第44話 父の眼差し
”何もしない”という、ある意味ではどんな肉体的な拷問よりも残酷で、なおかつ緻密に計算し尽くされた凛の戦略。
それに抗おうとするたびに、俺の精神は音を立てて軋み、今にもぷつりと断ち切れてしまいそうなほど、限界までギリギリと引き絞られていた。
そんなある日のことだ。神戸の空が、まるで誰かが濃いインクをこぼしたかのように、禍々しくも美しい血の色に染まりつつある夕暮れ時。中央区の片隅、お世辞にも上品とは言えない俺のボロアパートの前に、一台の車が排気音ひとつ立てずに、滑り込むようにして音もなく停車した。
それは一見すると控えめな黒塗りの国産セダンだったが、磨き抜かれた車体が放つ独特の重厚な光沢が、かえって隠しきれない最高級の品格を周囲に撒き散らしていた。
(……なんや、次は刺客か? それとも、街中の信号を全部青に変えるだけじゃ飽き足らんくなって、今度は俺の部屋を物理的に包囲でもするつもりか?)
身構える俺の前に現れたのは、あのお嬢様の取り巻きでも、軍隊のような車列を率いる強面たちでもなかった。そこに立っていたのは、鳳凰寺家の現当主、凛の父親であった。
彼は、湿気たカビの匂いと、昨日食べた安物のカップ麺の残骸が放つ生活臭が停滞する俺の狭苦しい四畳半の部屋に、あまりにも場違いな、そして周囲の空気を一瞬で清めるような気品を纏って上がり込んできた。そして、綿の飛び出した古びた座布団に、まるで王座にでも座るかのような優雅な所作で腰を下ろしたのである。
「田村君。まずは……何よりも先に、君に謝罪しなければならないことがある。本当に、申し訳なかった」
そこには、俺が想像していたような、権力を盾に相手をねじ伏せるような威圧感は微塵もない。むしろ、そこにあるのは一人の娘を持つ親としての誠実で、どこか申し訳なさに肩を落としたような、痛々しいまでの真剣な眼差しだった。
「凛が、君に対して……。あのような暴挙に出ていたとは、不徳の致すところ、この私ですら今の今まで露ほども知らなかったのだよ。最近、あの子が部屋に籠もりきりになっているのを不審に思ってね。古くから仕えている使用人を厳しく問い詰めたところ、ようやく判明したのだ。あの子が一族の権力に物を言わせ、執拗に、偏執的に君の日常を追い詰めていたという、そのあまりにも行き過ぎた事実を」
当主は、苦虫を噛み潰したような顔で言葉を継いだ。名門、鳳凰寺の当主ですら把握しきれないほど、凛の暴走は秘密裡に行われていたというわけだ。
「もちろん、あの子には厳しく言い聞かせた。人として、やってはいけない一線を越えていると、厳格に叱り飛ばしておいたよ。……君が受けた恐怖を思えば、それで済む話ではないことは百も承知だがね」
(……厳格に叱った、か。まあ、この甘々そうな当主様のことや。どうせ『凛、あまり度が過ぎる遊びはいけないよ。お友達を困らせてはいけない』くらいの優しい諫め方やったんやろうなぁ……)
俺は心の中で、苦笑いにも似た溜息をついた。あのお嬢様が、親の説教一つで「はい、そうですか」と大人しく引き下がるようなタマだとは、到底思えなかったからだ。
それよりも、俺にはどうしても確認しておかなければならない最悪の可能性がある。俺は震える膝を叩いてから、目の前の支配者を見据えた。
「……一つ、聞いてもええですか。あんたたちは、剛三を捕まえた。一族の膿を出し切るために、俺という部外者を利用したわけや。用が済んだ今……口封じのために、俺を『始末』しようとはしてないんですか?」
俺の問いかけに対し、鳳凰寺の当主は、まるで予想だにしない言語を耳にしたかのように一瞬だけ驚きに目を見開いた。端正な顔立ちが固まったかと思うと、次の瞬間、彼は膝を叩いて、腹の底から突き上げるような大笑いを始めたのだ。
「ハハハハハ! 始末だと? いや、失礼……。ハハハ! 田村君、君は面白い男だ。確かに世間では鳳凰寺について根も葉もない噂が流れているようだが、我々はいつからそんな、三流の犯罪組織のような家系になったというのかね!」
当主は涙を拭いながら、ようやく呼吸を整えると、呆れ顔の俺に身を乗り出して経緯を話し始めた。
「いいかね、田村君。確かに剛三は一族にとって大きな恥辱であり、早急に排除すべき癌細胞だった。だが、彼を合法的に、ぐうの音も出ない形で追い詰めるための証拠を揃えてくれたのは、紛れもなく君の命懸けの行動だ。そんな大恩人を始末するなど、鳳凰寺の歴史に泥を塗るような真似、この私が許すはずがないだろう。むしろ、我々は君を……ああ、そうだな。最大の功労者として遇する準備を進めていたくらいなのだよ」
当主の瞳には、先ほどまでの謝罪の色とはまた違う、本物の敬意が宿っていた。だが、彼はすぐにその表情を曇らせ、声のトーンを落とした。
「だが、凛の問題は別だ。あの子は、今も自分自身の中に潜む魔物と戦っているのだよ」
「魔物……ですか? ……あのお嬢様の中に、まだ何か得体の知れんもんが巣食っとるって言うんですか」
俺の問いに、当主は力なく首を振った。
「いいや、田村君。それは外から取り憑いたような便利なものではない。鳳凰寺という、あまりにも巨大な『力』を持って生まれた者が、逃れようもなく背負わされる宿命……。あの子の中に棲む魔物とは、他でもない、『孤独』という名の底なしの渇きなのだよ」
当主の語る言葉は、俺が想像していたようなオカルトめいた話ではなく、もっと現実的で、それゆえに救いのない残酷な響きを持っていた。
「幼い頃から、凛の周囲には常に『鳳凰寺』という名に跪く者しかいなかった。称賛も、跪拝も、あるいは向けられる憎悪や嫉妬でさえも、すべてはあの子個人ではなく、背後の家柄に向けられたものだ。誰からも対等な人間として見られず、鏡の中の自分さえも一族の象徴としてしか認識できない。そんな歪んだ環境が、あの子の心に底なしの空白を作り上げたのだ」
当主は、まるで懺悔でもするかのように、苦い表情を浮かべた。
「その空白を埋めるために、あの子はいつしか、他者を完全に支配することでしか自分を確認できなくなったのだよ。手に入れたいものを、力ずくで、あるいは搦め手で、完膚なきまでに自分の色に染め上げる。そうしなければ、自分が消えてなくなってしまうような恐怖に怯えているのだ。……君を執拗に追い詰めたあの狂気こそが、あの子の心を守るための醜くも悲しい魔物の正体なのだよ」
俺は、あのフルーツバスケットに添えられていた、悍ましいほどの所有宣言を思い出した。あの「支配してあげますわ」という言葉の裏に、もしも震えるような孤独が隠されていたのだとしたら。
「あの子が君に執着するのは、君だけが鳳凰寺の威光に屈せず、一人の男として、時に怒り、時に抗い、真っ直ぐに凛自身を見つめたからだ。魔物は今、君という唯一の理解者を失うまいとして、あの子の理性さえも食い潰そうとしている」
当主は再び、深く丁寧に頭を下げてきた。
「凛は今、別邸でその魔物に飲み込まれそうになりながら、君を待っている。どうか……あの子を、一人の不器用な娘として救い出してはくれないか」
当主は、一枚の重厚な和紙の封筒を俺の前に残すと、去り際まで気品を失わぬ足取りで部屋を後にした。残された封筒の中には、凛が今一人で待っているという別邸への詳細な地図と、そして彼女からの、たった一行だけの震える筆致で書かれた自筆のメッセージが記されていた。
(……「逃がさない」とか「捕まえた」とかいう脅しやなくて、ただ一行だけ、こんな弱々しい字で書かれたら……断れるわけないやんけ、クソっ!)
そこには、俺の心を再び激しく揺さぶる、あのお嬢様らしくないほどに素直な言葉が綴られていた。俺は地図を握りしめ、自分でも驚くほどに早く、彼女の元へと向かうための準備を始めていたのである。
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