第04話 汚物と呼ばれた靴下
朝の光が、埃の舞う六畳間に無情なほど明るく差し込んでいた。
俺は重い瞼をこじ開け、まずは自身の状況を確認するために、畳の上に散乱した生活の残骸へと視線を落とした。
そこには、昨日脱ぎ捨てたままの灰色をした靴下が、無様に丸まって転がっている。
(……ああ、今日もまた、この代わり映えのしない一日が始まるんか)
俺が欠伸を噛み殺しながら、その綿の塊に手を伸ばそうとした、その時だ。
宙に浮遊する凛が、音もなく俺の前に割り込み、床の靴下を親の仇か何かのように凝視した。
《待ちなさい、タクミ。……なんですの、その禍々しい形状をした物体は》
彼女は、未知の病原菌でも見つけたかのように、眉間に深い溝を作った。
白銀の肌が朝日に透け、その美しさが逆に、彼女の表情の険しさを際立たせている。
《貴方の足から分離した名もなき汚物……。それが視界に入るだけで、わたくしの高潔な魂が汚染されそうですわ!》
彼女は鼻先を指でつまむような仕草を見せ、激しく顔を背けた。
実際には彼女に呼吸は必要ないはずだが、その精神的な拒絶反応は、見ていて哀れになるほど凄まじい。
「ただの靴下やろ……。洗濯カゴ入れんの忘れとっただけや。嫌やったら見んかったらええやん」
《洗う? そのような小手先の概念で解決する次元の話ではございませんわ!》
彼女は再び靴下に向き直ると、右手を鋭く、まるで刺突を繰り出す騎士のように突き出した。
指先が微かに震え、彼女の周囲にある空気が、意志の力によって物理的な歪みを生じさせている。
《わたくしの居住空間に、このような不浄が存在することは万死に値します! どきなさい、今すぐ立ち去りなさい!》
生霊としての意志を、一点に集中させているのが見て取れる。
凛は顔を真っ赤にし、血管が浮き出そうなほど必死に右手を振り上げた。
《……っ。動きなさい! わたくしの命に従いなさい! 汚らわしい布風情が!》
昨日、リモコンをすり抜けた屈辱を晴らそうと、全身のエネルギーをその細い指先に注ぎ込んでいる。
彼女の形相は、もはや優雅なお嬢様とは程遠い、執念の塊へと変貌していた。
(あっ、こいつ、マジで靴下動かそうとしとる……。生霊の念力みたいなやつか?)
震える指先が、今にも靴下の繊維に触れそうな距離で停止し、緊張感が部屋に満ちる。
だが、非情な現実は、彼女の誇りを完膚なきまでに叩き潰した。
《ええい、この無礼な綿の塊め! わたくしの威光を恐れぬというのですか! なぜ動かないのです!》
凛は歯を食いしばり、顔をさらに林檎のように赤く染めて、何度も虚空を引っ掻くように手を動かした。
彼女の指は陽炎のように靴下をすり抜け、その汚物は一ミリたりとも位置を変えることはない。
凛は力尽きたように空中で肩を落とし、肩で息をしながら俺を鋭く睨みつけた。
その頬は、怒りと、己の無力さに対する気恥ずかしさが混ざり合った、鮮やかな朱色に染まったままだ。
彼女はわななく指先を隠すように、純白のワンピースの裾をギュッと握り締めた。
《……はあっ、はあっ。信じられませんわ……。わたくしの意志が、これほどまでに無視されるなんて!》
指先に力がこもるたびに、実体のないはずの布地に細かいシワが寄るのが見える。
彼女にとって、これほどの敗北感は生まれて初めての経験なのかもしれない。
「……無理やって言うたやろ。お前の身体は病院で寝とるんやし、今のお前はただのイメージみたいなもんや」
俺は床に転がっていた靴下を拾い上げ、部屋の隅にある洗濯物袋へと放り込んだ。
ポスッ、という気の抜けた音が六畳間に響き、彼女が必死に挑んだ戦いの虚しさを強調する。
《黙りなさい! わたくしが本気を出せば、このアパートごと吹き飛ばすことだって……おそらく可能ですわ!》
凛は潤んだ瞳を隠すように顔を背け、宙を蹴るようにして俺から距離を取った。
自分の不甲斐なさを認めたくないのか、彼女は震える声で精一杯の強がりを口にする。
(無茶苦茶な言い訳やな。お嬢様のプライドっちゅうんは、物理法則より頑丈にできとるんか)
俺は濡れた手を雑にズボンで拭い、まだ空中で不満げに揺れている凛へと向き直った。
窓の外から差し込む鋭い光が、彼女の輪郭を透かし、この世の者ではない事実を嫌というほど突きつけてくる。
「……なあ。そない必死になって、その靴下どうしたかってん」
俺は、彼女が先ほどまで必死に格闘していた靴下の残像がこびりつく畳に、どっかと腰を下ろした。
膝の力が抜けるような、それでいて心の奥底に重い石を置かれたような感覚が、俺の身体を支配している。
「ただ潔癖症なだけやないんやろ? お前、なんや妙に焦っとるように見えるで。理由あるんちゃうんか?」
凛はぴたりと動きを止め、ゆっくりと俺の方へ身体を向けた。
その顔から先ほどの気恥ずかしさは次第に霧散し、代わりに名家の後継者としての険しい雰囲気が戻ってくる。
《……。ようやく、その鈍い思考回路が現状の異常さに追いつきましたのね》
彼女は窓の外、遥か山の手にあるはずの自身の屋敷がある方角を、鋭い眼差しで見据えた。
そこには、俺のような人間が一生かかっても門をくぐることすら許されない、別世界が広がっているはずだ。
《わたくしがこれほどまでに焦燥に駆られている理由……。それは、わたくしの目的が、単なる暇つぶしではないからですわ》
彼女は一度言葉を切り、音もなく、まるで滑るように俺の目の前まで移動した。
空中で優雅に足を組み直すその仕草は、どんなに透き通っていても、隠しきれない気品に満ちている。
《わたくしの目的は一つ。この不安定極まりない生霊という状態を脱し、わたくしの身体を取り戻すことですわ》
彼女の白く細い指先が、自身の胸元にあるはずの今は実体のない心臓のあたりを静かに押さえた。
その動作はあまりに切実で、彼女が抱える孤独の深さを一瞬だけ垣間見た気がした。
《わたくしが病院のベッドで眠り続けている間、あの一族の欲深い者たちは、わたくしの不在をこれ幸いと権力争いに明け暮れておりますの。反吐が出ますわ》
凛の瞳に、深い嫌悪と、それ以上に激しい怒りの火が灯った。
彼女が語る言葉の端々から、名家という名の巨大な檻の中で繰り広げられる、醜い奪い合いの光景が透けて見える。
《あいつらは、わたくしを単なる『鳳凰寺』という看板を守り、利権を引き出すための道具だと思っておりますわ。わたくしが目覚めぬよう、裏で汚い糸を引いている者がいることも明白です》
彼女は射貫くような視線を俺に向けた。
その視線には、頼りない俺という存在に対する、一縷の望みが託されているようにも見えた。
同時に、それは逃げ道を完全に塞ぐ、宣告のようでもあった。
《タクミ、貴方に協力していただきますわ。わたくしを害し、この地に縛り付けた卑劣な真犯人を突き止め、わたくしを本来あるべき玉座へ戻しなさい》
「協力しろって……。おい、お嬢様。俺はただの明日どうなるかも分からん失業者やぞ」
俺は思わず声を荒らげ、荒れた畳を拳で叩いた。
乾いた音が響き、埃が舞う中で、自分の声の虚しさが部屋に充満する。
「そんな国家レベルみたいな影響力持っとる一族の揉め事なんか、俺一人でどうにかできるわけないやろ。ドラマの見過ぎちゃうんか?」
俺の拒絶を最初から予想していたのか、凛は唇の端を吊り上げ、薄く微笑んだ。
その微笑みには慈悲など一欠片も含まれておらず、ただ圧倒的な支配者の余裕だけが漂っている。
《逃げられると思わないことですわ。わたくしを認識できる人間が、この広い神戸の街で貴方一人しかいない以上、これは運命。いいえ、わたくしという絶対的な存在が貴方に与えた光栄な義務ですわ》
彼女はゆっくりと、俺の鼻先が触れそうな距離まで顔を近づけ、逃げ場を塞ぐように宣言した。
透き通るような彼女の顔が、俺の視界を埋め尽くす。
《わたくしが元に戻るまで、貴方はわたくしの目となり、耳となり、そして悪を討つ剣として動くのです。分かったかしら、わたくしの忠実な下僕一号》
逃げ道は、あの日あの場所で彼女を助けた瞬間に、すべて塞がれていたのだ。
俺は深くため息をつき、両手で顔を覆った。
(ああ、もうあかん。俺の人生、完全にレール外れて、とんでもない崖っぷち走らされとる)
あのおぞましい路地裏で彼女を介抱したあの瞬間から、俺の人生はもう、俺だけのものではなくなっていた。
名もなき失業者の平穏は、この高貴な生霊の手によって無惨に粉砕されたのだ。
「……分かった。やる。やったらええんやろ。どうせ、お前、俺から離れる気ないんやろし」
《あら、案外聞き分けが良いのですわね。やはり貴方は、わたくしが選ぶに値する優秀な駒ですわ。その従順さだけは褒めて差し上げますわよ》
凛は満足げに頷くと、再び傲慢な態度を取り戻し、ゴミの散乱した部屋の中を見渡した。
彼女の視線が、俺の唯一の財産である古いパソコンに向けられる。
《では、まずはその第一歩として、わたくしの情報を集めるために必要な最新の端末を手に入れなさい! その化石のような機械では、情報の海を泳ぐことすらままなりませんわ!》
物語は、俺の意思や覚悟を置き去りにしたまま、狂ったような速度で回り始める。
俺の手元には一円の余裕もないというのに、お嬢様の命令は止まることを知らない。
《さあ、早く支度をしなさい! 鳳凰寺家の至宝を預かる身として、まずはその薄汚れた身なりを整えることから始めますわよ!》
こうして、俺と傲慢な生霊お嬢様による、命懸けの「お家騒動」への介入が、強制的に幕を開けた。
俺の心臓は、これからの苦難を予見するように、激しく脈打っていた。
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