第42話 偽りの平穏
ポートアイランドを丸ごと飲み込んでいた、あの非現実的なまでの封鎖劇。まるで国家権力が一人のしがない男を追い詰めるためだけに、巨大な歯車を回して発動されたかのような、あまりにも荒唐無稽で、それでいて心臓を直接、巨大な鉄の万力でミリ単位で握りつぶされるような恐怖の時間が、まるで魔法が解けたかのように唐突に終わりを告げた。
俺は、まるで数世紀もの間、光の届かない暗黒の深海をただ当てもなく、己の重みだけで漂い続けていた沈没船の幽霊でも取り憑いたかのような足取りで歩く。あまりにも頼りなく、今にも膝から崩れ落ちそうな、生まれたての小鹿のような、あるいは泥酔した道化のような足取りで、新天地の中央区へと向かった。
そこにあるのは、お世辞にも広いとは言えない、むしろウサギ小屋と呼ぶ方がしっくりくる、築年数すら不明な壁の薄い、狭苦しいアパートだ。俺はそこへ、命からがら、魂をどこかに置き忘れた抜け殻のようになって這うようにして戻った。
つい先ほどまで、あの大蛇が獲物をじわじわと、骨の砕ける音を楽しむように締め上げるがごとく延々と、どこまでも禍々しく、そして暴力的な威圧感を持って連なっていた鳳凰寺家の黒塗りの高級車列。
窓ガラスの一枚一枚が外界の光を拒絶するように漆黒に塗り潰された、あの異様なまでの光景は、朝の陽光にさらされた深い霧が、その熱に負けて霧散するように、あるいは悍ましい悪夢が覚醒と共に、冷や汗だけを残して消え去るように、文字通り跡形もなく、影さえ残さず撤退してしまっていた。
ポートライナーの線路も、今では何事もなかったかのように、カタンコトンと規則正しく、そして憎たらしいほどに呑気で平和な駆動音を、春の風に乗せて響かせている。その音は、俺の頭上を通過するたびに『すべては日常に戻ったのだ、騒いでいたのはお前だけだ』と、無責任に告げているかのようだ。
(……なんやねん。あの心臓が口から飛び出しそうになるくらいの心臓が爆発するんちゃうかと思うくらいの騒ぎは、全部俺の脳が見せた、たちの悪い白昼夢やったっていうんか?)
アパートの埃っぽくて薄暗い、湿気た空気が逃げ場を失ってドロリと重たく停滞している一室に飛び込むなり、俺は親の仇でも追いかけるように、玄関の鍵をガチャンと三回、指の皮が少し剥けて赤い血が滲むほどの猛烈な勢いで、必死に、そして執念深く厳重に閉める。
(いやいや、そんなわけあるか! 俺の心拍数は今もまだ、全力疾走で急勾配の山登りをした直後みたいに、胸を突き破らんばかりにバクバク言うとるんやぞ!)
そのまま、糸の切れた人形のように力なく、古びた畳の上に這いつくばる。肺の奥深くに、まるで一生消えない泥染みのように、べったりとこびりついて離れないのは、あの海辺で無理やり肺の隙間まで吸い込まされた潮風のどこか鉄臭いような、血の匂いに似た塩辛い匂い。
(夢やったらもっとマシな、綺麗な姉ちゃんが出てくる夢を見せんかい!)
そして、街の監視カメラのレンズ越しに、俺の魂の奥底まで焼き尽くさんばかりの勢いで向けられていた、あの鳳凰寺凛の執念深くも、どこか狂気を孕んだ熱烈な視線。
その熱は、どんなに冷たい水を浴びて肌を冷やしたとしても、どれほど強い酒を煽って、泥のように意識を飛ばそうとしたとしても、決して俺の身体から抜け去ることはなく、血管の中をドロリとした重たい熱病の血液のように、執拗に、そして嘲笑うように駆け巡り続けているようだ。
「……終わったんか? 俺は、本当の意味で、あのおっそろしいお嬢様の、あの悪魔みたいな魔の手から、ようやく解放されたんやんな?」
震える声で、自分に言い聞かせるように、あるいは実在するかどうかも怪しい見えぬ神に祈るような思いで、弱々しく呟いてみる。
(ほんまに、ほんまに自由になったんやな?)
しかし、その必死の問いに対して返ってくるのは、油の切れた古びた換気扇が、キィキィと、まるで首を絞められたネズミの鳴き声のような悲鳴を上げながら、どこか俺の運命を空高くから嘲笑うかのように空回りする虚しい音だけだった。
あの日、あの瞬間。俺は確かにカメラを真っ向から、魂をぶつけるように睨みつけ、喉を枯らしてあいつの名前を叫んだ。「凛」と。彼女は確かに俺の唇の動きを、克明に読み取り、そして、まるで世界の終わりの深淵を覗き込んだかのような絶望に、その細い肩を打ち震わせていたはずだ。そう思いたい。
その直後に起きた、あまりにも不自然で、あまりにも急すぎる、舞台の幕を下ろすような撤退劇。これは、あいつが最後に、道端に転がる価値のない石ころにでも向けるような、一時の気まぐれに示した、砂粒ほどの慈悲の欠片なのか。
それとも、さらに残酷で、さらに悪趣味で、さらに絶対に逃げ場のない、新しい地獄の劇場の開演を告げるための耳をつんざくようなけたたましいブザーに過ぎないのか。
(あかん、あかんわ。考えれば考えるほど、胃のあたりがキリキリと痛んできよる)
窓の外に目を向ければ、ポートアイランドの人工的な島影を遠くに、霞んで見えるほど遠くに望む中央区の街並みが、以前と変わらぬ無機質な表情をして、ちっぽけな砂粒のような存在でしかない俺のことを見下ろしているかに思える。
(あいつの考えることなんて、俺みたいな、今日明日の飯をどうやって食い繋ぐかを心配しとる平凡な一般人の脳みそじゃ、一生かかっても、逆立ちして頭をコンクリートにぶつけたって理解できへんわ!)
平穏。
そう、そこには偽りの平穏が、まるで安っぽい映画のセットか、あるいは壊れかけの舞台装置のように広がっている。だが、俺には痛いほどに、いや、むしろ身体中の細胞が一つ残らず「そうだ」と叫んでいるような確信を持ってわかるのだ。
俺を縛り付けていた物理的な、目に見える太い縄は、確かに解かれた。
しかし、俺は『鳳凰寺』という名の、あまりにも巨大で、あまりにも全能に近い、神にも等しい影が完全に支配する境界線の見えない広大で、恐ろしく豪華で残酷な鳥籠の中に、ただ放り出されただけなのだ。
その悍ましいまでの吐き気を催すような実感が、じっとりと冷たい脂汗となって、俺の背中を、まるで這い回る気味の悪い、湿り気を帯びた不潔な虫のようにじわじわと、しかし確実に伝い落ちていった。
(自由……? 嘘つけ! こんなもん、ただの広い場所での放し飼いやないか! 首輪が見えんようになっただけで、リードの端っこは、今もあのお嬢様が、どこか高い場所から満面の笑みを浮かべながら、その白い手でガッチリ握っとるんや……!)
逃げられるはずがない。この神戸の街ごと、いや、この空の下すべてが、俺を閉じ込めるための絶対に壊れない、鍵のないコレクションボックスの中に放り込まれたんや。
畳に押し当てた俺の右頬に、微かで断続的な振動が伝わってくる。それは遠くの幹線道路を走る大型車の音か、それとも俺を追い詰める巨大な見えない組織の重たい足音か。
閉めたはず鍵が、あまりにも頼りなく、紙で作られたおもちゃのように思えて、俺はさらに、自分を少しでも小さく見せるように身体を丸め、自分自身の心臓が刻む、震えを止めることすらできずにいた。
薄暗い部屋の隅に、誰かが立っているような錯覚に襲われる。だが、そこにあるのはただの影だ。鳳凰寺凛という、消えない影。俺は、その影から一生逃げられないという呪いを、解放という名のご祝儀袋に包まれて渡されたのだ。
(……もし、今この瞬間、俺が再びあいつの名前を呼んだなら……)
その瞬間に、この偽りの平穏はガラス細工のように砕け散り、あの黒塗りの車列が再び俺を迎えに来るのではないか。
そんな狂気じみた想像が頭をよぎり、俺は自分の口を両手で強く塞いだ。指の間から漏れる、自分の浅い呼吸音だけが、この閉じられた世界で唯一の生きた証だった。
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