第02話 幽霊、あるいは理不尽の化身
六畳一間の安アパート。染みだらけの天井と、湿った畳の臭い。
俺は狭いキッチンで、コンビニの棚で一番安かった発泡酒のプルタブを、祈るような気持ちで引き抜いた。
プシュッ、と微かな抵抗のあとに響く開放音。それが今の俺にとって、唯一の現実逃避の合図だった。
「……クソが。やってられるか!」
一口流し込む。喉を焼く安っぽい炭酸の刺激と、喉元にこびりつくような独特の苦味。
今日一日で突きつけられた残酷な現実。不採用通知の束と、冷淡な担当者の視線が、胃の底へと強引に押し流されていく。
(あの路地裏の光景が、どうしても頭から離れへん。あのアスファルトに広がった鮮烈な赤、あの少女の虚ろで、それでいて何かを射抜くような瞳。……今頃、どうなっとる。死んだんか、それとも生きとるんか。いや、考えたところで俺に何ができる。俺はただの仕事も地位もない、明日の食い扶持さえ怪しい男や)
テレビも点けずに暗い部屋を見渡す。明日もまた、あの無機質なハローワークへ足を運ばなければならない。
二十七歳。特別な才能もなく、古い技術にしがみついてきた俺に残された時間は、砂時計の最後の一粒のように僅かだ。
「……忘れよ。俺には、関わりのないことや。俺は俺の生活を立て直すだけで精一杯なんやから」
自分に言い聞かせるように、震える声で呟いた。背中を丸めて、ささくれた畳の上に座り込もうとした、まさにその時だった。
《救急車、本当に来ましたわね》
心臓が、文字通り口から飛び出しそうになった。
「ぎ、ぎえぇぇぇぇええええええええええええっ!?」
俺はこれ以上ないほど情けない悲鳴を上げながら、手にした発泡酒の缶を放り出し、壁際まで無様に転がるように後退した。
中身が畳にこぼれ、嫌な臭いが広がるが、そんなことを気にする余裕などありはしない。
(誰や!? 誰かおるんか!? 鍵は閉めた。うん、間違いなく、念入りに三回は確認して閉めたはずや!)
そこに、いた。
背後、月明かりが不吉なほど白く差し込む窓を背にした部屋の隅。逆光の中で、白銀の肌と漆黒の髪をなびかせた少女が、音もなく佇んでいたのだ。
昼間の凄惨な光景が嘘のように、彼女の純白のワンピースには一点の汚れもなく、返り血の跡すら見当たらない。
「お、お、お、お化けやぁぁぁぁっ! 出たぁぁぁぁっ!」
俺は錯乱状態で部屋の隅にある、綿が寄ってペシャンコになった薄汚れたクッションを掴み、盾にするように顔の前に突き出した。
(死んだんか。やっぱりあの時、あの路地裏で彼女は死んでもうたんか。せやから、見捨てて逃げた俺を呪いに来たんか!? 待て、待て待て、俺はちゃんと通報したぞ!)
《きゃああああああっ! どこですの!? どこにお化けがいますのぉぉぉぉ!?》
驚いたことに、少女は俺の悲鳴を遥かに凌駕するような絶叫を上げ、顔を真っ青にしてその場で跳ね上がる。
彼女は俺に襲いかかるどころか、ガタガタと全身を震わせて、涙目で首を左右に振りながら、誰もいない室内を必死に見渡している。
「お、お前やろ! お前以外に誰がおるんや、この、この不法侵入幽霊っ!」
《な、わたくし!? 失礼ですわ! わたくし、こうして生きておりますわよ! 自分のことを棚に上げて、なんて酷い言い草ですの……っ! 怖いですわ、ここ、なんだか妙に湿気っていますし、不気味ですわ!暗くて狭くて、死神の巣窟のようですわ!》
彼女は涙を浮かべて俺を睨みつけながらも、部屋の四隅に溜まった暗がりに怯えたように警戒している。
だが、ふと彼女が自分の置かれた状況に気づいたのか、その大きな瞳をさらに限界まで見開いた。
視線の先には、俺の脱ぎ散らかした一週間分の洗濯物の山や、机の上に積み上げられたカップ麺の空容器。
《……ちょ、ちょっと待ってくださいまし。ここ、なんですの!? この鼻を突くような饐えた臭いは! それにこの壁の染み! 貴方、まさかこのような人道に反するほど汚らわしい場所で生活していらっしゃるの!?》
少女は不快感を露わに顔を歪め、そのまま苛立ちをぶつけるように、俺が畳にこぼした発泡酒の缶を掴もうとした瞬間、その白く細い指先は抵抗もなく金属を透過し、空しく空を切った。
《……え?》
彼女が困惑したように自身の掌を見つめる。
そこにあるはずの布の感触がないのか、何度も何度も、縋るように自分の服を掴もうとして、その度に指先がすり抜けていく。
「おい……お前、まさか……」
俺は混乱を鎮めるために、消し忘れて放置していた古い液晶テレビに目をやった。
画面の中では、夜のニュース番組が無機質なキャスターの声で、世の中の不条理を淡々と報じている。
『――本日午後、神戸市内の路地裏で発生したひき逃げ事件の続報です。車にはねられた十九歳の女性は、依然として意識不明の重体。現在も集中治療室で、予断を許さない状況が続いています……』
「……重体?」
俺の声が、震えながら漏れた。
(死んでへん。ニュースでは、彼女は生きとる言うとる。意識不明の重体で、病院で寝とるはずや。なら、目の前におる、この表情豊かに怒鳴り散らしとる少女は、一体何なんや。幽霊やない……本物の生霊やいうんか?)
《あら……わたくし、寝ているんですの?》
彼女もまた、テレビの画面を凝視して動きを止めた。
信じられないといった様子で、彼女は自分の白く細い手をまじまじと見つめ、それからおもむろに自分の頬を、力任せに叩こうとした。
だが、その手は自身の顔を虚しく通り抜け、パチンという音すら立てることはなかった。
《……。痛みがない。感覚が……ありませんのね》
彼女の顔から、先ほどまでの激しい怒りが潮が引くように消え去り、代わりに底知れない孤独と恐怖が広がっていく。
《わたくし、体から抜け出してしまったということですの? 幽霊ではなく……生きているけれど、ここにいる……生霊、というものですの!? そんな、わたくしの意思とは無関係に、こんな場所へ引き寄せられるなんて……!》
「な、生霊……!?」
俺はクッションを盾に構えたまま、言葉を完全に失った。
(そんな、現実離れしたことがありえるのか。だが、現に彼女はここにいる。触れることもできず、物を掴むこともできない状態で。物理法則もクソもあったもんじゃない)
《名前、何とおっしゃいますの!? 早く答えなさいまし、この……この不衛生の化身! 逃がしませんわよ!》
彼女は自分の正体に戦慄し、今にも消えてしまいそうなほど頼りなく揺れながらも、俺の布団の、なるべく染みのなさそうな場所を慎重に選んで、そのまま、座るというよりは空中に留まるような形で静止した。
「……た、田村や。田村拓己。タクミでええ」
《タクミ、とおっしゃるのね。……不本意ながら、わたくし、帰る場所がなくなってしまいましたわ。あんな冷たい病院のベッドで、ただ眠り続けるのは嫌ですわ。それに、わたくしを撥ねたあの者たち。わたくしを亡き者にしようとした者たちの気配を感じるのです。あいつらから、逃げなければなりませんの》
少女は不服そうに頬を膨らませ、不満を隠そうともせずに、しかしどこか縋るような視線を俺に向けてきた。
「……帰る場所ないって、まさかここに居座る気なんか。俺、無職やぞ? 自分の世話だけで手一杯なんや」
《ふふ、仕方がありませんわ。わたくしをあそこで見つけたのは貴方ですし、気がついたらここに引き寄せられてしまいましたもの。これも何かの縁……いえ、貴方の避けられぬ不運だと思って諦めることですわね》
彼女はそう言うと、俺がこぼした発泡酒の空き缶を、せめて遠ざけようと手を伸ばした。
だが、その白く細い指先は無情にも缶を通り抜け、微かな金属音すら立てることは叶わなかった。
《くっ……! もどかしいですわ! 貴方、何を見ていらっしゃるの! わたくしが触れられない以上、貴方が動かすしかありませんでしょう!?》
彼女は顔を真っ赤にして、宙を掻くように手を動かしながら俺を指差した。
《ようこそ、わたくしの世界へ。タクミ。これから、死ぬほど忙しくなりますわよ? 覚悟なさいまし。それと、まずはこの部屋の大掃除を命じますわ! 生霊であっても、このような劣悪な環境では心が腐ってしまいますわ! 掃除です! すぐに始めなさい!》
彼女の理不尽極まりない命令が、狭い六畳間に響き渡った。
(忙しくなる? 掃除? ……俺の平穏で無味乾燥やった無職生活が、音を立てて崩れていく。明日からのハロワ通いより、目の前の生霊お嬢様の方が、よっぽど心臓に悪いし命の危険を感じるってどういうことやねん!)
俺はただ、震える手で空になったグラスを握りしめ、これから始まるであろう怒涛の日々に、胃の奥が焼け付くような熱を感じていた。
それが、安定した日常の終わりと、魂の迷い子との奇妙で残酷な共同生活の幕開けだとも知らずに。
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