第46話 最後の逃走
凛のあの涙に絆され、魂の根幹を激しく揺さぶられた自分自身に、俺は言いようのない底寒い恐怖を感じていた。
あのお嬢様が流した、あまりにも純粋で、あまりにも孤独な雫。それに触れた瞬間、俺の心の中にあった堅牢な拒絶の壁が、足元から音を立てて崩れ去りそうになったからだ。
あの涙は周到に計算された演技か、それとも極限の孤独が生み出した剥き出しの本心か。それを確かめる勇気さえ、今の俺には一欠片も残っていない。もし本心だとしたら、俺は一生、あの重すぎる情念の檻から逃げられなくなる。その確信が、俺の生存本能を激しく突き動かしていた。
翌朝。俺は逃げるようにして準備を整えた。夜明け前の湿り気を帯びた薄暗い部屋の中で、すべてを投げ捨てて、この街、神戸を去る決意を固めた。
書きかけの履歴書も、わずかな着替えすらも、未練と一緒に安アパートに残していく。重い過去を切り捨てるように、最小限の荷物だけを鞄に詰め込んで、叩きつけるような土砂降りの雨の中を駅へと走る。今度こそ、鳳凰寺という名の巨大な重力圏から脱出するために。
しかし、現実は俺の予想を遥かに超えた歪で完成された形で行く手を阻んだ。
駅の自動改札に、交通系ICカードをかざす。だが、聞き慣れた軽快な電子音ではなく、「ビー」と警告音が駅舎に鳴り響く。液晶画面には、エラーコードが表示され、改札の扉は開かない。。何度試しても、昨夜チャージしたばかりで残高は十分にあるはずのカードは、俺という存在を冷たく拒絶し続ける。
(……あかん、カードが止められとるんか? 鳳凰寺の力が、公共交通機関のシステムまで完全に掌握しとるいうんか?)
焦燥に駆られ、俺は券売機へと駆け寄った。ICカードがダメなら、現金で在来線の切符を買って鈍行で県境を越えればいい。そう自分に言い聞かせ、小銭を投入口へ叩き込み、震える指で画面の『大阪』のボタンを押す。だが、指先が液晶に触れる直前、画面が不自然に明滅し、『使用中止』という血のような赤い文字が非情に躍り出た。
「おい、ふざけんな……! 大阪がアカンのか? それなら京都や、それか西明石や! どこでもええ、ここから出せ!」
俺は隣の券売機、そのまた隣へと狂ったように移るが、結果はすべて同じだった。まるで俺の指の動きを網膜でスキャンして先読みしているかのように、目的地が次々と黒く塗り潰されていく。
たまらず駅員室の窓口を激しく叩き、インターホンを何度も連打する。だが、中に人の気配は確かにあるのに、誰一人として応じようとはしない。受話器からは虚しい呼び出し音だけが、永遠に続く。まるで俺という人間が、この社会のインフラから抹消されたかのような錯覚に陥る。
背筋に凍りつくような悪寒が走り、俺は駅を飛び出して一台のタクシーを拾った。
「大阪へ。とにかくここから離れてくれ、高速に乗ってくれ! 倍出す、手持ちの金全部やるから!」
悲鳴に近い声を上げ、俺は後部座席に深く身を沈めた。
だが、車が走り出して数分もしないうちに、静かだった車内の無線機から、ザリザリとしたノイズ混じりの不気味な声が響いてきた。
『……こちら本部。三宮042、予定通りのルートへ変更してください。お客様の目的地は、鳳凰寺様別邸の方です。間違えのないように。繰り返す、目的地は鳳凰寺様別邸です』
運転手の背中が、わずかに強張ったように見えた。彼はルームミラー越しに俺と視線を合わせることなく、滑らかにハンドルを切った。車体は大阪へ向かうはずの国道を外れ、霧深い六甲の山道へと向きを変える。
「おい、何をしてんねん! 右やろ、今は! どこへ行くつもりや、停めろ!」
「……お客様。本部の指示は絶対なんですよ。それ以外の場所へお連れすることは、出来んのですわ。本部からの連絡ってことは、なんらかの大事だと思うんでねぇ。諦めてください」
運転手の声には、一介の人間としての意志が一切排除されている。まるで、あらかじめ定められた神の託宣に従うだけの精密な機械だ。
恐怖が限界に達し、俺は財布から千円札を数枚、乱雑に引き抜いた。それを運転席の横に、呪いの紙片を撒くように叩きつける。
「降りる! ここで降ろせ! 釣りはいらん、全部やる!」
車が完全に停止するのも待たず、俺はドアを無理やり押し開けて、雨の降りしきるアスファルトへと飛び出す。着地の衝撃に膝をつき、手のひらを擦りむきながらも、濡れた路面を必死に蹴り、無我夢中で、せめて海へと港の方へと駆け出す。陸路が封鎖されているなら、海から逃げるしかない。この街から、彼女の支配域から、水面を滑って消えるんだ。それしか生き残る道はない。
辿り着いた神戸港。波止場には一隻の連絡船が、今まさにタラップを上げようとしていた。俺は遮二無二走り、係員に「乗せてくれ! 頼む、死ぬ気で急いでるんや!」と叫びながら小銭を差し出す。
だが、船員たちは作業の手を止め、まるで儀仗隊のような統制の取れた、それでいて感情の欠落した敬礼で、ずぶ濡れの俺を迎え入れるだけだった。
「お嬢様がお待ちです、田村様。どうぞ、こちらへ」
その不気味なほど揃った、一分の狂いもない合唱が、荒れ狂う潮騒を切り裂いて俺の耳を打つ。
この街全体が、俺という一個人を、ただ一人の少女の元へ送り返すためだけに作られた、緻密で巨大な舞台装置へと変貌を遂げていた。警察も、鉄道も、港湾も、すべてが鳳凰寺という名の神経系に組み込まれているのだ。
逃げ道を求めて彷徨う俺の目に、不意にコンビニの眩しい灯りが飛び込んでくる。吸い寄せられるように入った店内で見た光景に、俺は吐き気を覚えた。
棚の一段をまるごと埋め尽くすようにして、あのアパートで実体のない生霊だった彼女が、俺が食べているのを羨ましそうにじっと見つめていた、あの安物のカップ麺が並んでいる。一段どころではない。店中の棚が、その一種類だけで埋め尽くされていた。
(……なんでや。あいつ、食べられへんくせに「どんな味がするのかしら」って、ずっと横で覗き込んどったやないか……。それを今、権力で買い占めて、俺の目の前に並べてるんか。俺の日常さえ、あいつの玩具かよ)
心臓が肋骨を突き破らんばかりに脈打ち、俺は店を飛び出した。視界が雨と涙で白く霞む中、街頭の巨大モニターを見上げた瞬間、俺は金縛りにあったように足を止めた。
そこに映し出されていたのは、街のニュースでも華やかな広告でもない。
暗闇の底で、ただじっと、唯一の主人の訪れを待つように静止した鳳凰寺別邸の、あの客室の映像である。無音の映像が、何よりも饒舌に、そして暴力的に俺に命じていた。
(あそこに戻れ……。そう言われとるんか、この街全部に。俺の居場所は、あそこにしかないんか?)
どこへ行っても、何をしようとしても、鳳凰寺という巨大な重力が俺を引きずり戻そうとする。
逃走を試みれば試みるほど、俺は自分がいかに彼女に愛され、同時に逃れられぬ呪いをかけられているかを痛烈に突きつけられる。
飲まず食わずで俺の側にいた生霊の頃よりも、血肉を得て権力という刃を行使する今の彼女の方が、何百倍も恐ろしい。俺の脆弱な自由意志など、彼女の膨大で偏執的な執着の前では、荒れ狂う冬の海に漂う一片の木の葉に過ぎなかった。
俺は、激しい雨に打たれながら立ち尽くした。
頭上では、無数の監視カメラのレンズが、獲物を逃さない鷹のような冷たい光を放ち、俺の絶望を克明に記録し続けている。
(負けや……。降参や。最初から、俺に逃げ場なんて用意されてなかったんやな)
運命という名の不可視の重い鎖が、俺の足首に音を立てて絡みついている。
俺は重い足取りで、目の前に静かに、それでいて拒絶を許さぬ威圧感を持って停車した一台の黒塗りの車のドアへと手をかけた。
そこには、俺を拒絶することなく、ただ絶対的な所有権を主張するように開かれた、底の知れない深い闇が広がっていたのである。
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