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<全50ep> 鳳凰寺凛の生霊事件簿 ~視えるのは、世界で無職(おれ)一人~  作者: 第三ひよこ丸
第4部 【残響と鳳凰寺家の観測】

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第40話 逃げ場なき海上都市

 じりじりと脳漿を直接焼き焦がすような陽光が、潮風に含まれた重苦しい湿気と混ざり合い、逃げ場のない熱気となって全身にねっとりと絡みつく。

 

 長田の入り組んだ路地を抜け、中央区の雑踏を彷徨い、そして何かに導かれるようにして、あるいは決定的な悪意によって追い詰められるようにしてたどり着いたのは、海へと突き出した広大な人工島、ポートアイランドだった。


 六甲の山並みを背にし、海を隔てたこの隔離された場所であれば、あの街中に張り巡らされた不気味な視線から、あるいは鳳凰寺という巨大な影から一時でも逃れられるのではないか。そんな、荒波に溺れる者が一本の藁を掴むような、あまりに淡く、あまりに儚い期待は、島へと続く唯一の陸路である神戸大橋を渡りきった直後、無残にも、そして徹底的に打ち砕かれることになった。


「……な、なんやねん、これ。冗談やろ。夢やと言うてくれや。嘘やろ、おい」


 振り返った俺の視界を埋め尽くしたのは、現実味を完全に欠いた、異様という言葉すら生温い、悪夢の具現のような光景である。

 

 橋の全車線を埋め尽くすように、漆黒の重厚な輝きを放つ最高級リムジンが、どこまでも続く底知れない長大な列を成していた。数台、数十台というレベルではない。視界が霞むほどに並んだその鉄の壁は、巨大な大蛇が獲物を確実に仕留めるために、橋の首根っこにトグロを巻いているかのようで、一般車両の通行を物理的に、そして暴力的なまでの圧倒的な威圧感をもって完全に遮断していた。


 逃げ道を探して視線を彷徨わせるが、そこに希望の光は一筋も差し込まない。救いを求めてポートライナーの駅を見上げれば、無情にも『システム障害により全線運転見合わせ』の電光掲示板が、規則的なリズムで空虚な光を放ちながら明滅を繰り返している。それはまるで、俺の心臓の鼓動を嘲笑うかのような、一定のテンポだった。


 逃げ場はない。文字通り、一歩たりともこの島から出る術は、この瞬間に完全に失われたのだ。

 背後には底の見えない深い海と、鳳凰寺家の絶対的な権力を具現化したような、息の詰まる黒塗りの壁。前方に広がるのは、かつての賑わいが嘘のように静まり返り、計画的に区画整理された、美しくも無機質な海上都市の迷宮だ。

 

 俺は、広大な海の上に浮かぶ巨大な檻に閉じ込められた、哀れな一羽の籠の鳥になったのだと、喉の奥がカラカラに乾き、心臓を鋭利な爪で鷲掴みにされたような痛みを覚えながら理解した。


(……あいつや。鳳凰寺凛。あの女が、俺をここに閉じ込めおったんや。間違いあらへん。あんな真似ができる人間、この街には一人しかおらへん)


 あのアパートの狭苦しく、湿気た部屋で、俺が啜る安物のカップ麺の匂いに露骨に顔を顰めながら、毒づくことさえ優雅だったあの傲慢な生霊の姿が、鮮明すぎるほどに脳裏をよぎる。あの時、ふんぞり返って俺を蔑んでいた瞳。あの瞳が今、どこからか俺を凝視している。その確信が、冷たい汗となって背中を伝っていく。


 鳳凰寺の当主が剛三の件で、一族の腐った秘密を知りすぎた俺を社会から抹殺しようとしているのか。それとも、あの女自身が、あのアパートで過ごした屈辱的な日々に対する報復を、個人的な愉悦のために仕掛けてるのか。

 どちらにせよ、この広大な島全体が今、俺一人のためだけに用意された残酷な処刑場へと作り替えられてしまったのだ。


 ふらつく足取りで、熱を帯びたコンクリートの路面を一歩一歩踏みしめる。

 その一歩を踏み出すたびに、視界の端のビルの屋上や、等間隔に並ぶ街灯の陰など、どこかで見えないカメラのレンズが俺を捉え、剥き出しの心拍数の一拍までもをミリ単位で追跡しているような、悍ましい気配が背筋を冷たく這い上がる。それは物理的な視線以上の重圧となって、俺の精神を確実に削り取っていく。


 俺がどの角を曲がろうと、どの無人の公園のベンチに身を隠そうと、あの女の掌の上からは、決して、永遠に逃げられない。島中の電子機器が、センサーが、すべてのインフラが、俺を捕らえるための網となって機能している。この都市そのものが、俺を絞め殺すための巨大な手足となっている。


「……っ、ええ加減にせえよ……! 俺に、俺という人間に何の恨みがあるっていうんや! 俺が何をしたって言うんや!」


 膝から力が抜け、熱せられた街灯の柱に思わずしがみつく。

 真夏日の暴力的な熱気に当てられたせいか、それとも底知れぬ絶望感に意識を侵食されたせいか、視界がぐにゃりと万華鏡のように歪み始める。遠くに見えるポートタワーさえも、俺の最期を祝うための歪んだろうそくのように見えた。

 

 もし、今この場所で俺が倒れたら。

 意識を失い、完全に無力化した俺の前に、あの気高くも無慈悲な王女様はどんな顔をして現れるのだろうか。


 望み通りに動けなくなった獲物を見て、これ以上ないほど勝ち誇った笑みを浮かべながら、惨めな俺を見下ろすのか。

 それとも、あの揺るぎない鉄の仮面の裏側に、あのアパートで一瞬だけ、本当に一瞬だけ見せたような、ほんのわずかな、人間らしい動揺を隠しているのか。


(……いや、考えたらあかん。あんな女に、俺を心配するような心があるわけないやろ。これは、れっきとした処刑や。一族の恥を知った余所者を、社会的にも、物理的にも抹殺するための鳳凰寺家という巨大な怪物独自のやり方なんや。同情も、慈悲も、そんなもんはあのアスファルトの熱で蒸発してもうたはずや)


 俺は、自分の弱気な思考を振り払うように、火傷しそうなほど熱を帯びた柱を、拳から血が滲むほど強く叩く。その鈍い痛みが、これが悪夢ではなく、逃げようのない残酷な現実であることを否応なく俺に突きつける。痛みだけが、自分がまだ生きていることを証明する唯一の手段だった。


 周囲に立ち並ぶ巨大な摩天楼は、ただ重苦しい沈黙を保ったまま、包囲網を刻一刻と狭めるように、あるいは俺の最期を見届ける観客のように冷たく見守っている。窓ガラスに反射する夕日は、まるで無数の監視の目となって俺を射抜いているようだ。


 夕闇が忍び寄り、人工島の灯りが一つ、また一つと点り始めた。それは美しく輝く檻の格子のようでもあり、俺という供物を誘う冥府の残り火のようにも見えた。かつてはロマンチックだと思っていたこの夜景が、今はただ、俺を締め上げる光の鎖にしか見えない。

 俺が絶望に打ちひしがれ、その場に膝を突き、喉を枯らして彼女の名を絶叫するのを、彼女はどこかで、誰にも邪魔されない特等席から、瞳を爛々と輝かせながらじっと待っているに違いない。


「……凛、お前は……お前は一体、何がしたいんや……」


 声にならない問いかけは、潮騒にかき消されて消えていく。

 逃げ道のない海の上、逃げることを許されない孤島。

 俺の孤独な戦争は、いよいよ最悪の、そして残酷なまでに美しい終局へと向かおうとしていた。


 アスファルトから立ち上る陽炎の向こう側、漆黒のリムジンの群れが、沈みゆく夕日に照らされて血のような赤色を帯び、不気味な光沢を放っている。その光の反射さえも、俺の喉元を正確に狙い撃つための鋭利な刃に見えた。俺の足元を照らす街灯は、まるで舞台のスポットライトのように、逃げ惑う俺の姿を鮮明に映し出し、闇夜という名の観客席へと提供し続けていた。


 一歩、また一歩と重くなる足を無理やり動かす。心臓が悲鳴を上げ、肺が熱い空気に焼かれる。それでも、俺は止まることを許されない。この島全体が、俺を極限まで追い詰めるために鼓動しているのだから。

 

 俺の視界の端に、また一台、鳳凰寺の紋章を冠した黒塗りの車両が静かに滑り込んでくる。それは終わりを告げる使者のようでもあり、俺を永遠の安息、あるいは永遠の支配へと誘う船のようでもあった。

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