第49話 永遠の檻
ついに、俺は逃げることを完全に止めた。いや、逃げるという行為そのものが、この圧倒的なまでの意志の前では無意味であると、魂の深層まで理解させられたのだ。もはや、完全なる降伏以外の道は残されていなかった。
芦屋の深淵、鳳凰寺家本邸の奥底に位置する、あの豪奢極まる客室。扉を押し開けて足を踏み入れると、そこにはただ一人、窓の外の雨を見つめる凛の背中があった。
だが、俺が室内に入ったのとほぼ同時に、背後の廊下から複数の足音が出迎えのように近づいてくる。振り返る間もなく、凛の両親、そして老執事を先頭に、メイドたちが一斉に室内へと流れ込んできた。
瞬く間に、俺が入ってきた扉の前には数人の使用人たちが陣取る。さらにその背後には、壁のように立ちはだかる屈強な体躯のガードマンたちが、微塵の隙もなく控えていた。彼らは一様に、春の陽だまりのようなニコやかな、しかし俺が二度とこの部屋から逃げ出せないことを確信しているような逃げ場のない微笑みを浮かべていた。
部屋の奥、柔らかな絹のクッションに身を預けていた凛が、ゆっくりとこちらを振り向く。その紅い唇は、三日月のように歪んでいた。
「タクミ、ようやく来ましたのね。わたくし、待ちくたびれましたわよ」
凛は、目の前の机上に置かれた、先ほど俺が署名を終えたものとは別の、さらに純白で重みのある一枚の書面を、慈しむようにして俺に突きつけきた。それは、単なる資産の譲渡や地位の保証を記した契約書などではない。法的に、そして魂の根源から男女の縁を末長く結びつけるための婚姻届である。
傍らでは、鳳凰寺の当主が、威厳ある声で俺に語りかけてくる。
「田村君、どうか……どうか凛を生涯、その手で支えてやってほしい。君という存在がなければ、この子の心は救われなかった。君にしか、彼女の伴走者は務まらないのだ」
当主は一歩踏み出し、俺の反応を待たずにさらに言葉を畳みかけた。
「それに、今後の仕事についても一切の心配はいらない。鳳凰寺グループ傘下のIT企業を一つ、君に完全に任せることに決定した。今日から君が、その組織の頂点に立つ社長だ」
あまりの急展開に、俺の思考は一瞬停止し、次の瞬間には激しい拒絶感が噴き出す。
「待ってください! 社長だなんて、そんなの無理に決まっています。俺は……俺はただの一介のエンジニアですよ? 経営のいろはも知らない男が、いきなり一企業のトップに立つなんて、正気の沙汰じゃありません」
「経験がない? そんなものは、優秀な役員を数名つければ済む話だ。君に求めているのは、あの極限状態において凛を守り抜き、剛三の牙城を崩した、その『本質を見抜く眼』だよ。ビジネスとは突き詰めれば人間力だ。技術的な欠落など、鳳凰寺の資金力でいくらでも補填できる」
俺はさらに、胸の奥に隠し持っていた最大の劣等感をぶちまけた。
「……それだけじゃありません。俺には両親だっていない! 施設で育った何の後ろ盾もないガキなんです。おまけに、俺はもう二十七だ。十九歳の彼女とは、あまりに年が離れすぎている! こんな住む世界も、生きる時間軸も根本から違う場所に、俺なんかが居ていいはずがないんでしょう!」
魂を削り出すような叫び。だが、当主は眉一つ動かさず、むしろ愉快そうに口角を上げた。
「施設育ち、結構じゃないか。天涯孤独ということは、しがらみがないということだ。鳳凰寺の色に染まるのに、これほど好都合な条件はない。君が積み上げてきた努力、その身一つで生き抜いてきたバイタリティこそ、我が家が最も欲していた資質だよ。育ちなどという些細な問題は、鳳凰寺の『姓』を与えることで即座に解決する」
当主は、隣で微笑む妻の肩を抱き寄せ、さらに言葉を続けた。
「年齢差を気にしているのか? 我々夫婦だって十歳は離れている。たかが八歳程度の差など、鳳凰寺の長い歴史の前では誤差のようなものだ。成熟した男が、若き伴侶を導く。それこそが、一族の盤石な基盤となるのだよ」
政財界を影から操る当主にとって、俺の正論や自虐など赤子の手をひねるより容易いものだった。次々と放たれる言葉は、俺の逃げ道を論理という名の鎖で縛り上げていく。俺が反論すればするほど、それは当主の圧倒的な支配力に飲み込まれていった。
沈黙する俺の目の前で、凛が傍らに立てかけていた松葉杖を、いっそ忌々しげに床へと放り出す。乾いた音が室内に響き、扉の前のメイドたちが一瞬だけ顔を輝かせている。
彼女はおぼつかない足取りで、震える膝を必死に抑えながら、俺の方へと一歩ずつ歩み寄ってくる。
あと少し、あと数歩という場所で、彼女の細い足が毛足の長い絨毯に足を取られた。
「あ……っ」
短く可愛らしい悲鳴。彼女の体はそのままバランスを崩し、俺の胸の中へと吸い込まれるように飛び込んできた。
俺の腕の中で、凛は一瞬にして顔を林檎のように赤く上気させる。
凛は瞬時に、あの出会った当初のような不遜な微笑を取り繕い、俺の目を下から射抜くようにして言い放った。
「タクミ……。貴方、わたくしを支える機会を差し上げていますのよ。光栄に思いなさいまし。今日から貴方は、わたくしの生涯の伴侶。拒否権など、最初からこの屋敷のどこにも用意していませんの。……さあ、署名なさいまし!」
腕の中に収まる彼女の驚くほど小さな体温。
確かに俺だって、彼女のことを悪く思っていたわけじゃない。むしろ、あの奇妙な共同生活の中で、いつしか彼女の存在は俺の心の欠けていた部分を埋めるようになっていた。
凛は俺の胸に顔を埋めたまま、ふっと力を抜いた。そして、周囲には聞こえないほどの微かな声でポツリと呟いた。
「……タクミ。わたくし、あの安いカップ麺というものを、今度は自分の口で食べてみたいですわ。あの時、貴方の部屋で漂っていたあの不思議な匂いを、わたくし、今でもはっきりと覚えていますのよ」
その言葉は、どんな企業の椅子よりも、俺の胸を強く締め付けた。生霊だった彼女が見ることも叶わなかった未知の食べ物。それを一緒に味わうというささやかな願いこそが、この黄金の檻の中に唯一持ち込まれた、俺たちの『真実』なのだから。
「……降参や。俺の負けやな、凛」
俺が、その重い絆をすべて受け入れる決意を込めて囁いたその瞬間だった。
張り詰めていた客室の空気が一気に弾け、嵐のような拍手が巻き起こった。
「素晴らしい! よく言ってくれた!」
当主が破顔し、傍らに立つ母様と共に、溢れんばかりの喜びを湛えて俺たちを取り囲む。その距離は、もはや他人としての壁を一切許さぬ、家族としての親密さに満ちている。
そして、傍らに控えていた老執事は、長くこの家に仕えてきたからこその深い感慨に浸るように、しわの刻まれた目尻に光る涙を浮かべていた。彼は震える手で何度も拍手を繰り返し、言葉にならない喜びを噛み締めている。
扉の前に並んだメイドたちも、まるで自分のことのように顔を上気させ、惜しみない祝福を送り続ける。さらには、背後を固めていたガードマンたちまでもが、その屈強な胸板を震わせ、地鳴りのような拍手を俺たちに浴びせかけたのだ。
鳴り止まない祝福の音。その中心で、凛は俺の胸に顔を埋めたまま、勝ち誇ったように、そして誰よりも幸せそうに微かに肩を震わせていた。
(……結局、このお嬢様の引力からも、鳳凰寺という名の巨大な家族からも、死ぬまで一生逃げられへんっていうことか……な?)
俺は運命を呪い、同時にすべてを受け入れる覚悟を決めて、銀のペン先を白い紙面へと沈めた。
インクが吸い込まれていくその感覚は、俺のこれまでの人生が消え去り、鳳凰寺タクミとしての新たな生が刻まれる音のように聞こえる。
物語は、雨に濡れる芦屋の森に抱かれながら、二人の間に結ばれた果てなき絆を予感させて、決定的に幕を閉じたのである。
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