の謝罪を繰り返した。
視界の端では、俺の必死な様子を信じられないものを見るような目で見つめる凛が、優雅に空中で静止している。
彼女は、俺のこの惨めなほど卑屈な姿が、自身の美意識に反するとでも言いたげに、軽蔑の混じった溜息を吐いた。
《タクミ、見苦しいですわよ。そんな鼻毛の主に対して、何をそんなに必死に頭を下げていますの? 鳳凰寺の至宝を預かる身としての誇りはどこへ行きましたの》
(うるさい! お前のせいやろが! このままやと仕事も飯も無くなるんやぞ!!)
俺が心の中で絶叫しながらも、額が机にぶつかるほどの勢いで謝罪を続ける一方で、相談員の男の怒りは頂点に達していた。
彼は無言で俺の履歴書を乱暴に畳み、冷淡な動作でブースの外を指し示した。
その指先は震えており、彼の中で俺という人間が「救いようのない不適合者」として確定したことを物語っていた。
「……もう結構です。本日の相談は終了とさせていただきます。他の方の迷惑ですので、速やかに退出してください」
結局、その日の面談は「態度の不真面目さ」という致命的な評価を食らい、俺は不採用通知を待つまでもなく、追い出されるようにハローワークを後にした。
西日が差し込む駅前の広場で、俺は膝を突き、空になった財布を握りしめて天を仰いだ。
隣では、一円の稼ぎにもならない美しい生霊が、相変わらず楽しそうに鼻歌を歌いながら、俺の次の苦難を心待ちにしている。
俺の心臓は、情けなさと怒りで激しく脈打っていたが、彼女にはその苦悩すら届かない。
(最新端末どころか、今夜の飯さえ危うなってきたぞ……。俺の人生、この女に関わってから、加速度的に崖っぷちへ突き進んどる気がする)
鳳凰寺家の至宝を守る剣になる前に、俺は笑い死にするか、野垂れ死ぬかの二択を迫られているようであった。
それでも、俺の後ろをついてくる凛の足取りは軽く、彼女が放つ不思議な存在感だけが、この閉塞感に満ちた街の中で異彩を放ち続けていた。
物語は、俺の惨めな敗北を燃料にして、さらに残酷な速度で回り始める想像をしてしまい、俺は身震いした。
ブックマーク、評価をお願い致します。
レビュー、感想等もお待ちしております。
誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。




