第38話 見えない檻
神戸の街は、暴力的なまでの熱気に包まれていた。
アスファルトの隙間から立ち昇る陽炎が視界を不確かに歪め、肺の奥まで侵食する熱を帯びた空気が、呼吸のたびに喉をじりじりと焼き焦がす。
湿度は低く、ただただ肌を刺すような直射日光が容赦なく降り注いでいた。季節の移ろいなどという情緒的な言葉を撥ね退けるような、まさに真夏日と呼ぶにふさわしい、焦燥と倦怠が支配する午後だった。
俺は駅のトイレの薄暗く湿り気の籠もった鏡の前で、安物のリクルートスーツの襟を正した。システムエンジニアとして復職を目指し、この灼熱の街を這いずり回るような就職活動を始めてから、はや数週間が経過している。
手応えは、本来であれば完璧であるはずだった。
今まで、大規模なプロジェクトの最前線で指揮を執り、複雑怪奇なシステムを力技でねじ伏せてきた俺の経歴は、中小のシステム開発会社にとっては、喉から手が出るほど欲しい即戦力であるに違いない筈だ。
実際、一次面接の場に現れる担当者たちは、俺の職務経歴書をなぞる指を震わせ、未来の同僚を迎えるかのような熱っぽい眼差しを向けてきたものだ。
だが、その期待に満ちた表情は、決まって数日後のメール一本によって、救いようのない絶望へと塗り潰されることになる。
「……またか」
スマートフォンの液晶画面に冷たく並ぶのは、もはや見飽きた定型文の不採用通知だった。
これで、十社目だ。
最初は、単なるタイミングの不一致や、長期のブランクに対する現場の懸念なのだろうと自分に言い聞かせてきた。しかし、こうも立て続けに、しかも最終選考の直前という土壇場で、不可解な理由により門前払いされる事態が続くのは、統計学的な偶然を遥かに超越した異常事態と言わざるを得ない。
何かがおかしい。目に見えない大きな力が、俺の歩みを阻もうとしている。そんな確信に近い違和感が、胸の奥底で黒い澱のように溜まっていくのを感じていた。
俺は、その正体不明の圧迫感に押し潰されそうになりながらも、次の面接先へと重い足取りを向けた。
長田区の隅、潮風と錆びた鉄の匂いが混じり合う一角に建つ、古びた雑居ビル。その三階に居を構える小さなソフトハウスは、アットホームな社風を売りにし、地域密着型の堅実な経営を続けていると聞いていた。
「田村さん、君のスキルは実に素晴らしい。JCLやCOBOLの実務経験がこれほど豊富な人材が、今の市場に埋もれていたなんて驚きだよ。今の若手には到底真似できない、底知れない粘り強さを感じる」
デスクの向こう側に座る、白髪混じりの温厚そうな社長は、俺の履歴書を宝物でも扱うかのように丁寧に眺め、満足そうに何度も頷いた。その節くれだった指先からは、俺という人間を正当に評価しようとする誠実さが伝わってくる。
「ぜひ、うちの主力のエンジニアとして力を貸してほしい。君のような男を待っていたんだ」
その言葉が完結し、固い握手が交わされようとした、まさにその瞬間だった。
社長のデスクの上に置かれた内線電話が、静寂を切り裂くような鋭い音を立てて鳴り響く。
「……失礼。……ああ、私だ。……え? なんやて? それはどういうこっちゃ……」
電話口から漏れ聞こえる声は、あまりに小さく聞き取ることはできなかった。だが、受話器を耳に当てた社長の顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのが手に取るようにわかった。
受話器を握る指先が、目に見えて微かに震え始める。彼は何度も俺の方を、まるで見てはいけない禁忌の象徴を見るような、隠しきれない怯えを含んだ視線で盗み見た。
「……ああ、わかった。いえ、承知いたしました。ええ、間違いなく今ここに。……ええ、すぐに。申し訳ありませんでした」
通話が途切れた後、部屋には鉛を流し込んだような重苦しい沈黙が降りた。
社長は、先ほどまでの快活な雰囲気を完全に喪失し、何かに怯えるように肩を竦め、絞り出すような掠れた声で俺に告げた。
「……田村さん。大変、大変申し訳ないのだが、今の話はなかったことにしてくれんか」
「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか。私の経歴に何か問題があったのですか」
「……君個人に問題があるわけではないんや。ただ、君には……その身に覚えがあるはずやで。我々のような、細々と食いつないでいる小さな会社が、決して逆らって生き延びられるような相手じゃないってことや」
腹の底から、冷たい戦慄が駆け抜けた。
やはり、鳳凰寺家か。
彼らの巨大な資本力と、政財界にまで深く根を張った影響力が、平民たる俺の社会復帰を裏から、そして完璧に封殺していたのだ。
(なんでや。なんで、これほどまでに執拗に俺を追い詰める。まさか、あの叔父の件か……)
脳裏に浮かんだのは、鳳凰寺家の恥部とも言える剛三が逮捕された時の光景だった。あの一族にとって、身内から犯罪者を出したことは、決して許されざる汚点に違いない。そして、その現場に居合わせ、あろうことか一族の秘密に触れてしまった俺は、彼らにとって生かしておけない”証人”なのだろうか?
あるいは、剛三という不純物を取り除く過程で、外部の人間である俺が関わったこと自体が、彼らの誇り高き血統に対する冒涜だと判断されたのか。
どちらにせよ、彼らが俺を”始末”しようとしていることだけは、疑いようのない事実として突きつけられていた。
ビルを出ると、真夏日の暴力的なまでの陽光が容赦なく網膜を焼き、俺は思わず目を細めた。
ワイシャツの背中を嫌な汗が伝い、不快指数はとっくに限界を突破している。
俺の周りには、いつもと変わらぬ神戸の穏やかな街並みが広がっていた。楽しげに笑い合いながら通り過ぎる学生たち、忙しなく時計に目をやる会社員たち。だが、その日常の風景の中で、俺だけが、目に見えない透明で強固な檻の中に閉じ込められていた。
俺がどの会社に履歴書を送り、どの求人サイトに登録しようとも、鳳凰寺という巨大な網が蜘蛛のように先回りし、俺の足元を絡め取っていく。
住居を奪い、職を奪い、俺に残されたわずかな選択肢を、一つ、また一つと丁寧に潰していくその手法は、残酷なまでに洗練されており、かつ無慈悲だった。
これは単なる嫌がらせではない。俺という存在を、この社会から物理的、あるいは社会的に抹消するための緻密な計画に基づく処刑宣告なのだ。
「……何やねん、あの一族は。そこまでして、俺を消したいんか」
俺はポケットの中で、ハローワークの紹介状を、指の骨が鳴るほどの力でぐしゃりと握りつぶした。
一介の平民が、巨大な権力の意志によって、静かに、だが確実に社会から切り離されていく。その恐怖に足が震えそうになるのを、俺は必死に堪えた。
彼らは俺を殺そうとしている。命を奪うことよりも残酷な方法で、じわじわと、誰にも気づかれぬように、俺という人間を『無』へと還そうとしている。
鳳凰寺家という、天空にまで届くような巨大な壁を前に、一人の平民に一体何ができるというのか。
俺の就職活動は、もはや自立のためでもキャリアのためでもなかった。それは、正体不明の巨大な悪意によって仕掛けられた、逃げ場のない包囲網との出口の見えない絶望的な戦いへと変貌を遂げていた。
熱風が街を駆け抜け、俺の言葉をかき消していく。背後に迫る鳳凰の影が、いっそう濃く、深く、俺の足元を覆い尽くそうとしていた。
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