第48話 遅すぎた自白 ~凛視点~
鳳凰寺家本邸、その一角に位置するわたくしの部屋。降りしきる雨の音が、重厚な石造りの壁を越えて、広大な部屋に微かな振動を伝えていた。わたくしは、最高級の絹が張られた天蓋付きのベッドの上で、何度目か分からない寝返りを打つ。厚手のシルクが肌を滑るたび、なぜかあのアパートの少し毛羽立った安物の布団が思い出されてしまうのだ。
(……はぁ。あの日、わたくしが彼のアパートでどんなに無様な姿を晒していたか。それを思い返すだけで、顔から火が出そうですわ。でも、もっと信じられないことが起きてしまいましたの。あのアパートで、生霊として彼の側で過ごしたあの日々が、今のわたくしをこんなにも狂わせるなんて!)
明日は、ついにタクミがこの屋敷にやってくるかもしれない日。
そう考えただけで、心臓の鼓動が耳障りなほどに跳ね上がる。彼が本当に来てくれるのか。あの不器用だが鋼のような芯を持った男が、この威圧的な鳳凰寺の門を潜ってくれるのか。不安が胸の内で渦巻いて、いても立ってもいられない。
「……タクミ。貴方、もし来なかったら承知しませんわよ。わたくしの呪いで、一生カップ麺の湯切りに失敗させて差し上げますから。それも、中身が全部シンクに流れてしまうような、最高に惨めな失敗をね」
そんな子供じみた独り言を呟きながら、わたくしは一つの重大な決意を固めていた。
この胸の奥で暴れる、この熱い感情の正体。
肉体に戻ってからというもの、わたくしはあのアパートでの出来事を、包み隠さず両親に話した。命を救われ、魂を繋ぎ止められた恩義。ただ、それだけでは説明がつかない、もっと根源的で、もっと傲慢な独占欲。
(わたくし、鳳凰寺凛は、あんな冴えないエンジニア……田村タクミを、愛してしまっている。認めますわ、認めればよろしいのでしょう!?)
一度自覚してしまえば、もはや堰を切ったように想いが溢れ出す。だが、わたくしは鳳凰寺の令嬢。ただ「好きですわ」などと可愛らしく口にするだけでは足りない。彼を、この鳳凰寺という巨大な檻の中に永遠に繋ぎ止めるための公的な許し、そして”家族”としての逃れられない縛りが必要なのだ。
寝室の鏡の前で、わたくしは何度も予行演習を繰り返した。
「お父様、わたくし、彼を夫にしますわ。文句は言わせませんことよ?」
……いえ、これでは少し品がない。
「彼こそが、鳳凰寺の未来を担うに相応しい殿方ですの。わたくしは確信しておりますわ」
……これではあまりに事務的すぎる。
髪を振り乱し、三時間ほど悶絶し、枕を何度も叩きつけ、ようやくわたくしは覚悟を決めた。たとえ反対されようとも、勘当されようとも、わたくしは彼を離さない。
ガウンを羽織り、悲壮な決意を胸に、わたくしは両親の待つ書斎へと向かった。廊下を歩く足音が、まるで処刑台へ向かう軍靴のように重く響く。
「お父様、お母様。わたくし、お話がありますの。とても重要な、鳳凰寺家の将来に関わるお話ですわ」
扉を押し開けると、そこには優雅に深夜の紅茶を楽しむ両親と、その背後に影のように控える老執事の姿があった。三人の視線が一斉にわたくしに注がれる。
わたくしは拳を握りしめ、顔を真っ赤にしながら、一生に一度の告白を口にした。
「わたくし、あの……田村タクミ様のことを、本当にお慕いしておりますの! 彼を鳳凰寺の家族として、わたくしの伴侶としてお迎えしたいのですわ。異論は一切認めませんことよ!」
言ってやった。これで、屋敷中がひっくり返るほど驚くに違いない。お父様は激昂して机を叩き、お母様はあまりの衝撃に言葉を失うかもしれない。
そう身構えたわたくしを待っていたのは、しかし、あまりに拍子抜けな、そして『今更何を言っているんだ、この子は』と言わんばかりの呆れ果てた眼差しだった。
「……あら、今更ですの、凛? 貴女のその様子を見ていて、まだ自覚がなかったことの方が驚きですわ」
お母様が、可笑しそうに口元を扇で隠して、深い溜息を吐く。
「貴女、眠りながらずっと彼のお名前を呼んでいましたし。あのアパートから持ち帰らせた、彼の匂いが染み付いたあのシャツを『宝物ですわ』と言って離さなかったではありませんか。毎日、それを抱きしめて頬ずりしていたこと、知っていますのよ?」
「なっ……!? なぜ、それを! 誰も入るなと言ったはずですわ!」
わたくしは絶句した。生霊だったわたくしには、本来着替えなど必要なかったのだ。だが、わたくしの様子を不憫に思った我が家の使用人が、彼の部屋に無造作に脱ぎ捨てられていた綿のシャツを、タクミに気づかれぬよう密かに回収してきた。もちろん、代わりに新品の最高級シャツを、お詫びのつもりか嫌がらせのつもりか、彼の部屋に置いてきたそうだが……まさか、その使用が筒抜けだったなんて!
「凛よ。お前があのアパートでの生活を事細かに、しかも頬を赤らめながら語り始めた時から、我々はとっくに覚悟を決めていたよ。お前のあの熱のこもった話しぶりを聞いて、気づかない親がいると思うかね? 正直、いつ言い出すのかと、お前の口からその言葉が出るのを首を長くして待っていたのだよ」
お父様までもが、椅子に深く腰掛け、やれやれと首を振る。その目は、娘の初恋を温かく見守るというよりは、あまりに遅すぎる理解力に呆れているといった風情だった。
「左様にございます、お嬢様。田村様に関する調査資料を読み耽り、時折溜息を吐いていらっしゃったお姿……我ら使用人一同、微笑ましく、そして少々焦れったい思いで見守らせていただいておりました。皆様、お嬢様の『タクミ、タクミ』という独り言には、すっかり耳が慣れてしまいましたよ」
老執事までもが、しわの寄った目尻を下げて、これ以上ないほどに穏やかだが、完膚なきまでの”呆れ”を含んだ笑顔を向けてくる。
(……恥ずかしい! 穴があったら入りたいとは、まさにこのことですわ! わたくしの決死の自白は、ただの『既知の事実の再確認』に過ぎなかったというのですか!?)
顔面を林檎のように真っ赤に上気させ、わたくしはわなわなと震えてしまった。
鳳凰寺の完全無欠な令嬢としてのプライドが、身内という名の包囲網によって粉々に砕け散っていく。
そんなわたくしを余所に、お父様は表情を引き締め、老執事に向き直った。その目は、もはや娘への呆れを捨て、一族の当主としての鋭さを取り戻している。
「……ところで、例の件は、どうなっている?」
老執事は、どこか満足げな表情で深く頭を下げる。
「はっ。すべて、抜かりなく整えてございます。田村様がこの屋敷の一歩でも踏み込めば、二度と外界へは戻れぬよう、あらゆる逃走経路を物理的、社会的に封鎖し、法的な包囲網も完成いたしました。明日は、お嬢様の望む通りの結末となるでしょう。逃げ出そうとした瞬間に、逃げ道そのものが消える手はずとなっております」
「そうか。ならば良い。鳳凰寺に入ったからには、一兵卒から社長まで、徹底的に使い倒させてもらうからな。まずはあの折れない意志を、我が一族のために向けてもらおう」
(ちょっと待ちなさいまし。今の会話、どう聞いても愛の告白への準備ではなく、獲物を捕らえるための完璧な作戦会議ではありませんこと!?)
両親と老執事の恐ろしいまでの結束力と準備の良さ。どうやら、わたくしが一人で悶々と悩んでいた数時間の間に、外堀はすべて埋め立てられ、内堀には罠まで仕掛けられていたようだ。
タクミ、貴方、覚悟なさい。
わたくしが愛してしまった以上、そしてこの鳳凰寺家が貴方を『家族』と認めてしまった以上、貴方の自由は今夜で最後。
わたくしは、羞恥心と期待で火照る体を抱えたまま、窓の外の雨空を見つめた。
タクミ、早く来なさい。そして、わたくしという名の、この上なく幸福で、二度と逃げ出すことのできない檻に、その身を捧げるのだ。
明日、あの輝かしい勝利の署名。
それを夢見ながら、わたくしは今度こそ、幸せな溜息と共に眠りに就くのだった。
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