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<全50ep> 鳳凰寺凛の生霊事件簿 ~視えるのは、世界で無職(おれ)一人~  作者: 第三ひよこ丸
第4部 【残響と鳳凰寺家の観測】

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37/50

第37話 饒舌な嘘 ~凛 視点~

 病室の無機質な白さに別れを告げ、鳳凰寺邸へと戻ったのは、雲一つない快晴の日のことだった。

 数日間の昏睡という名の微睡みから引き剥がされたばかりの身体は、車椅子に揺られるだけでも、まるで異国の重力に晒されているかのような頼りなさを露呈している。

 

 庭先に並んだ使用人たちの安堵と困惑が入り混じったような複雑な会釈を背中に受け、わたくしは慣れ親しんだはずの邸宅に足を踏み入れる。だが、網膜に焼き付いているのは、あの煤けた天井と、生活の垢が染み付いたタクミの六畳間だった。豪華なシャンデリアの輝きさえ、今のわたくしにはどこか空虚で、現実味を欠いた書き割りの中に迷い込んだような感覚さえある。


 退院からさらに数日が経過し、ようやく自らの足で確かな歩みを刻めるようになった頃。鳳凰寺邸の広大なリビングルームには、淹れたての最高級ダージリンが放つ、芳醇でいてどこか鋭い香りが漂っている。

 窓の外に広がる手入れの行き届いた庭園からは、初夏の瑞々しい陽光が惜しみなく差し込み、磨き上げられた大理石の床に眩いまでの乱反射を描き出している。

 

 わたくしは極上のシルクが詰められたクッションを背に、ゆったりとした長椅子に身を預けていた。目の前には、厳しい表情で茶杯を傾けるお父様と、すべてを包み込むような優しさの中に鋭い知性を光らせるお母様。その二人を前にして、わたくしは、あの失われた数日間の出来事を、堰を切った激流のように語り続けていた。


「いいですか、お聞きになって? あの田村という男、あろうことか、わたくしという気高き存在を目の前にしながら、コンビニの安ビールなどという、喉を焼くためだけに造られた卑俗な液体を平然と煽るのですわよ!」


 わたくしは憤慨を装い、手元にある最高級のボーンチャイナを指し示した。お父様はティーカップをソーサーに戻すと、微かに眉を寄せて問いかけてくる。


「……凛、その男が君を不当に扱っていたわけではないのだな? 先日の調査では、彼は元システムエンジニアとして真面目に勤務していた記録もある。だが、君の口から語られる姿は、あまりにも……その、凄惨だな」


「不当も何も、あいつは最初からわたくしの姿が見えていたというのに、あろうことかわたくしを『幽霊』呼ばわりしたのですわ! あまつさえ、得体の知れない盛り塩を持ち出して除霊しようとまでしたのですわよ! 失礼にも程がありますわ!」


 わたくしは思い出すだけでも腹立たしくなり、扇子を握る手に力を込めた。壁を抜け、扉を無視できる生霊のわたくしを、あいつはまるで不吉な化け物のように扱ったのだ。


「わたくしはただそこに確固として存在する鳳凰寺凛ですのに。それをあいつは……! それに、あのアパートの環境は万死に値します。あろうことかプシュッという、あの空間を汚すような卑しき音を平然と立てるのですわよ」


 わたくしは心底呆れ果てたという風に、大袈裟な身振りで肩を竦めてみせた。お母様は、わたくしの言葉の一つひとつを吟味するように、穏やかな微笑みを崩さずに見守っている。


「部屋の中と言ったら、脱ぎっぱなしの靴下が化石のように硬直して放置されておりましたし、掃除機をかけた形跡など、人類の歴史を紀元前まで遡らねば見つからないほどでしたわ!」


「それは……確かに、君のような環境で育った身には耐え難い光景だったろうね」


 お父様の同情を誘うような相槌に、わたくしはさらに言葉を重ねる。


「それだけではありませんわ! あいつは、わたくしがすぐ隣にいるというのに、伸びきったカップ麺を平然と啜るのです。その下品な咀嚼音を聞かされるわたくしの身にもなってくださいまし。挙げ句の果てには寝言でわけのわからないプログラムの構文を唱えるような男なのですわよ」


 一気に捲し立てるわたくしの頬は、怒りによるものか、それとも別の熱によるものか、微かに朱を帯び始めていた。


「わたくしがどれほどの忍耐を持って、あの狭苦しい空間で耐え忍んでいたか、お父様には想像もつかないでしょう」


 わたくしは、タクミがいかに自堕落で、社会の底辺を這いずるような生活を送っていたかを、一つひとつの言葉に毒を孕ませて並べ立てた。かつて霊体として、物理的な干渉も叶わぬまま彼の背後から投げつけていた数々の罵倒。それを今度は肉体を通し、より鮮烈に再現していく。


 だが、話が叔父、剛三の拠点へと乗り込んだ場面に差し掛かると、わたくしの声は、自分自身の制御を容易く突き破るほどの熱量を帯び始めた。


「……ですが、あの無茶苦茶な潜入の際だけは、ほんの、ほんの少しだけ見直して差し上げましたのよ」


「ほう、あの強欲な剛三の懐に飛び込んだというのか。丸腰でか?」


 お父様の鋭い問いに、わたくしは深く、力強く頷いた。脳裏には、あの薄暗い廊下の冷気と、タクミの震える肩が鮮明に蘇る。


「剛三の手下どもが廊下を埋め尽くし、空気が凍り付いたあの絶体絶命の瞬間。あいつ、恐怖でガタガタと震える足を必死に叩いて、わたくしの肉体が眠る病室の前まで他取りついたのですわよ」


「モップ一本で……?」


 お母様の確認に、わたくしは熱を帯びた瞳で応える。


「ええ、そうですわ! ただの清掃用モップ一本を、まるで伝説の聖剣であるかのように握りしめて! 言葉も出ないほどに歯を食いしばって、ただ、泥臭く、必死に……!」


 一気に語り終えると、わたくしの肩は微かに上下していた。瞳には潤んだような、それでいて芯の強い情熱を孕んだ光が宿っている。


「その時のあいつの顔と言ったら……不細工な癖に、妙に……いえ、ほんの少しだけ、凛々しくてよ!」


 タクミが元SEとしての知識を限界まで絞り出し、複雑なセキュリティの隙間を縫うようにして突破したあの疾走感。わたくしの声だけを絶対的な道標として闇の中を駆けた、あのひたむきな背中。語れば語るほど、記憶の中のタクミの姿が鮮烈な色彩と熱を伴って蘇る。


 その時、それまで静かに耳を傾けていたお母様が、楽しげに目を細めた。すべてを見透かしたかのような、春の陽だまりに似た、けれど残酷なほどに的確な微笑を浮かべて口を開く。


「凛……貴方、お話を聞いていると、その方に恋をしていらっしゃるのではないかしら?」


「………………はぁ?」


 一瞬、世界のすべての音が消失した。

 心臓が、肋骨を内側から突き破らんばかりの勢いで大きく跳ねる。思考が真っ白な光に塗り潰され、全身の血液が沸騰したかのように顔面へと逆流していく。


「な、なななな、何を、何を仰いますのお母様!? 恋!? あのような無職で、不潔で、配慮の欠片もない男に、この鳳凰寺凛が!? 万死に値する侮辱ですわよっ!」


 わたくしは顔を熟しきった林檎よりも深く赤く染め上げ、激しく首を振って全否定した。だが、お母様はなおも、いたずらっぽく笑みを深める。


「冗談でも二度と、二度とそんな不名誉なことを口になさらないで!」


「あら、そうかしら? 貴方がこれほどまでに一人の男性について熱心に、それも細部まで詳しく、楽しそうにお話しになるなんて、生まれて初めてのことですもの」


 お母様の言葉に、わたくしは絶句した。自分の声が、それほどまでに浮ついていたというのか。


「お、お母様! 何を……! 楽しそうになどしておりません! 苦痛だったと言っているのですわ!」


「罵倒の中にも、どこかその方を慈しむような響きが混ざっているのよ、凛。あのアパートの様子を語る貴方の声、とても生き生きとしていたわ。まるで大切な宝物の思い出を語るようにね」


 わたくしは助けを求めるようにお父様を見た。だが、お父様は厳しい表情を崩さないまま、どこか遠い目をして、わたくしが語った数々の証拠を吟味していた。


「……なるほど。わが家のセキュリティを凌駕する技術を持ち合わせ、さらには剛三の隠し金庫の暗証番号や、あの男の部屋の傷の位置まで、君の証言はあまりに具体的だ」


 お父様は一度言葉を切ると、わたくしの瞳を真っ直ぐに見つめた。


「どうやら、本当に君を救い出してくれたのは、その若者だったようだな。生霊という信じがたい現象も、君の語るこの事実の前では認めざるを得ない」


 その重い一言によって、ようやく両親も、わたくしが経験した生霊の日々が、紛れもない現実であったことを完全に確信したのだ。


(あ、ああ……! なぜわたくしは、あいつのことをこれほどまで熱く語ってしまいましたの!? これでは、わたくしがタクミに夢中であると、自ら公言しているようなものではありませんか!)


 あまりの恥ずかしさに身をよじりながらも、わたくしの視線は、磁石に引き寄せられるかのように窓の外へと向いていた。

 そこには、タクミが今もどこかで泥臭く、しかし誰よりも懸命に生きているであろう神戸の街並みが広がっている。

 

 タクミ、覚悟なさい。お父様もお母様も、あなたの存在を、わたくしを救いし唯一の者として、その魂ごと完全に認めてしまいましたわ。

 

 もう、この広い世界のどこへ逃げようと無駄ですのよ。鳳凰寺家の包囲網は、今この瞬間も、あなたの首筋に、逃れることの叶わぬ甘く重い鎖を添えようとしているのですから!

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