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<全50ep> 鳳凰寺凛の生霊事件簿 ~視えるのは、世界で無職(おれ)一人~  作者: 第三ひよこ丸
第5部 【強制連行と生涯契約】

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第45話 王女の告白

 当主から手渡された重みのある封筒。その中に、別邸への地図と共に忍ばされていた数枚の万札を握りしめ、俺は三宮の駅前で一台のタクシーを拾った。

 乗り込んだ直後の運転手は、いかにも仕事に倦み疲れたといった様子で、バックミラー越しに俺の安物の服装を見て、鼻を鳴らすようなぶっきらぼうな態度を隠そうともしなかった。「兄ちゃん、行き先は?」と急かしてくる。


 だが、俺が地図を指し示し、鳳凰寺家の別邸の名前を告げた瞬間、車内の空気は一変した。


「……承知いたしました。鳳凰寺様のお屋敷でございますね。足元、お気をつけて」


 これまでの横柄さが嘘のように、運転手の声は瑞々しいまでの敬意を帯びた。ハンドル捌きは、まるで高級ワインのボトルを運ぶかのような繊細で滑らかなものであり、路面の段差ひとつさえも俺に感じさせないほどの細心の注意が払われているようだった。

 一介のタクシー運転手でさえ、その名を聞くだけで態度を百八十度変えてしまう。それが鳳凰寺という名がこの街で持つ、抗いようのない()()()()()の証明だった。


 俺は葛藤の果てに、地図が示す場所へと辿り着いた。そこは六甲の山奥、深い木々に守られるようにしてひっそりと、確固たる威容を誇って佇む鳳凰寺家の別邸だった。外界の喧騒を完全に遮断した巨大な門扉を前に、俺は意を決して、冷たい金属の質感が伝わる呼び鈴のボタンを押し込んだ。


「……田村拓己です。凛お嬢様に呼ばれて来ました」


 インターホン越しに自分の名前を告げると、間髪入れずに扉が、主人の帰還を待ちわびていたかのように滑らかに左右へと開かれる。

 門をくぐれば、そこには丁寧に整えられた前庭が広がっていたが、感傷に浸る暇もなく、玄関先では背筋を真っ直ぐに伸ばした年配の使用人の女性が、深く丁重な礼をもって俺を迎え入れた。


「田村様ですね。お待ち申し上げておりました。さあ、こちらへ」


 一切の無駄がない洗練された所作で案内されたのは、屋敷の奥にある格式高い客室だった。高い天井には豪奢なシャンデリアが輝き、足元には厚手の絨毯が敷き詰められている。俺のようなしがない男が足を踏み入れるには、あまりにも場違いな空間だ。

 使用人の女性が静かに扉を閉め、俺が独り上質な革張りのソファに腰を下ろして数分。部屋の入り口の扉が開かれた。


 

 姿を現したのは、凛だった。


 だが、その手には金属製の松葉杖が握られていた。彼女はそれを両脇に差し、震える足で頼りなげに、それでもしっかりと自分の重みを絨毯に預けて一歩ずつこちらへと歩んできた。アパートで、透き通った『生霊』として俺の部屋を勝手に浮遊していた頃の、どこか浮世離れした姿ではない。重力に抗い、痛みに耐え、自力で一歩を踏み出そうとする、血の通った生身の人間としての凛がそこにいる。


「よぉ、お嬢様。元気にしてたか? ……その足、ちゃんと治るんか?」


 俺は努めて軽い調子を装い、立ち上がって声をかけた。以前の主従とも敵対者ともつかない、あの腐れ縁の距離感を必死に手繰り寄せながら。


「……来てくださったのね、タクミ」


 凛は一度立ち止まり、こちらの気配を慈しむようにして顔を上げた。窓から差し込む光の中で、彼女の表情は痛々しいほどに白く、一切の迷いを断ち切ったかのような凛然とした強さを湛えている。


「ええ。お医者様のお話では、完治すると言われておりますわ」


 凛は一度言葉を切り、松葉杖を握る手に力を込めた。その指先は白く震えており、彼女が今自分の足で歩いていることさえも、凄まじい精神力の産物であることを物語っている。


「ただ、まだしばらくは、こうして見苦しいリハビリを続けなければなりませんけれど」


 凛は自嘲気味に微笑み、ソファの向かいに辿り着くと、慎重な所作で腰を下ろした。そして、真っ直ぐに俺の目を見つめてくる。


「見苦しいなんてことあるか。自力で立ってるお前を見るのは、初めてやからな。……で、話ってのは?」


 俺が促すと、凛は少しだけ視線を泳がせ、それから意を決したように唇を噛んだ。


「タクミ。……まずは、謝らせてください。わたくし、本当に最低なことをいたしましたわ」


 凛は深く、深く頭を下げた。名門のお嬢様が、俺のような男に向かって、プライドをかなぐり捨てて謝罪の意を示す。その様子には、以前の傲慢な支配欲とは異なる、剥き出しの誠実さが宿っていた。


「わたくし、怖かったのです。目覚めた時、世界はあの日から何も変わっていないのに、わたくしの中にいた貴方だけがいなくなってしまった」


 彼女の声が微かに震える。


「あのアパートで、貴方と過ごしたあの奇妙で温かな時間が、すべて夢だったのではないかと……。そう思うと、呼吸もできないほどに胸が締め付けられましたの」


「だからって、あんな真似するか普通。俺の仕事先まで潰して、逃げ場なくして……。あれじゃあ、ただの監禁やぞ」


 俺の苦言に、凛はさらに身を縮め、膝の上に置いた手を強く握り締めた。


「わたくしは、本当に卑怯者ですわ。こうして鳳凰寺という名の巨大な力を使い、貴方の周囲を埋め立てて、逃げ道すらも奪い去らなければ、傍にいていただけない……」


 凛は消え入りそうな声で、自らの罪をなぞるように言葉を紡ぐ。


「そう信じ込んでしまうほど、わたくしは独りきりの世界に、ただ、怯えていたのです。貴方の尊厳を傷つけ、自由を奪ったこと、どれほど後悔しても足りませんわ」


 凛は再び顔を上げ、今にも折れてしまいそうなほど、縋るような眼差しを俺に向けた。


「タクミ、貴方はわたくしを恨んでいらっしゃるでしょう?」


「恨んでる。当たり前やろ。毎日毎日、お前の影に怯えて、自分が自分じゃなくなるような感覚……。あんな思い、二度と御免や」


 俺が冷たく突き放すと、凛の肩がびくりと震えた。だが、彼女は逃げることなく、潤んだ瞳で俺を見つめ返した。照明の光を反射して、その瞳は壊れそうな硝子細工のように輝いている。


「……そうですわね。恨まれて当然です」


 彼女は溢れそうになる涙を堪えるように、一度強く目を閉じた。


「でも、それでも、わたくしを、あの時のように、また……叱ってくださらない?」


 凛の声は、祈りにも似た切実さを帯びていた。


「貴方のその腹の底から湧き上がる怒りさえ、今のわたくしにとっては、この凍りついた心に触れてくれる唯一の温もりなのです」


 静かな客室の中で、凛の大きな瞳から一筋の涙が、堰を切ったように零れ落ちた。


「わたくしがまた道を誤ろうとしたら、その時は、何度でもわたくしを叩き直してほしいのです。お願い、タクミ……」


 その雫が絨毯に吸い込まれる音さえ聞こえるような静寂の中で、俺は、彼女を突き放すための冷酷な言葉を、どうしても見つけ出すことができなかった。


(……ほんまに、どこまでも自分勝手なお嬢様や。でも……、その震える声も、涙も、あの生霊の時と同じくらい、真っ直ぐに俺を射抜いとるわ。偽物やない、本物の鳳凰寺凛が、ここに座っとる)


 俺の心の中に渦巻いていた、理不尽な包囲網への憤りや恐怖は、彼女が剥き出しにした『孤独』という名の深淵を前にして、行き場を失い、霧散していった。


「……わかった、わかった。お前のその歪んだ根性、リハビリと一緒に叩き直してやる。そやから、もう泣くな。お嬢様の泣き顔なんて見たくないわ」


 俺の言葉に、凛は顔を上げ、信じられないものを見るような表情をした。


「タクミ……。本当に……?」


「ああ。ただし、条件がある」


 俺は身を乗り出し、彼女の涙を指先で拭いたい衝動を抑えながら、力強く告げた。


「リハビリ、サボるなよ」


 一言一言、言い含めるように言葉を重ねる。


「次にお前が俺の前に現れる時は、その松葉杖なしで、シャキッと立ってろ。鳳凰寺の力やなくて、お前自身の足で、俺のところまで来い。話は、それからや」


 俺が絞り出すようにそう告げると、凛は一瞬驚いたように目を見開き、やがて花がほころぶような、年相応の少女らしい笑みを浮かべて頷いたのだった。


「……はい。約束いたしますわ。タクミが驚くくらい、立派に歩いてみせます」


 凛は涙を拭い、確かな決意を込めた瞳で俺を見つめ返した。


「ですから、その時まで……どこへも行かないでくださいね?」


「……勝手にしろ。俺も、自分の足で自分の人生取り戻さなあかんからな」


 月明かりが差し込む格式高い一室で、俺たちの歪で、それでいて新しい関係が、静かに幕を開けたような気がした。

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