第03話 高貴なる生霊
朝の光が、容赦なく六畳間に差し込んできた。
本来なら、一日の始まりを告げる清々しいはずの太陽光が、今は俺の眼球を無慈悲に焼き、逃げ場のない現実という名の重圧を突きつけてくる。
俺は鉛のように重い瞼をこじ開けた。
(頼む。神様でも仏様でも、なんならハローワークの神様でもいい)
染みだらけの天井を仰ぎながら、俺は必死に現状からの逃避を試みる。
(起きたら誰もいなくて、畳にこぼれた発泡酒の染みだけが残っている……そんな、いつも通りの冴えない、だが平穏な朝であってくれ)
視界の端に映る、積み上げられたカップ麺の空き容器が、俺の惨めな現状をこれでもかと強調していた。
(幽霊だか生霊だかとお近づきになるなんて、俺の人生設計には一行も、いや一文字も書かれていないんだよぉ)
俺は掛け布団を頭まで被り、現実を拒絶しようと身を丸めた。
(これは夢だ。質の悪い安酒のせいで脳が焼かれ、見ている幻覚に違いない。そうに決まっている)
だが、現実はいつだって俺の期待を、それも最悪の角度から裏切りにくる。
《いつまで無様に寝入っておりますの、タクミ》
枕元から、鈴を転がすような、しかしこの世の終わりを告げる不吉な警笛のような声が響いた。
《もう太陽はあんなに高い場所におわしますわよ》
俺は身体を強張らせ、軋む首を恐る恐る回して視線を向けた。
そこには昨夜と変わらぬ純白のワンピースを纏った凛が、俺の薄汚れた布団の横で、畳から数センチ浮いた状態で佇んでいた。
《貴方のその怠惰な精神、朝の光で浄化して差し上げたいくらいですわ》
彼女は白銀の肌を朝日の中で透き通らせ、漆黒の長い髪を重力に逆らうように微かに揺らしている。
《わたくしの視界に入る最初の景色が、このような薄汚れた男の寝顔だなんて。前世でどのような業を背負えば、これほどの苦行を強いられるのかしら。少しは己の境遇を恥じなさいな》
凛は不快感を隠そうともせず、俺を虫ケラのように見下ろした。
あまりの美しさに一瞬だけ見惚れそうになったが、彼女の眉間に刻まれた険しい皺が、すぐにそれを恐怖へと塗り替えた。
「……夢や、なかったんか。ほんまに出てきよったんか、お前……」
《失礼ですわね。わたくしという稀有な存在を、夢の一言で片付けようとなさるなんて》
凛は不快感を露わに顔を歪め、自身のワンピースの裾をギュッと掴み上げた。
彼女の指先が布を掴むたびに、純白の生地に細かいシワが寄る。
自分の体や、現世から持ち越した自身の所有物には、確かに干渉できるようだ。
《この無礼者、本来なら即刻お仕置きですわよ》
彼女は苛立ちをぶつけるように、俺の枕元にあるテレビのリモコンを蹴り飛ばそうとした。
彼女の爪先が、勢いよくリモコンを捉えたはずだった。
しかし物理的な衝突音は響かず、彼女の足は、まるで実体のない影のようにプラスチックの筐体をすり抜けた。
《ええい、この埃を被った薄汚い道具も不快ですわ! 視界から消えなさい!》
何度足を振っても、何の手応えもなく空を舞うだけだった。
リモコンは微動だにせず、ただそこに横たわっている。
《……っ。やはり、この世界の物理的なルールは、今のわたくしを徹底して拒絶しておりますのね》
彼女は顔を真っ赤にして、自身の空虚な脚を見つめた。
《これほど屈辱的なことがあってよろしくて? 己の意志一つで、ゴミ一つ動かせぬなんて》
宙を掻くように手を動かしながら、彼女は俺を鋭く射抜いた。
《タクミ、貴方のその濁った瞳でわたくしの失態をじろじろと見るのはお止めなさい。不愉快ですわよ》
現世の物質と交われない絶望。彼女の存在は確かにあるのに、その手は現実を掴めない。
その圧倒的な断絶が、俺の脳をさらに混乱させた。
「……なあ。お前、さっきから何者やねん。名前くらいあるんやろ」
《あら、名乗るのが遅れましたわね。よろしいですわ、貴方のその狭い視野を広げて差し上げます》
彼女は誇らしげに、誰もいない空間を指差して宣言した。
《感謝なさい。わたくしは鳳凰寺 凛。この国を裏から支える鳳凰寺家の長女にして、次代を担うべき至宝ですわ!》
その言葉には、一切の迷いも冗談も含まれていない、揺るぎない確信が宿っていた。
「ほ、ほうおうじ……? 鳳凰寺凛……?」
(聞いたことがある。いや、神戸に住んでいてその名を知らない奴はいないはずだ)
俺は混乱する頭で、街の噂を必死にかき集める。
(この街にいくつかある、指折りの名家。いや、もはや歴史の一部と言っても過言ではないほどの巨大な一族だ)
以前アルバイトをしていた頃に耳にした、恐ろしいほどの影響力を持つ一族の名。
(確か、芦屋の山の手の広大な敷地に要塞のような屋敷を構えているとか。……冗談やろ。そんな雲の上の存在が、なんでこんな六畳一間のアパートにいるんだよ!)
脳内で最大級の警報が鳴り響く。
関わってはいけない相手が、あろうことか俺の不衛生な聖域に、我が物顔で居座っている。
「お嬢様かいな……。なんであんな気味悪い路地裏で、一人で倒れとってん」
《……。あの時、わたくしは一人でしたわ。……いえ、一人にさせられましたの》
凛の貌に、一瞬だけ深い影が落ちた。
《わたくしを亡き者にしようとする、醜悪な欲望が渦巻く場所から、一時でも逃れたかっただけなのに》
それは、十九歳の少女が背負うにはあまりに重すぎる、血脈という名の呪縛が見えた瞬間だった。
《あいつらは、わたくしという存在を駒としか見ておりません。まさか、物理的に撥ね飛ばされることになろうとは思いませんでしたわ》
名家の長女というきらびやかな看板の裏にある、ドロドロとした憎悪。
彼女はすぐにその影を振り払うように、高飛車な態度を崩さずに言い放った。
《わたくしを害しようとした者の気配、今思い出してもはらわたが煮えくり返りますわ!》
「……まあええわ。とにかく警察か家に連絡して、迎え来てもらえや」
《無駄ですわ、タクミ。貴方はまだ理解しておりませんのね》
「はぁ?」
《昨夜から何度も試しましたけれど、貴方以外の人間には、わたくしの声も姿も一切届いておりませんの》
彼女は窓の外を指差し、唇を強く噛んだ。
《先ほど、隣の部屋の住人が廊下を通った際、必死に呼びかけましたけれど、あの者は鼻歌を歌いながら通り過ぎていきましたわ》
彼女の瞳には、かつて向けられたことのない「無視」という無慈悲な仕打ちへの憤りが宿っていた。
《わたくしの目の前を、まるで見えない壁でもあるかのように! わたくしを無視した、あの男の無礼な顔……一生忘れませんわよ》
世界から存在を抹消されたに等しいその屈辱を、彼女の誇りは許せないのだろう。
《わたくしは、この世界から完全に切り離されてしまったのですわ》
俺は慌ててスマートフォンを掴み、凛に向けてカメラを起動した。
だが画面に映し出されたのは、彼女の姿ではなく、その後ろにある剥がれかけた壁紙だけだった。
「……おらん。画面ん中、お前映ってへん。汚い壁しか見えへんぞ」
《当然ですわ。わたくしは物理的な質量を持たぬ『想い』だけの存在》
凛はふわりと宙を舞い、俺の至近距離まで詰め寄った。
《光学的な記録になど、残るはずがありませんわ。電子の海にも、わたくしの居場所はないのです》
彼女が放つ、現実味のない透明な冷気が肌を刺す。
《タクミ。この不衛生で人道に反するほど狭苦しい空間で、わたくしを認識できるのは貴方だけ》
彼女の鋭利な視線が俺の心臓を射抜く。
《つまり、わたくしの手足となり、わたくしの尊厳を守る義務があるのは、この世で貴方一人だけということですわ!》
窓の外では、いつも通りの無関心な日常が動き始めていた。
《光栄に思いなさい、この幸運な下僕め!》
世界は彼女がここにいることなど知らずに、ただ淡々と、冷酷に回っている。
そのすべてから隔離された場所で、俺は、震える手で頭を抱え、畳の上に力なく突っ伏した。
(終わった。俺の人生、完全に詰んだ。再就職活動どころの話じゃない)
俺の心の中では、将来への不安という名の暗雲が、さらにその色を濃くしていく。
(俺は、自分にしか見えないお嬢様の世話を焼く奴隷として、一生をこの不条理な現実の中で過ごすことになるのか!?)
絶望に打ちひしがれる俺の背中で、凛の声が無慈悲に響き渡った。
《さあ、タクミ! 絶望して畳の菌を吸っている暇があるなら、まずは朝食ですわ!》
彼女は空中で優雅にターンを決め、台所の煤けた換気扇を指し示した。
《わたくしは食べられませんけれど、貴方のその貧相な食生活を間近で見せられるのは、わたくしの高潔な美学に反しますわ!》
彼女の白い指が、こびりついた脂汚れを冷酷に指し示す。
《早くキッチンに立ちなさい! 栄養バランスの取れたものを、わたくしの目の前で丁寧に作ってみせなさい!》
それが、安定した孤独の終焉。
《それから、部屋の掃除も忘れてはなりませんわよ。信じられませんわ、不潔ですわ!》
一人の未来なき失業者と、一人の高貴な生霊による、最悪で最高に理不尽な物語の幕が、本格的に開いた瞬間だった。
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