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<全50ep> 鳳凰寺凛の生霊事件簿 ~視えるのは、世界で無職(おれ)一人~  作者: 第三ひよこ丸
第4部 【残響と鳳凰寺家の観測】

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第34話 選定の天秤 ~当主視点~

 鳳凰寺の奥の間に流れる時間は、下界の喧騒とは無縁の、どっしりとした重みを湛えている。

 私、鳳凰寺正人の目の前には、精査され尽くした一通の報告書が静かに横たわっていた。その紙束に記された文字列のひとつひとつが、ある一人の男の半生を無機質に、だが雄弁に物語っている。

 

 鳳凰寺の当主として、これまで数多の人間を値踏みし、その器の底を覗き込んできたが、今回の調査対象である男、田村拓己は、一見すればどこにでもいるような、あるいは都会の雑踏に容易に埋没してしまうような、平凡という仮面を被った存在に過ぎない。

 だが、その仮面の下に隠された真実に手を伸ばし、情報の深淵を読み解いていけば、そこには見る者が驚嘆せざるを得ない煌めきが潜んでいる。


(ふむ。一見すれば、牙を抜かれた腑抜けにさえ見えるが、この報告に並ぶ数字と事実の乖離は何だ……?)


 報告書の頁をめくれば、彼が前職で発揮していた、極めて優秀と評されるシステムエンジニアとしての軌跡が浮かび上がってくる。

 数千、数万という複雑怪奇な論理の糸を解きほぐし、最適解という名の秩序を構築するその手腕は、まさに一級品の職人のそれである。

 

 しかし、運命とは時に、才ある者にこそ過酷な試練を与えるものらしい。組織の不祥事。その黒い渦の中で、彼はすべての汚名を一身に背負わされ、不当に退職という名の追放を迫られたのだ。組織という巨大な歯車を維持するために、一個人の誇りを生贄に捧げる。そんな陳腐で、救いようのない悲劇の主役に、彼は選ばれてしまった。

 

 理不尽な逆境、泥を塗られた過去。普通の人間にあれば、そこで精神を病み、あるいは社会への恨みを募らせて腐っていくのが関の山だろう。だが、私が注目したのは、その不遇の果てに彼が選んだ歩みである。


(ほう。これほどの仕打ちを受けながら、奴の目はまだ死んでおらんのか。それどころか、この戦闘記録……到底、理屈が通らん)


 私がそう断じた決定的な根拠は、報告書に添付された、病院での騒乱に関する克明な記録にある。

 

 剛三。あの一族の厄介者が、己の私欲を満たすために病院へと差し向けた粗暴な連中。鍛えられた体躯を持ち、乱闘にも慣れた奴らを相手に、田村拓己はあろうことか、そこらへんに立てかけられていた清掃用のモップ一本を手にして立ちふさがったのだという。

 

 報告書を読み進めるほどに、私の眉間の皺は深くなる。記録された彼の動きは、単なる素人の火事場の馬鹿力などという言葉では到底、説明がつかない。

 

 正面の敵が抱える僅かな重心の偏りを見抜き、泥臭くも最短距離で膝を砕く突進。そして、まるで背後にも眼があるかのような、物理法則を無視したかのような転身。モップの柄をしならせ、数人の暴漢を次々と畳に沈めたその機動力は、もはや武芸の達人の域すら超えている。

 いや、達人などという言葉で片付けることすら、本質を見誤る気がしてならない。

 この男の動きには、生物が本来持っているはずの迷いや揺らぎが一切存在しないようだ。

 

 筋肉の弛緩から緊張への移行、重心の移動、それらすべてが、まるで極限まで研ぎ澄まされた精密機械の歯車が噛み合うかのように、冷徹なまでに正確すぎる。

 長年、多くの武道家や修羅場を潜った人間を見てきた私の直感が囁いている。これは、一個の人間が己の意思で制御できる範疇の動きではない。あたかも、肉体そのものが何らかの強大な計算式によって、無理やり強制駆動させられているかのような、不気味なまでの違和感。


(システムエンジニアとしての緻密な演算能力が、極限状態で肉体を支配したとでもいうのか? ……それにしては、このキレは異常だ。まるで別人の意志が、その皮膜の内側に潜り込んでいるかのような……)


 しかし、この正体不明の違和感こそが、私を田村拓己という男に強く惹きつける。

 さらに、何よりも私の心を捉えて離さないのは、報告書に記された公的な記録ではない。あの時、病院の白く塗りつぶされた廊下で、彼が不意に放ったあの言葉だ。

 

 私と凛。私たち親娘しか知り得ない、極めて限定的な状況下での対話。外部に漏れるはずもなく、ましてや、一介の技術者に過ぎない彼が知り得るはずもない一族の深奥に触れるような言葉を、奴は事もなげに口にした。

 

 先ほど挙げた、モップ一本で多勢を圧倒するような、人知を超えた戦闘。そして、私の心の奥底を見透かすかのようなあの言葉。このふたつが同一人物の中に同居しているという事実に、私の当主としての本能が警鐘を鳴らしている。


(あの言葉、一体どこで手に入れた。私と凛以外、誰も関与できぬはずの領域に、奴は土足で踏み込んできた。……偶然で片付けるには、あまりにも出来過ぎている。あの神がかり的な戦闘能力、そしてこの知識。田村拓己、貴様は一体何者なのだ)


 

 あの瞬間の奴の瞳には、一切の迷いも、あるいは計算ずくの狡猾さもなかった。ただ、当然の事実を告げるかのような、純粋なまでの響き。それがかえって、私の背筋に得体の知れない震えを走らせる。

 

 一族の観測網が捉えた彼の日常は、確かに質素で目立たぬものだ。だが、その静かな生活の裏側には、いつか訪れるであろう再起の瞬間に備え、爪を研ぎ続ける野獣のような鋭さが同居している。

 

 彼は単なる被害者ではない。逆境という名の猛火で熱され、叩かれ、極限まで不純物を削ぎ落とされた、まさに磨けば光る原石そのものだ。

 世間が彼を、終わった人間と断じたのなら、それは世間の目が節穴であったという証左に他ならない。鳳凰寺の当主たる私が、その隠された真価を正当に認識し、彼をこの手の内に収めることの意義は極めて大きい。


 不当に退職を迫られた過去さえも、今となっては彼を輝かせるための背景に過ぎない。

 一度どん底を見た人間は強い。失うものがない強さではなく、守るべき矜持を奪われながらも立ち上がり続ける、その不屈の意志と、暴力をもねじ伏せる実力。それこそが、鳳凰寺という歴史ある一族に新たな風を吹き込む力となるのだ。

 

 私はゆっくりと、手元の万年筆を置き、傍らに控える側近たちに視線を向けた。その眼光には、一族の未来を左右する決断を下す者の揺るぎない覚悟が宿っている。


(この男、我が一族に引き入れる。たとえどのような手段を用いても、奴の能力を鳳凰寺のために捧げさせねばならん。そして、あの病院で見せた異常なまでの力の源泉と、あの言葉の真意を、私の目の前で吐き出させてやる)


 

 情報の精査は終わった。これからは、実力行使の段階へと移る。

 彼が今、神戸の街で感じているであろう、あの黒塗りの車両による包囲網。それは彼にとっての脅威であると同時に、私から彼への最大級の敬意の表れでもあるのだ。

 モップ一本で未来を切り拓き、死線を潜り抜けたその力、しかと見せてもらおう。

 原石をただ眺めている時間は終わった。泥を拭い、磨き上げ、鳳凰寺の宝飾として相応しい座へと据えるための緻密かつ大胆な計画を始動させる時だ。

 

 奴が病院で放ったあの不可解な言葉、および精緻な調査によって浮かび上がった不屈の闘志。そのふたつが重なり合った時、鳳凰寺の歴史は、これまでとは全く異なる色に塗り替えられるだろう。


「田村拓己。貴様のこれまでの苦労は、すべて私が買い取ってやろう。その代わり、貴様の持つすべての才能を、我が一族のために使い果たしてもらう。……そして、あの不可思議な動きの種明かしと、あの言葉の出所を、じっくりと聞かせてもらおうか」


 部屋を流れる沈黙の中で、私は力強く、そして断固とした口調で厳命を下した。

 彼の身柄を確実に確保せよ、と。

 

 一族の蜘蛛の糸は、今この瞬間も、彼という獲物を優しく、かつ逃れられぬように絡め取ろうと蠢いている。

 逆境に屈せぬその魂が、鳳凰寺という巨大な舞台でどのような火花を散らすのか。当主としての好奇心と、指導者としての野心が、私の胸の中で心地よく燃え上がっていた。病院でのあの奇妙な縁が、どのような結末を連れてくるのか。それを見届けるまでは、私、鳳凰寺正人の歩みが止まることはない。

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