第36話 虚無を埋める残響 ~凛 視点~
……暗闇。どこまでも深く、底の知れない澱んだ泥濘の底で、わたくしはただ、浮上する術も持たず微睡んでいた。肉体という重い鎖から解き放たれ、霊体としてあの無礼な男の背後を浮遊していた日々の記憶が、まるで古い活動写真のように、断片的な光となって脳裏を掠めていく。
狭苦しい六畳一間のアパート。埃の舞う窓際。安ビールの弾ける泡の音。そして、わたくしの言葉を唯一受け止め、不器用な献身を捧げ続けた、あのタクミのという男の、どうしようもなく頼りない後ろ姿……
深い淵の底から意識を浮上させる作業は、冷たい氷の壁を素手で這い上がるような苦行であった。
重力に逆らい、鉛のように重い瞼をゆっくりと、しかし鳳凰寺の誇りを込めて押し上げる。視界に飛び込んできたのは、見慣れた我が家の天蓋ではなく、清潔すぎてかえって不気味な、どこまでも白く平坦な病院の天井であった。
鼻を突く消毒液のツンとした匂いと、幾つもの精密医療機器が刻む、命の拍動を無機質に数値化する電子音。それらは、わたくしが再び、この不自由で重苦しい肉体という檻に帰還したことを、残酷なまでに明確に告げていた。
そして、わたくしの開眼と同時に、それまで死の静寂が支配していたはずの室内は、突如として嵐のような感涙の叫びに包まれる。
「ああ、凛……! 凛、よくぞ、よくぞ戻ってきてくれた!」
一番にわたくしの手を握りしめたのは、普段は鉄面皮を崩さぬお父様であった。その指先は驚くほどに震えており、頬を伝う大粒の涙が、わたくしの甲に熱を伴って零れ落ちる。
「お嬢様! ああ、なんという奇跡……神よ、感謝いたします!」
「すぐに先生をお呼びして! 容態の確認を急ぐのよ!」
傍らで膝を突き、祈りを捧げるお母様。さらには周囲を幾重にも囲む医師団、メイド、執事たちまでもが、ある者は人目も憚らず声を上げて泣き、ある者は感極まって言葉を失い、震える手で十字を切っていた。
わたくしという存在が、この家において、そして鳳凰寺という血脈において、どれほどの重みと価値を持つのか。それを、網膜に焼き付くほどの光景として、まざまざと見せつけられる瞬間であった。
本来ならば、この感動の再会に身を委ね、家族の愛に包まれて安らかな眠りにつくべき場面なのであろう。
だが、そんな聖域のような感動の渦中にあってなお、わたくしの胸の奥を激しく焦がしていたのは、この場にはいない、ある”無礼者”への烈火のごとき憤怒と、爆発しそうなほどの気恥ずかしさであった。
(忘れてなどおりませんわよ。タクミ。あたくしが意識を失う直前、あの凄惨な事故現場で、あたくしと目が合いながら、保身のために背を向けたあなたの、あの情けなくも卑怯な後ろ姿を!)
あの時、路上に横たわるわたくしの網膜に焼き付いたのは、夕日に照らされたあなたの、どこまでも平凡で、どこまでも無責任な逃亡者の背中。本来なら、そこでわたくしとの縁は永遠に断ち切られるはずだった。
だというのに、運命の悪戯か、はたまた呪いか。
霊体となってあなたの狭苦しいアパートに居座った、あの日々。わたくしのために泥を啜るような真似をして、叔父・剛三の隠蔽工作を暴くための証拠をかき集め、たかがモップ一本を武器に、わたくしの肉体を守り抜いたあなたの、あの滑稽なほど必死な横顔。
当主であるお父様に対して、一介の無職に過ぎないあなたが、鳳凰寺家専用塗料の分析結果と、命懸けで奪還したドライブレコーダーを突きつけ、わたくしの命と、泥に塗れかけていた鳳凰寺家の誇りを救い上げたという、あの一連の無茶苦茶な献身。
そのすべてに対し、わたくしは海よりも深い恩義を感じている。鳳凰寺家の娘として、相応の、いえ、一族の全財産を投げ打ってでも、身に余る礼を尽くさねばならないことも、この魂の芯まで痛いほど理解していた。
でも、それを「ありがとう」などという、あまりにも容易く、甘やかな言葉で認めてしまうことなど、鳳凰寺凛としての矜持が、何よりこの火が出るほどに熱く脈打つ胸の鼓動が、絶対に許さない。
もし今、ここで素直に感謝を口にしてしまえば、わたくしの中の何かが決定的に壊れ、あなたという存在に屈服してしまうような、そんな根源的な恐怖さえ感じていたのである。
わたくしは溢れんばかりの感謝と、喉の奥まで出かかっている口に出せぬほどの愛着を、あえて鋭利に研ぎ澄まされた”怒り”という形へと鋳造する。そして、顔に密着していた酸素マスクを、自らの衰えたはずの手で乱暴に引き剥がした。
「……あの無礼者を、直ちにわたくしの前に引きずり出してらっしゃい!」
病室の壁を震わせるほどに響き渡ったわたくしの第一声は、再会の喜びに沸き立っていた人々を、一瞬にして極寒の氷壁のごとく凍りつかせた。
お父様が涙を拭うのも忘れ、怪訝そうに、あるいは愛娘の正気を疑うような眼差しで問い返してくる。
「凛? 気分が悪いのかい? 無礼者とは……まさか、あの田村という若者のことかい? 彼は鳳凰寺家にとっての最大級の恩人だ。今まさに、彼が一生遊んで暮らせるほどの最高の褒美を準備させているところだが……」
「いいえ! 違いますわ、お父様! 彼は褒美などという生ぬるいものを与えるべき相手ではありません、断じて! 彼は大罪人ですわ! わたくしを、この鳳凰寺凛を見捨て、挙句の果てに自室であの……あの洗うのも躊躇われるような汚らわしい靴下を見せつけ、挙句の果てに安ビールの匂いを嗅がせ続けた、万死に値する男ですのよ!」
一気に捲し立てると、肺が熱く焼け付くような錯覚に陥る。だが、言葉を止めることはできない。止めてしまえば、この潤んだ瞳の理由を、別の温かな感情のせいだと悟られてしまうから。
「ですから、あのような危険人物を世に放っておくわけには参りません。わたくしの目の届く範囲に、鎖で繋いででも置いておかなければ、監視し続けなければ……わたくしが、わたくしの気が済みませんの!」
本当は。本当はただ、目覚めた瞬間に一番に、あの不細工で、くたびれた、けれど誰よりもわたくしを直視し続けたあの顔を見て、少しだけ……ほんの少しだけ、安心したかったなんて。
霊体としてではなく、この温かい血の通った手で、もう一度あなたの存在を確かめたかったなんて。
そんなこと、全宇宙が崩壊しても口にできるはずがない。
すると、お父様はわたくしの異常な剣幕に、最初は驚愕の表情を浮かべていたものの、次第にすべてを察したような、なんとも困った、しかし慈愛に満ちた笑みを口元に湛えて頷いた。
「……ふふふ、案ずるな凛。わたくしの愛娘がこれほどまでに執着する相手だ。君が目覚めるよりずっと前から、既に手は打ってあるよ。彼の素性、交友関係、現在の居場所……すべて完全に特定済みだ。いつでも、この部屋へ、あるいは君の寝室へ連れて来られるようにね」
(お、お父様? 手を打ってあるとは、どういうことですの? 特定済み? まさか、わたくしが目覚める前から、あたくしの思考を読み取って拉致の準備をしていたとでも!?)
お父様の鳳凰寺家当主としての恐ろしいまでの用意周到さと、親バカゆえの暴走に近い配慮に、わたくしの頬は林檎よりもさらに深く朱く染まり、心臓の鼓動が耳の奥で、鐘の音のように激しく打ち鳴らされる。
わたくしの視界から消えることなど、地獄の果てまで追いかけてでも、絶対に許さない。
タクミ。あなたが勝手に捧げた献身の代償は、わたくしの隣という、金銀財宝で飾られた”生涯逃げられない檻”の中で、死ぬまでたっぷりと支払わせて差し上げますわ!
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