第43話 日常の崩落
あのアパートの陽光さえも遠慮がちにしか差し込んでこない、じめついた薄暗い一室に籠もってから、指折り数えて数日が経過した。
窓の隙間から漏れ聞こえてくる神戸の街の喧騒は、相変わらずの忙しさで街の呼吸を繰り返しているが、今の俺にとっては、まるで厚い防弾ガラスの向こう側で起きている異世界の出来事のように遠く感じられる。
だが、俺の元には、あれほど恐れていた鳳凰寺からの刺客も、耳を劈くようなあのお嬢様の高笑いも、あるいは道行く人々を凍りつかせる不穏な黒塗りの車列すらも、この数日間、露ほども姿を見せることはなかった。嵐の前の静けさと呼ぶには、あまりにも長すぎる沈黙が部屋の空気を重く湿らせ、俺の皮膚にまとわりつく。
しかし、俺の平穏な日常は、目に見えない巨大なシロアリが家の大黒柱を内側からじわじわと食い荒らすように、音を立てて崩壊を始めていたのだ。
本来であれば、職を失い、住む場所さえ危うい俺のようなしがない男が真っ先に直面すべき困窮という名の残酷な現実が、何者かの強大な意思によって、この世の摂理から丸ごと消滅させられている。
その異常事態は、昼下がりの埃が光に舞う気怠い空気を無慈悲に切り裂くように鳴り響いた、一本の電話から始まった。
「あ、もしもし、田村さん? 今、お電話大丈夫ですか? マンション管理会社の者ですが」
受話器から聞こえてきたのは、やけに陽気で、まるで初夏の陽気に当てられたかのように浮足立った担当者の声だった。俺は、二ヶ月も滞納してしまっている家賃の催促、もしくは強制退去の非情な通告だと確信し、胃のあたりをぎゅっと冷たい手で絞られるような思いで、喉の奥まで出かかった平謝りの言葉を必死に準備していた。
「あー、家賃の件ですよね。本当に、本当に申し訳ありません、今すぐには……その全額は難しいのですが、なんとか」
「いやいやいや、田村さん! 謝る必要なんてこれっぽっちも、爪の先ほどもございません! 実はこちらの、お恥ずかしい話ですが帳簿を確認しましたところ、とんでもない、それこそ歴史に残るような計上ミスが発覚いたしましてね」
担当者の声は、まるで宝くじの特等に当選した直後の当事者のような異常な興奮を帯びている。俺は首を傾げ、耳に痛いくらいに受話器を押し付けた。
(計上ミス? この管理会社、そんなポカを、それも五年分なんていう規模でするような連中やったか?)
「計上ミスですか? それは一体どういう……説明してくれんと納得できませんよ」
「ええ、そうですとも! 実は田村さん、以前にこちらの手違いで、家賃を五年分も多くいただいておりまして……。はい、もう笑いが止まらないくらいの額です! ですので向こう数年間は、一円たりとも振り込んでいただく必要はございません! むしろこちらが平身低頭、三日三晩お詫び申し上げたいくらいでして。ワッハッハ、いやあ大変失礼いたしました!」
そう一方的に、まるでこちらの反論を挟む隙間さえ与えない勢いでまくし立てると、電話は呆気なくプツリと切れた。呆然と、ツーツーと空虚な音を立てる受話器を見つめる俺の背中を、気味の悪い汗がじわりと、冷たい蛇が這うような感触で伝っていく。
(五年分の家賃やと……? この中央区の相場をなんやと思っとるんや。いくら安アパートでも、そこそこの値段がするんやぞ。それが『手違い』で余分に振り込まれるなんて、真夏に雪が降るようなもんやんけ!)
俺は足元から黒い泥が這い上がってくるような恐怖を振り払うために、履歴書を古い鞄に詰め込み、新しい職を探すべくハローワークへと向かった。
手汗でふやけた番号札を握りしめて待つこと数十分。ようやく俺の名前が呼ばれ、俺はすがるような思いで窓口のパイプ椅子に腰を下ろした。
「失礼します。選り好みはしません、どんなに泥臭い仕事でも、ドブさらいでもいい、とにかく、とにかく今すぐ働きたいんです」
藁をも掴む思いで、震える手で差し出した俺の雇用保険受給資格者証。職員は、すぐに俺の個人情報をパソコンから入手する。だが、職員の男は、俺の名前と住所を視界に入れた瞬間に、まるで地獄の蓋が開き、死神が顔を出したのを見たかのような勢いで顔を真っ青に染め上げた。
「た、田村……拓己様、で、ですね……っ! お間違いではなく?」
「そうですけど」
職員はガタガタと派手な音を立てて椅子を蹴り飛ばさんばかりに立ち上がり、窓口のカウンターから身を乗り出して、今にも拝み始めんばかりの勢いで叫んだ。
その瞳には、理解を超えた事態に直面した際の混乱が見られる。
「申し訳ございません! 誠に、誠に、この首を差し出しても足りないほど申し訳にくいのですが、我が国の、いえ、この職業紹介システムにおいては、貴方様のような鳳凰寺家の『特別な知己』に見合うお仕事など、この世のどこを探しても、ただの一つとして存在いたしません!」
「待ってくれ! どんな汚れ仕事でも、真冬の氷を割るような皿洗いでも、素手での穴掘りでもええから働かせてくれ! 俺は生身の人間として、自分の汗で飯が食いたいんや!」
俺は必死に、机を叩かんばかりの勢いで食い下がった。だが、窓口の職員はもはや、俺と目を合わせることすら恐怖に耐えられないといった様子で、ガタガタと膝を激しく震わせている。
「滅相もございません! 鳳凰寺のお嬢様の……その、あまりにも大切なお方をこき使うなど、そんな天罰が下るような真似ができる人間が、この日本に、いや世界にどこにおりましょうか! お帰りください、どうか、どうか私から職と命を奪わないでください!」
命乞いのような叫びを背にハローワークを叩き出された俺を待っていたのは、さらに奇妙で、さらに胃が雑巾のように絞られるような光景だった。道を行く人々は、俺の姿を認めるやいなや、まるでモーセが海を割って奇跡を起こした時のように一斉に、綺麗に道を譲り、ひそひそと囁き合いながら遠巻きにこちらを伺っている。
(あかん……。俺の周りだけ、世界の理がメチャクチャに、滅茶苦茶に書き換えられとる。一銭も稼ぐことが許されず、それでいて何不自由なく王様のように生かされるなんて……。これじゃあ、まるで……)
その瞳には、明確な、魂の底からの怯えと、そして隠しきれないほどのドロドロとした深い羨望が同居していた。自由の身になったはずの俺は、金銭的な不安という重荷を強引に奪い去られた代償として、社会という名の巨大な歯車から完全に弾き出されていたのだ。
失意の中で帰宅した俺を待つのは、新たな脅威だった。
膝を突き、捧げ持つような所作で差し出されたその豪華なフルーツバスケット。目の前に止まった宅配便の運転手は、まるで御神体を扱うような恭しさで、見たこともないような果実の山を俺に差し出してきた。編み込まれた籠の中には、一つで一ヶ月分の家賃が軽く飛びそうな桐箱入りのメロンや、宝石のように妖しく輝くルビー色の大粒な苺が、これ見よがしに鎮座している。
その果実の山の中央に、場違いなほど質素な、しかし嫌な予感しかしない一枚の真っ白なカードが添えられている。俺は、まるで爆弾の起爆スイッチに恐る恐る触れるような動作で、そのカードを指先でつまみ上げた。
(……やっぱりや。この綺麗な背筋が寒くなるような流麗な字は、世界に一人しかおらん)
そこに記されていたのは、あまりにも簡潔で、それゆえに逃げ場のない凛の直筆によるメッセージだった。
『タクミ。貴方の血肉となるすべてを、わたくしが支配してあげますわ。……一粒も残さず、召し上がれ?』
送り主の名には、流麗な筆致で『鳳凰寺凛』と刻まれている。それは単なる贈り物などではない。俺が口にする水の一滴、身体を作る細胞の一つに至るまで、すべてを自分の色に染め上げ、管理しようとする、悍ましいまでの所有宣言だった。
(……あいつや。凛が、笑いながら裏で太い糸を操っとる。力ずくで俺を屈服させるのをやめて、今度は俺を『底なしの善意』という名の沼に沈めて、二度と自力で浮き上がれんようにする気かよ。勘弁してくれ、これじゃあ俺の尊厳が、跡形もなく消えてまうやないか!)
「……食えるか! こんなもん、毒が入っとるより性質が悪わ!」
俺は、そのあまりにも眩しすぎる”善意”という名の重圧から逃げ出すように、地面を蹴って神戸の街をがむしゃらに走り出した。心臓が早鐘を打ち、喉の奥が鉄の味で満たされる。腹が減れば、どこからともなく老舗の高級料亭の弁当が玄関先に届けられ、喉が乾けば、道端の自販機からお釣りがジャラジャラと無限に溢れ出してくる。そんな異常事態から、ただ逃げ出したかった。
(やめろ……。見るな。俺を、俺を放っておいてくれ!普通の人間として扱ってくれよ!)
交差点に差し掛かれば、赤信号が俺の接近を察知したかのように、待機時間すら無視して瞬時に鮮やかな青へと変わる。まるで、世界そのものが俺の逃走を助けるフリをしながら、その実、凛が用意した最短ルートの上を歩かされているだけのような、薄気味悪い感覚が脳髄を支配する。
(どこまで行っても、あいつの手のひらの上なんか……。信号機一つ、道行く人の目一つに至るまで、全部あいつの命令通りに、あいつの顔色を伺って動いとんのかよ!)
俺の絶叫は、美しく整えられた、あまりにも親切すぎる街並みに虚しく響き渡る。どこへ逃げても、そこには鳳凰寺凛という名の巨大な意思が、見えない愛の触手のように俺の日常を優しく、そして逃げ場のない強固さで締め上げ続けていた。それは、どんな暴力よりも執拗で、どんな拘束よりも強固な、鳳凰寺凛という名の巨大な愛の牢獄だったのだ。
ブックマーク、評価をお願い致します。
レビュー、感想等もお待ちしております。
誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。




