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<全50ep> 鳳凰寺凛の生霊事件簿 ~視えるのは、世界で無職(おれ)一人~  作者: 第三ひよこ丸
第1部 【不吉な同居人】

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第05話 文明の芳香

 鳳凰寺家の至宝だか何だか知らないが、現状の俺たちに突きつけられた現実は、あまりに世俗的で、そして暴力的なまでに空腹を誘うものだった。

 凛から”協力”という名の逆らうことの許されない絶対的な命令を突きつけられ、精神的な疲弊が極地に達した俺は、まずは自身の生命維持装置を稼働させる必要があると判断した。

 

 俺はふらつく足取りで、埃の積もったキッチンの片隅へと向かい、段ボールの中に積み上げられた安売りのストックの中から、最も安上がりなカップ麺を一つ手に取った。

 プラスチックの容器が指先に触れるたび、乾いた音が狭い部屋に虚しく響く。

 凛は俺の背後で、床に散らばった古雑誌や、彼女が先ほど『汚物』と断じて忌み嫌った靴下の残像を避けるようにして、優雅にだが、どこか落ち着かなげに滞空している。

 彼女の視線は、俺の手元にある無機質な容器へと注がれ、その正体を暴こうとするかのように細められている。


「……何見てんねん。腹減っとったら、お家騒動もクソも戦われへんやろ」


 俺は、水の出が極端に悪い蛇口を力任せに回し、錆びの混じったような呻き声を上げる古い配管から、凹んだ小鍋に水を溜めた。

 蛇口から滴る水滴が、ステンレスのシンクに当たって不規則なリズムを刻んでいる。

 年季の入ったガスコンロのつまみを回すと、パチパチという火花が闇を切り裂き、青白い炎が立ち上がって冷え切ったキッチンの空気を微かに震わせた。

 その揺らめく光が、油汚れの目立つ薄暗い部屋の壁を不気味に照らし、俺たちの奇妙な共同生活の影を壁面に長く引き伸ばしていく。


(お家騒動やの最新端末やの言う前に、まず俺が動ける状態にならな話にならんのや)


 やがて小鍋の底から銀色の気泡が沸き立ち、シュンシュンと景気の良い蒸気が蓋の隙間から吹き出し始めた。

 沸騰した湯が勢いよくカップの奥底へと注がれると、乾燥しきっていた具材が熱を帯び、まるで魔法にかけられたかのように本来の色彩を取り戻していく。

 独特のジャンクな香料と、濃縮された魚介の重厚な出汁、そして強烈な醤油の匂いが、狭い六畳間の隅々にまで一気に広がり始めた。

 その匂いは、空腹の俺にとって、どんな高級料理よりも魅惑的な誘惑となって鼻腔をくすぐる。


《……。タクミ、その粗末な容器の中から立ち昇る、不自然なほどに白い霧は、一体何なんですの?》


 凛は好奇心を抑えきれない様子で、音もなく俺の左肩越しに身を乗り出してきた。

 彼女の長い睫毛が、俺の肌を掠めるような至近距離で静止し、その視線はカップの縁から渦を巻いて漏れ出る白煙に釘付けになっている。

 実体のない彼女の身体を熱い湯気が悠々と通り抜け、まるで彼女の存在自体が蒸気の一部へと溶け込んでいくような、現実離れした光景が目の前で繰り広げられた。

 彼女が動くたびに、空気が微かに冷え、湯気の流れが複雑に変化する。


《わたくしの知るいかなる三つ星レストランの皿とも異なる野生的で、それでいて緻密に計算し尽くされたような複雑な芳香……》


 彼女は、まるで世界に一つしかない幻の香水を鑑定するかのように、ゆっくりと重厚な瞼を閉じた。

 そして鼻先を湯気の渦へと、限界を越えるほど近づけ、実体のないはずの肺を大きく膨らませるように、熱を帯びた空気を深く、深く吸い込んでいく。

 彼女の指先が、何もない空中でピアノを弾くように微かに動き、香りの成分を一つ一つ分析しているかのようだ。


《ああ……。これが、下界の人々が謳歌する『利便性』という名の結晶。……文明の香りがいたしますわ……!》


 凛は、恍惚とした笑みを浮かべ、白銀の肌をうっすらと鮮やかな桜色に染めながら、その場で優雅に一回転した。

 彼女のワンピースの裾が、立ち昇る湯気に乗って軽やかに舞い、まるで聖なる儀式を執り行っているかのような、近寄り難い気高ささえ漂わせている。

 この安普請で掃き溜めのようなアパートのキッチンが、彼女のその仕草一つで、どこか格式高い晩餐会の会場のように見えてくるから不思議だ。

 埃っぽい空気が、彼女の存在によって、一時的に浄化されたような錯覚さえ覚える。


(ただの百円以下のカップ麺やぞ……。何をそんな感動しとんねん)


 彼女にとって、病院の無機質な消毒液の匂いや、重苦しい屋敷で供される洗練されすぎた高級料理とは正反対の、この強烈な化学調味料の刺激は、未知の快楽に満ちているらしい。

 彼女は、まるで失われた古代文明の聖遺物でも発見したかのような、純粋で無垢な輝きをその瞳に宿していた。

 名門の教育を受けてきた彼女の価値観が、このジャンクフードという一点において、根本から揺さぶられている。


《素晴らしいですわ、タクミ! この脳の芯を直接揺さぶるような暴力的な食欲の誘惑! 庶民の知恵とは、これほどまでに奥深いものでしたのね!》


 凛は悦に入ったまま、カップの蓋をこれ以上ないほど愛おしそうに、そして最大の敬意を込めて見つめている。

 その姿は、この狭苦しく光の届かない部屋において、唯一無二の華やかさと、どこか浮世離れした可愛らしさを放っていた。

 彼女の存在そのものが、現実の厳しさを忘れさせる、奇妙な癒やしとなっていることに俺は気づかされる。


「……悪いけどな、お前、それ食われへんぞ。生霊なんやから」


 俺が割り箸をパチンと音を立てて割り、紙の蓋を勢いよく剥がした瞬間、さらに濃密になった湯気が彼女の顔を優しく包み込んだ。

 凛は一瞬だけ、この世の終わりでも見たかのように悲しげに眉を下げたが、すぐに不敵な笑みを浮かべて胸を張った。

 彼女の瞳には、食べられぬ悲しみよりも、その存在を享受できる喜びの方が勝っているようだった。


《ふふん、わたくしを誰だと思っていまして? 鳳凰寺家の正統なる継承者たるもの、この高貴な香りを享受できるだけで、わたくしの精神は十二分に満たされますわ》


 彼女は再びゆっくりと目を閉じ、名残惜しそうに空中を漂う最後の湯気を、愛でるように深く味わった。

 その横顔には、自分の置かれた特殊な状況を受け入れつつも、決して誇りを捨てない強固な意志が宿っている。

 彼女の魂は、この劣悪な環境に置かれてもなお、気高く輝き続けていた。


(食われへんのにそこまで楽しめるんか……。お嬢様の感性、ほんま意味分からんわ)


 俺はズルズルと、静寂を破るような無遠慮な音を立てて麺を啜り、彼女の熱心な視線を背中に感じながら、束の間の休息を喉へと流し込んだ。

 ジャンクな味が舌の上で踊り、疲れた身体にエネルギーが染み渡っていく。

 背後では、凛がまだ「文明の利器」の香りを絶賛しながら、俺の箸の進め方やスープの飲み方にまで、高圧的な、それでいてどこか楽しげな指導を加え始めていた。

 彼女の声が、静かだった部屋を賑やかに塗り替えていく。


(……まあ、この騒がしさが、これからの俺の日常になるんやろな)


 窓の外では、鳳凰寺家という巨大な権力構造を巡る恐ろしい陰謀が、静かに、だが確実に牙を剥こうとしている。

 しかし、この瞬間だけは、安っぽいカップ麺の香りと、傲慢な生霊の独り言が、俺のちっぽけな世界を奇妙な安らぎで満たしていた。

 俺は空になった容器を置き、力強く立ち上がると、彼女が待つ果てしない「戦場」へと、重い一歩を踏み出す決意を固めた。

 彼女の願いを叶えるため、俺という駒は、この街の深淵へと潜っていくことになる。

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