第01話 その瞳(め)と目が合ったら最後
ハローワークの重い自動ドアが、背後で断罪の音を立てて閉まる。その油圧が漏れるような鈍い機械音さえも、今の俺には『貴様の座る席など、この広大な社会のどこにも残されてはいない』という、血も涙もない無慈悲な宣告のように聞こえてくる。
「……条件、厳しすぎるやろ。ふざけんなや。話ちゃうやないか」
吐き出した言葉は、五月の湿り気を帯びた生温い風に、力なく霧散した。
SE歴五年。二十七歳。俺がこの五年間、深夜まで目を血走らせてキーボードを叩き、心血を注いできたのは、今や生きた化石扱いされつつあるCOBOL言語と、それを動かすためのJCLだけだ。
金融機関の堅牢な基幹システムという、この国の血管そのものを守っているという自負はあった。保守、運用、夜間バッチの監視。地味で、それでいて一歩間違えれば数千万人に影響を及ぼす責任を背負ってきたつもりだった。
だが、一歩外に出ればこれだ。仮想化だのモダンな開発環境だの横文字ばかりの流行に、俺の培った確かな技術は無残に押し流されていく。
この街のどこを血眼になって探しても、俺のような古臭い人間を迎え入れる椅子なんて、一つも用意されちゃいないんだ。
二十七歳という、若くもなく、かといって熟練でもない中途半端な年齢が、余計に俺の首を絞めている。このままでは、技術の墓場に埋もれるのを待つだけの存在になってしまう。
社会から必要とされていないという感覚が、じわじわと真綿で首を絞めるように、俺の精神を蝕んでいくのが分かった。俺の五年間の努力は、一体何だったというのか。あの無機質な電算室で過ごした時間は、すべて徒労だったのか。
安物のリクルートスーツは、歩くたびに妙な熱を孕んで肌に張り付く。通気性の悪い安価な生地がじっとりと汗を吸い、不快な重みが鉛のように両肩にのしかかる。手にした求人票の束を、俺は拳の中で力任せに握りつぶした。指先に食い込む、インクの混じった紙の感触が、行き場のない焦燥をさらに激しく逆なでする。
俺は駅へと続く開けた大通りを避け、今の惨めな自分に相応しい、湿り気を帯びた薄暗い路地裏へと逃げるように足を踏み入れた。コンクリートの壁に囲まれたそこは、陽光が届かず、カビと排気ガスの不快な臭いが混じり合う、社会の澱みが溜まった吹き溜まりのような場所だった。
その時だった。
――キィィィィィィィィィッ! ドンッ!
鼓膜を直接、鋭利な刃物で突き刺されたような、暴力的な金属の悲鳴が狭い路地に激しく響き渡る。
続いて、鈍い、あまりに重苦しい衝突音。肉と鉄がぶつかり合う、生理的な嫌悪感を呼び起こす悍ましい音が、建物の壁に幾重にも跳ね返って俺の脳髄を直接揺揺さぶってくる。
心臓が口から飛び出しそうなほど跳ね上がった。全身の毛穴という毛穴が開き、氷のような冷や汗が全身から噴き出す。
俺の視界の端を、漆黒の高級車が猛スピードで、獲物を仕留めた獣のような冷酷さを残して、風を切って走り去っていく。タイヤがアスファルトを削り、ゴムの焦げた不快な臭いが鼻腔を強烈に突き、肺の奥深くまで侵食してくる。
静寂が戻った路上には、信じられないほど現実味を欠いた、地獄のような光景が広がっていた。
一人の少女が、まるで見せしめのように、無防備に横たわっている。
絹のように滑らかな黒髪が、汚れた路面に無造作に広がり、純白のワンピースがみるみるうちに不吉な赤に染まっていく。その鮮血は、俺が今まで眺めてきたどの不採用通知よりも鮮烈で、そして残酷なまでに”生”の終わりを予感させる。
アスファルトの黒と、彼女の純白と、そして溢れ出す朱。そのコントラストが、あまりにも悍ましい。路上に広がっていく血の海が、まるで俺の未来を暗示しているようで、吐き気が胃の底からせり上がってくる。
「おい、大丈夫か……っ!」
駆け寄ろうとした俺の足が、その少女の貌を見た瞬間に、まるで地面から生えた冷たい杭にでも打たれたかのように凍りついた。
人形のように整った、だが明らかに棲む世界が違うと一目で理解させる、圧倒的な気高さを纏った貌。
……やばい。関わりたくない。全身の細胞が、これ以上近づくなと絶叫している。
これは、俺のような人間が触れていい領域じゃない。絶対に関わっちゃダメなやつだ。
この気配、尋常じゃない。もしここで彼女の死に目に立ち会ったりしたら、俺の人生は完全に終わる。いや、消される。俺には分かる。
これは表の社会の事件じゃない。俺のような持たざる者が、決して覗いてはいけない闇の深淵だ。今の俺に必要なのは安定した仕事であって、映画のような凶悪事件の証人になることじゃないんだ。
この身なり、この気圧されるような空気。彼女の背後に控えているのは、俺のような社会の片隅で喘いでいる人間が一生かかっても太刀打ちできない、底知れない権力を持った一族に違いない。
ここで第一発見者になればどうなる? 果てしない事情聴取、終わりのない証人喚問、下手をすれば、あの黒塗りの車の主。彼女を葬ろうとした闇に、俺まで口封じで消される。二十七年間の、何の変哲もない、むしろ冴えないこの人生に、これ以上の不条理と死の恐怖を上書きしたくはなかった。
だが、このまま放置して彼女に死なれれば、この先の人生、一生この赤い光景が夢に出て俺の精神を苛み続けるだろう。その罪悪感に耐えられるほど、俺は図太い神経を持ち合わせてはいない。
俺は震える指でスマートフォンを取り出し、手汗で滑る画面を必死に叩いた。一一九番。
「事故です。場所は、ハローワーク裏の突き当たりです。早よ、一刻も早よ来てください」
場所と状況だけを、肺にある空気をすべて絞り出すように早口で告げると、オペレーターの応答を待たずに通話を切った。
遠くから、微かに、だが確実に、大気を切り裂くサイレンの音が近づいてくる。
騒ぎを聞きつけた近隣の住人や、どこからか湧いてきた通りがかりの者たちが、何事かと一人、また一人と路地に顔を出し始めた。ぞろぞろと集まり出した野次馬たちの無責任な喧騒が、静まり返っていた路地裏を急速に埋めていく。
「なんや、事故か?」
「ひどいな、これ……助かるんか?」
「おい、誰か警察呼んだんか?」
「見てみぃ、あの格好。どっかのお嬢様やろ?」
好奇心に満ちた囁き声が波のように広がり、無数のスマートフォンが、路上に横たわる悲劇を記録しようと一斉に向けられる。
その喧騒の中で、俺は己の存在が希薄になり、消えていくような感覚に陥った。群衆の影に紛れるように、その場を離れようとした、その時だ。
ピクリ、と。
路上に伏していた少女の指先が、何かの合図のように痙攣した。
その後、重苦しい瞼が、まるで自らの意志の力だけでこじ開けられるかのように、ゆっくりと開かれた。
深淵のような漆黒の瞳が、真っ直ぐに、射抜くように、俺の矮小な魂を捉えた。
「あ……」
声にならない呻きが漏れる。
彼女の瞳は、逃げようとする俺をじっと見つめていた。それは、か細い助けを求める視線などではない。俺という人間の輪郭を、その逃げ腰な貌を、卑怯な魂の形を、すべてその網膜の奥に永遠に焼き付け、逃がさないと誓うような執念の輝きに見えた。
その視線に、俺の足が竦み、全身の血液が逆流するような衝撃が走る。
俺は、押し寄せる罪悪感に背中を焼かれるように、横たわる彼女の耳元へ顔を寄せた。
「大丈夫か? いま救急車来とるからな。すぐ助け来る」
精一杯の、そして最低の虚勢。
言い終えるが早いか、俺は彼女の瞳から、無理やり引き剥がすように視線を逸らした。
サイレンの音が路地のすぐそばまで迫り、救急車の赤い回転灯が、周囲の壁を不気味に舐め回し始めた。
野次馬の波を必死に掻き分け、背中に突き刺さるようなあの不吉な視線を振り切るように、俺は逃げ出した。泥水を跳ね上げ、自分の薄汚れた六畳一間を目指して、心臓が破けるほどの勢いで、後ろを振り返ることなく走り続けた。
自分が何をしたのか、何を失ったのか。
それが、この先の人生を丸ごと拉致される、底なしの沼へ足を踏み入れる合図だとも知らずに、俺はただ、暗い部屋へと続く階段を駆け上がった。
俺は何も見ていない。何も知らない。明日もまた、あの無味乾燥なハローワークに通うだけだ。そうだ、そうあるべきなんだ。
俺はただの無力な元SEに過ぎない。こんな面倒に首を突っ込む資格も余裕も、どこにもありはしないんだ。
忘れるんだ。あの瞳も、あの赤い色も、すべては白昼夢だったと思えばいい。明日になれば、また新しい求人票を探す日常に戻れる。そう、戻らなきゃいけないんだ。
そう自分に強く言い聞かせる俺の脳裏には、あの漆黒の瞳が、呪いのように今も鮮明に焼き付いて、いつまでも離れなかった。
※イメージ画像のみ、生成AIで作成いたしました。
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