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<全50ep> 鳳凰寺凛の生霊事件簿 ~視えるのは、世界で無職(おれ)一人~  作者: 第三ひよこ丸
第4部 【残響と鳳凰寺家の観測】

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第39話 盤上の駒と真っ赤なリンゴ 〜凛 視点〜

 鳳凰寺邸の最上階に位置するわたくしの私室は、今やかつての優雅な休息の場としての機能を完全に喪失していた。

 

 退院以来、わたくしの足代わりとなっている特注の車椅子は、最高級のレザーとカーボンフレームで構成され、その座り心地はまさに動く玉座と呼ぶにふさわしい。わたくしはこの車椅子を、まるで長年連れ添った愛馬を操る騎士のごとき鮮やかさで制御し、部屋の中央に鎮座する巨大なモニター群の前へと滑らせた。


 カチリ、と硬質な音を立てて車椅子のブレーキをロックする。その瞬間、わたくしの瞳には鳳凰寺の血筋が受け継いできた冷酷な、それでいて説明のつかぬ激情を孕んだ光が宿ったはずだ。

 

 この部屋に設立されたのは、他でもない。わたくしの平穏を乱し、あろうことか鳳凰寺の誇りに触れたあの男、田村タクミを、この掌の中に確実に繋ぎ止めておくための「対・田村特別作戦本部」である。


「状況を報告なさい」


 わたくしの鋭い声に応じ、背後に控えていた黒服の男たちが一斉にタブレットを操作する。壁一面を埋め尽くすモニターには、神戸の街中に張り巡らされた監視カメラの映像や、スマートフォンの電波から逆探知した位置情報、さらにはタクミがアクセスした求人サイトのログに至るまで、あらゆるデータが滝のような速度で流れ続けていた。

 

 最新の監視技術と、わが家が誇る情報処理能力のすべてを、たった一人の平民を捕捉するために注ぎ込む。これほどの贅沢が他にあるだろうか。


「現在、対象は中央区から長田区方面へ移動。先ほど十一社目の不採用通知を確認しました。移動速度、バイタルサイン共に、精神的な疲弊による低下が見て取れます」


「ふん、当然ですわ。わたくしの許しなく、あの男が社会の歯車として平穏に回り始めるなど、断じて許しません。あいつに許された役割は、わたくしの視線の届く範囲で、その無骨な顔を歪めながらあがき続けることだけですもの」


 モニターの中で、安物のスーツを汗でぐっしょりと濡らし、力なく歩くタクミの姿が映し出された。その行動半径はミリ単位で把握され、彼が立ち寄るコンビニの銘柄から、公園のベンチで溜息をつく回数までもが数値化されていく。

 わたくしは車椅子をゆっくりと旋回させ、彼が今日歩いた軌跡が赤い線で描かれた電子地図を凝視した。


(お可哀想に、タクミ。あなたは今、自分がなぜこれほどまでに世界に拒絶されるのか、その真の理由さえ分からずに絶望の淵を彷徨っているのでしょうね。一族の恥部である剛三を、あろうことか平民の身で追い詰めた。その大罪に対する報復だと思い込み、怯えているその姿。ええ、滑稽で、惨めで、見ていられませんわ)


 お父様たちは確かに、剛三の件での口封じや、一族の威信を保つための社会的抹殺を目的として動いていない。まったくの逆であり、わたくしを助けた恩義を感じて礼を尽くそうとしているのだ。

 

 だが、わたくしの目的は、そのような次元にはない。

 愛? 恋? そんな浮ついた言葉でわたくしの衝動を定義しようなぞ、笑止千万ですわ。

 わたくしが望んでいるのは、ただの管理。わたくしの魂をあの六畳間の牢獄に繋ぎ止めた男が、わたくしの知らない場所で勝手に生き、勝手に朽ちていくことを阻止するための正当な権利の行使に過ぎません。


 だというのに。

 モニター越しに、彼が苛立ち混じりに前髪を掻き上げるその指先を見るだけで、胸の奥が、焼けるような熱を帯びて疼きだすのはなぜかしら。

 

 あの病室の扉の前で、震える足でモップを握りしめた男の、あまりに不器用な背中。

 それを思い出すたびに、呼吸が浅くなり、思考が白濁していくこの不快な感覚。

 まさか、わたくしがあの平民に対して、恋情などという、ありふれた、下俗な愚か極まりない感情を抱いているとでもいうのですか?


「――っ、ありえませんわ!」


 わたくしは、自分の内側から湧き上がった悍ましい仮説を振り払うように、激しく首を横に振った。

 左右に振られた視界の中で、高価なシャンデリアの光が乱反射し、わたくしの理性を乱していく。

 

 違う、違いますわ。

 これは、わたくしを辱めた世界への復讐心。

 これは、鳳凰寺の所有物を管理しようとする独占欲。

 そう、ただの執着。あのような、スーツも着こなせない、汗臭い、何の取り柄もない男に、この鳳凰寺凛が心を奪われるはずなどありません。


「あらあら、そんなに勢いよく首を振っては、せっかくの髪飾りが落ちてしまいますわよ、凛」


 背後から響いた、鈴を転がすような、抗いようのない威厳を湛えた声に、わたくしは心臓が跳ね上がるのを感じた。

 

 音もなく開かれた扉の向こうから現れたのは、わたくしのお母様である。

 お母様は、監視モニターに映し出されたタクミの無様な姿を一瞥し、それから激しく肩を揺らすわたくしの顔を、すべてを見透かすような慈愛と鋭さを秘めた瞳で見つめてくる。

 わたくしは取り繕おうと、慌てて車椅子を回転させたが、お母様はその前に静かに歩み寄り、わたくしの冷たくなった頬に柔らかな掌を添えた。


「お母様……いつからそこに」


「うふふ、あなたが『対・田村特別作戦本部』などという大層な名前を付けて、楽しそうに遊んでいるところからかしら」


「遊んでなど……! 彼は鳳凰寺の敵ですのよ。わたくしたち一族の恥を晒した報いを受けさせているだけですわ」


 努めて毅然と言い放ったつもりだった。だが、お母様はわたくしの弁明を柳に風と受け流し、モニターに映るタクミをどこか懐かしむような目で見つめた。


「敵、ねぇ。へぇー。私には、必死になって大切な宝物を、誰にも見つからないように隠している小さな女の子に見えますけれど」


「なっ……! 違いますわ! 隠すも何も、彼はただのターゲットです! わたくしが彼をどうしようと、それは鳳凰寺の利益のための管理に過ぎませんわ!」


「まあまあ。それならどうして、彼が不採用通知を受け取って肩を落とすたびに、あなたの指先がそんなに震えているのかしら? まるで自分のことのように心を痛めているみたい」


「それは……! あまりに不甲斐ない男だから、苛立っているだけです! わたくしがあの劣悪な環境で命を預けた男が、あんなに惨めでは困りますの!」


 わたくしの必死の拒絶に、母様はくすりと艶やかに微笑んだ。そして、わたくしの耳元で、風に舞う花びらのような軽やかさで、だが逃れようのない真実を孕んだ言葉を落とした。


「素直におなりなさいな。凛、あなたは嘘をつくのが昔から下手ですこと」


「ですから、嘘など……! わたくしは、彼を愛してなどおりません! 断じて、絶対に!」


 叫ぶようなわたくしの否定を背に、母様は優雅な所作で踵を返した。扉の近くで一度だけ立ち止まり、悪戯っぽく肩越しにわたくしを振り返る。


「あらあら、リンゴのように、お顔が真っ赤ですこと。ホホホ」


 扇を当てることもなく、上質な鈴の音のような笑い声を残して、お母様は部屋を去っていった。

 残されたのは、静寂と、先ほどよりも一層激しく脈打つわたくしの心音だけだった。


「……っ、赤くなんて、なっておりませんわ! これは、部屋の温度設定が……そう、空調が効きすぎて、逆上せているだけですわ!」


 わたくしは誰に聞かせるでもない叫びを上げ、再びモニターに視線を戻した。

 画面の中のタクミは、夕暮れに染まり始めた街角で、自らの運命に抗うように、ただ一歩を懸命に踏み出していた。

 その泥臭い姿が、どうしようもなくわたくしの瞳を、心を惹きつけて離さない。


「……認めません。認めませんわ、絶対に」


 わたくしは、否定の言葉を呪文のように呟きながら、それでも画面の中の彼から目を逸らすことができなかった。

 認めれば、わたくしは鳳凰寺凛であることを辞めなければならなくなる。

 認めれば、わたくしはあのアパートで過ごした、あのあまりに短くも濃密な時間を、ただの『夢』として処理できなくなる。

 

 熱風が吹き荒れる神戸の街で、見えない網に絡め取られていくタクミ。

 そして、冷房の効いた完璧な静寂の中で、自らが作り上げた執着の檻に囚われていくわたくし。

 

 二人の距離は、ミリ単位で把握されている。

 だが、その心の距離を測る術を、わたくしはまだ、持ち合わせてはいなかった。

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