第35話 逃れ得ぬ檻
新しく移り住んだ安アパートの室内は、あまりにも殺風景だった。ただひたすらに、空虚な沈黙だけが部屋の隅々にまで支配を広げている。
薄汚れ、曇りきった窓硝子から差し込む初夏の陽光。それが、埃の舞う畳を白々と、無慈悲に照らし出していた。
光は、そこに住まう俺の困窮を、一切の容赦なく曝け出しているかのようだった。
以前の住まいにあったはずの光景を、俺は嫌でも思い出してしまう。
そこには、壁際の棚を埋め尽くす愛着のあるゲームソフトがあった。
ジャンルごとに背表紙を揃え、最新作からレトロゲームまでを網羅した、俺だけの小さな聖域。
机の隅には長年かけて収集してきたコミックの山が、俺の平穏な日常を象徴するように存在していた。
しかし、今のこの剥き出しの空間には、生活を維持するための最小限の荷物以外、何一つ残されていない。
俺という人間が、かつてそこに存在していたという証左すら、綺麗に消え失せていた。
(……あのごっついコレクション、全部売ってもうた。俺のこれまでの人生、青春の欠片みたいなもんが、あんな二束三文の端金で消えてまうなんてな。笑うにも笑えんし、涙の一滴も出てけぇへんわ。限定版のBOXも、サイン入りの画集も、俺の手元からはもうのうなってしもた。ほんま、アホらしいわ)
すべては、あの鳳凰寺剛三が差し向けた者たちによる蹂躙の結果だった。奴らは俺の留守中を正確に狙い、鍵を抉じ開けて土足で侵入したのだ。
そして、主のいない無人の空間を、ただ一方的に、徹底して破壊し尽くした。帰宅した俺の目に飛び込んできたのは、無残に引き裂かれた壁の穴だった。執拗に打ち据えられた痕跡が深く刻まれた床。それは人の底暗い悪意が形となったような、惨烈な残骸の山だった。
唯一の救いは、俺が、すべて友人達に貸していたことだった。
高額なゲーム機、数多のソフト、そして市場ではもう手に入らない限定版のBOXやサイン入りの画集。
それらは友人たちの家という安全圏に逃がされていたため、奴らの破壊工作から奇跡的に難を逃れていた。
空っぽの棚や、価値のない雑多な家財道具だけが、奴らの憎悪の捌け口となったのだ。
しかし、被害が最小限だったからといって、代償がなかったわけではない。
管理会社から非情に突きつけられたのは、当然戻ってくるはずだった敷金の返還などではなかった。
破壊された部屋の惨状を前に、彼らが提示したのは、それを大幅に上回る額の修繕費用の請求書だった。
理不尽という言葉だけでは、到底この腹の底から湧き上がる怒りは拭えない。胃の底に澱のように溜まる虚しさを、俺は無理やり喉の奥へと押し込んだ。
叫び出したくなる衝動を抑え、震える指先でペンを握り、手続きを済ませるしかなかった。
生き延びるため、俺は友人たちに預けていた宝物の一部を、涙を呑んで手放す決断をした。
回収したコミックやゲームを手に、三宮の喧騒や元町の賑やかな商店街を、俺は何度も往復した。
思い出が詰まった品々を重い段ボールに詰め、汗にまみれて運ぶ道中。日差しは肌を焼き、滲む汗が目に入って痛むが、止まることは許されなかった。
あの一族から逃げ切るための軍資金を、何としてでも作らなければならなかったのだ。
中古ショップを幾軒も梯子し、己の半身とも言えるコレクションを切り売りして、ようやく微々たる資金を得た。
店員が提示する無機質な査定額を聞くたびに、自分の人生が安売りされているような気がした。
宝物だと思っていたものが、ただの数字として処理されていく。
それでも、生きるためにはそうするしかなかった。
そうして必死の思いで確保したのが、この壁の薄い、常に饐えた臭いの漂う湿気た安アパートだった。
(これだけ必死に逃げ回って、足跡も全部消したんや。大事なもんまで売って、こんな掃き溜めみたいなとこに潜り込んだんやから、あの一族の、あの気味悪い追跡からも、今度こそおさらばできるはずやろ。そう信じな、ほんまに一日としてやってられへんねん。今度は大丈夫や。絶対に見つかるわけない。これだけ徹底したんやからな)
自分に言い聞かせるように呟き、錆びの浮いた流し台で水を一気に飲み干した。
蛇口から出たぬるい水では、喉を焼くような虚無感は決して消えない。
精神の摩耗は、すでに限界をとうに超えていた。
昼夜を問わぬ緊張感。背後を振り返る癖。
それでも、鳳凰寺の手から逃れたという微かな手応えだけが、今の俺を支える最後の杖だった。
夜になれば、隣の部屋の話し声や、道路を走る車の音が薄い壁を透かして生々しく聞こえてくる。
以前よりも劣悪な環境。
だが、今の俺にとっては、この惨めさこそが安全の証であるはずだった。
誰にも見つからず、誰にも干渉されず、ただ静かに息を潜めて生きる。
そのための、この四畳半の檻なのだ。
数日後、空腹を抱えて買い出しから戻った俺は、玄関先で石のように凍りついた。
まるで見えない冷たい鎖に繋がれたかのような、衝撃が全身を走った。ドアのノブに綺麗な紙袋がぶら下がっている。。
中を覗き込むと、周囲の薄汚れや貧相な景色とは一線を画す、一点の曇りもない包装に包まれた小箱。
そこに存在することが当然であるかのような、確固たる存在感を放っていた。
震える指先で、俺はその小箱を拾い上げる。中身を確認する必要など、どこにもない。
端正に整えられた包み紙には、鳳凰寺の家紋が音もなく刻まれている。
箱の僅かな隙間から漂ってくるのは、この安アパートには似つかわしくない最高級の茶葉の香りだ。
その芳香が残酷なまでに、すべてを物語っていた。
心臓が早鐘を打ち、喉の奥がカラカラに乾いていく。
「……嘘やろ。なんで、ここがバレとんねや。俺、何もかも捨てて、誰にも言わんとここまで逃げてきたはずやのに……。なんでや、なんでなんや!」
乾いた声が、誰もいない冷え切った廊下に虚しく響き渡る。どれほど必死に過去を断ち切り、自分という存在を抹消しようとしても無駄だったのだ。
全財産を投げ打って、地図の片隅に追いやられたようなこの掃き溜めに身を隠しても、鳳凰寺という巨大な怪物の観測網の前では、何一つ意味はなかった。
俺の行動はすべて、赤子の悪足がきにすら満たない無意味な振る舞いだった。
この茶葉は、鳳凰寺一族からの単なる贈り物などでは決してない。
それは、抗い難き絶対的な屈服の宣告だ。
「貴様がどこへ逃げようと、どのような汚泥に這いつくばろうと、我々の視界からは逃れられない」
言葉にするまでもなく、そう告げられたも同然だった。
その完璧な作法と、一切の隙がない贈り物。
それがかえって、底知れない恐怖となって俺の背筋を凍らせた。
(俺が必死に積み上げた自由なんて、あいつらがフッと一息を吹きかけたら一瞬で崩れ去る砂の城やったんか。……アホらしい。ほんまに、心底アホらしいわ。俺のしてきた必死の努力は、全部あいつらの手のひらの上で転がされとっただけやったんか。どこまで行っても、俺はあの家のもんなんか)
手の中の小箱が、まるで何十キロもある鉄塊のように重く感じる。
俺の腕を、そのまま地獄の底へと引きずり込もうとする。
鳳凰寺正人の、すべてを見透かし、支配せんとする眼光。
それが、この薄汚れた天井の隙間から、あるいは薄い壁の向こう側から、常に俺を監視している。
そんな耐え難き錯覚に陥り、俺の呼吸は浅く、速くなった。四方の壁がじわじわと迫り、俺を押し潰そうとしているような圧迫感。
逃げ道は、最初から一筋も残されてはない。あの一族が網の目のように張り巡らせた、目に見えぬ粘着質な糸。
俺はそれに全身をがんじがらめに絡め取られ、逃がされることもなく、ただその巨大な蜘蛛の巣の深奥へと、ゆっくりと、しかし確実に引きずり込まれていく。
鼻腔を執拗に抜ける高級な茶葉の気配が、今はただ、俺の首を一本ずつ締め上げてくる。
逃れ得ぬ運命の鎖のように、冷たく、重く、どこまでも俺に纏わりついていた。
俺は膝から崩れ落ち、その場に頽れた。
手の中の小箱を握りしめたまま、ただ震えることしかできない。
頭上からは、古びた換気扇が回る無機質な音だけが、虚しく響いていた。
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