第50話 模様替え
猫神様が降臨する、少し前のこと――。
それは、四匹の赤ちゃん猫たちが、ようやくその愛くるしい瞳をうっすらと開かせた記念すべき日であった。
「みゃみゃ……(サンちゃまー!)」
家庭内別居中にある夫のサンを、ゴンが弾んだ声で呼びよせた。
少し離れた場所で、一人まったりと過ごしていたサンは、呼ばれた声の主へとよろよろとおぼつかない足取りで近づいた。
ゴンと赤ちゃん猫たちが過ごす隔離スペースの仕切りの入り口。その手前にちょこんと行儀よくお座りしたサンを見つめ、ゴンは嬉しそうに目を細めて声を弾ませた。
「みゃみゃ……(サンちゃま、赤ちゃんの目が開いたでちゅよ。挨拶してくだちゃいな!)」
「にゃにゃ……(パパにゃんよ……。)」
サンはどこか恥ずかしそうに、四匹の我が子へとそっと挨拶を投げかけた。
『みみ』『むむ』『めめ』『もも』と名付けられた小さな赤ちゃん猫たちは、聞き慣れない声の方へとピクリと顔を向ける。しかし、すぐにか細い声で「みーみー」と鳴くと、迷うことなくゴンの温かいお腹へと顔を埋めた。そのまま一心不乱に、母乳をゴクゴクと飲み始めてしまう。
「にゃにゃ……(パパって、わかんにゃいにゃ……?)」
自分の存在感がすっかりミルクの魅力に敗北したことを悟り、サンはショックのあまり小さく肩を落とした。パパだと分かってもらえなかった切なさが、その背中に漂っている。
そんな猫夫婦のやり取りを少し離れた場所から見守っていたシンは、口元をほころばせてサンの傍らへと足を進めた。大きな手をサンの温かな背中に添え、優しく撫でながら静かに語りかける。
「生まれたばかりの頃は、パパにできることは少ないからな……。これからはゴンの代わりにお世話をして、しっかり労わってやるんだぞ。」
「にゃん」
サンはシンの顔を見上げると、短く、けれど決意を込めた強い声で一言だけ返事をした。
「ゴン、みんなで元のケージに引越しするか?」
シンの問いかけに、ゴンは深い信頼を込めた瞳で「みゃん」と頷いた。
その返事を見届けると、シンは静かにお産コーナーに向けて手のひらをかざし魔力を解放した。かつてゴンが一人で使っていたベッドが、柔らかな淡い光に包み込まれていく。光がしずかに収まったとき、そこにはサンとゴン、そして四匹の赤ちゃん猫たちが一緒に身を寄せ合って眠れる、ふかふかで大きなベッドが完成していた。
準備が整うと、ゴンは手際よくお産コーナーから新しいベッドへの引っ越しを始めた。
最初に長女の『みみ』を丁寧に口に咥え、新調された大きなベッドへと運んでいく。だが、ケージのベッドの前までやってきたとき、ゴンはある『先客』の姿を目にしてピタリと足を止めた。
――そこには、すでにベッドの真ん中でくつろいでいるサンの黒い体が横たわっていたのだ。
一瞬の沈黙。ゴンは表情を変えずに歩を進めると、驚く風もなくベッドの端っこにそっと赤ちゃん猫を下ろした。
「みゃみゃ……(サンちゃま。真ん中は赤ちゃんのスペースでちゅよ。端っこに寄ってくだちゃいな!)」
ゴンは目を吊り上げ、耳を外側に向け、水平にツンと尖らせて、いわゆる『イカ耳』の形になった。
「にゃにゃ……(そうにゃんか……。)」
サンは申し訳なさそうに耳をパタンと伏せると、大きな体を小さく丸め、赤ちゃん猫を踏まないようにゴソゴソとベッドから這い出た。そして大人しく引っ越しの様子を見守る側に回るのだった。
「母親は強し、だな。」
その様子を眺めていたシンが、思わずフッと笑い、語りかけるように呟いた。
ゴンがすべての赤ちゃん猫の引っ越しを無事に完了させたのを確認すると、シンは手際よくお産コーナーの片付けに取り掛かった。お産箱などの役割を終えた備品が次々と撤去されていくと、かつて賑やかだった一角は、ぽっかりと空いた空間へと戻っていく。
「何もなくなると、なんだか少し寂しいね。」
一華が名残惜しそうにつぶやいたその言葉を、龍輝は聞き逃さなかった。 龍輝がそっと魔力を解放すると、柔らかな光の粒がお産スペース全体を優しく包み込んだ。突き出していた空間の壁が淡い光とともに霧のようにすーっと消え、元の綺麗な壁へと戻っていた。
「ゴンちゃん、あたらしいベッド、きにいった?」
龍輝は元のケージの前にしゃがみこんで、赤ちゃん猫と一緒に横たわるゴンに向けて尋ねた。
「みゃみゃ……(ふかふかで最高でちゅよ! シンちゃま、ありがとうございまちゅ!)」
母猫であるゴンがシンに向けてお礼を伝えた。
ケージの外から母子の引っ越しを見守っていたサンは、子猫たちを踏まないようベッドの空いたスペースへとゆっくりと足を踏み入れ、ゴンの顔に自身の顔を向けるように横に寝そべった。
そんな愛くるしい猫一家の姿を、一華とシンは少し離れた場所から優しく目を細めて見つめていた。小さな命が寄り添い合い、穏やかな寝息を立て始めるのを確かめると、二人は顔を見合わせ、満足そうにうなずき合った。
◇◆◇
その日の夜。
二人の子どもの龍輝と愛麗を寝かしつけたあと、一華とシンはソファに並んで腰を下ろした。シンは片手に缶ビールを傾け、一華は相変わらずお気に入りのアイスカップをスプーンですくいながら、ほっと一息ついている。
「あのスペースに、机を置こうかと思うんだが……どうだろうか?」
ふと、シンが視線を向けたのは、かつてお産コーナーがあった何もない壁際の一角だった。
「えっ? もう? ちょっと早くない?」
「早くはないだろ。選抜試験には『文字の読み書き』と『数的思考力』、それに『作文』がある。文字が書けなければ答えられないからな。」
「そうだね……もうそろそろ幼稚園受験を考える年齢になったんだもんね。」
シンは首をかしげながら不思議そうに尋ねた。
「……人間界では、幼稚園にも受験というものがあるのか?」
シンの問いかけに、一華はすくっていたスプーンをぴたりと止めて答えた。
「有名な幼稚園だと、大学までそのまま上がれるエスカレーター式だったりするからね。」
「エスカレーター式とは?」
缶ビールを一口あおいだシンが不思議そうに眉を寄せると、一華は止めていたスプーンのアイスを頬張ってから答えた。
「大学まで受験せずに進学できる仕組みのことだよ。私自身は一般的な幼稚園で、小中学校も公立だったから高校受験も経験したけど……。小さい頃に一度だけ頑張っておけば、大きくなってからの受験勉強のプレッシャーがないっていう大きなメリットがあるの。もっとも、親の苦労は相当なものらしいけどね。」
シンは缶ビールをローテーブルに置くと、腕を組んで思案顔になった。
「ということは、小学校である『シン華学園』の受験も、それなりに険しい道のりということか?」
「そうだよ。大まかな試験内容は決めたとしても、具体的にどんな問題を出して、どう教え込んだらいいか……。龍ちゃんだって、対策しなきゃ不合格になっちゃうよ? それに面接だって、子どもへの質問だけじゃなく、両親への質問や細かいチェックポイントを予め決めておかないと。入室から着席、退室までの作法だって厳しく見られるんだから。」
遠い目をした一華は、自身の高校受験の記憶を呼び起こしていた。
「受験勉強も大変だったけど、やっぱり一番緊張したのは面接だったな……。だからこそ、基本的な面接マナーを事前に周知しておく必要があると思うんだ。こちらが求めるマナーを知らずに受けて、印象が悪くなったら可哀想でしょ? 小学校受験の対策本を作成して購入してもらえばいいんじゃないかな。」
「なるほど……一度しっかりしたものを作ってしまえば、毎年必要とされる定番となりそうだな。」
シンの目が光り輝く。
「小学校受験なら、試験内容も大きく変わることもないだろうしね。」
しかし、一華はふと思い直したように元お産コーナーの壁を見つめながら首をかしげた。
「……でも、壁に向かって黙々と勉強するスタイルってどうなのかな。キッチンや事務所スペースからも死角になっちゃうし。まだ幼いんだから、もっと目の届く場所に置いてあげた方が安心じゃない?」
「しかし、それでは集中できないのではないか?」
「えっ? そうかな……。私なんて、自分の部屋の机に向かうと、逆に家の中の生活音や外の話し声が気になっちゃって全然ダメだったけどな……。」
「一華は特殊だろう。高校生の頃だって自室に机があったのに、結局はリビングでばかり勉強していたからな。」
「だって、テレビの音が聞こえてきたり、ママやシンがキッチンで料理したりしている気配を感じる方が、すごく落ち着くんだもん。部屋が静かすぎると、かえって小さな物音に意識が持っていかれて集中できなくなっちゃうの。」
「龍輝がどちらのタイプかは未知数だが……当面はつきっきりで教える必要が生じる。だから場所の細かな条件は気にしなくてもいいだろう。」
「あ、なるほど。」
「ちなみに、机と椅子はどのようなものがいいんだ?」
「成長に合わせて高さを調整できる、こういうのがいいんじゃないかな?」
一華はスマートフォンを手にすると、龍輝の年齢に合わせた『幼稚園用机と椅子』を検索し、カラフルで愛らしいキッズテーブルのセットをシンの前に差し出した。
「おぅ、これはいいな。レイモンドも一緒に勉強できるし、そのうち愛麗やエレナも自然と机に向かうようになるだろう。」
シンはしばらく考え込んだあと口を開いた。
「よし、ここを『幼稚園』化しよう!」
「えっ、いきなり? どうやって?」
「まずは勉強コーナーを新設し、おもちゃコーナーを鍛錬コーナーと明確に区別する。思い立ったら即行動だ!」
シンは勢いよく立ち上がると、おもちゃコーナーの前へと歩みを進めた。
「えっ、今から作るの!?」
驚く一華をよそに、おもちゃコーナーに向けられたシンの手のひらから、魔力が静かに解放される。空間が一瞬だけ淡い光に包まれた後、金色の小さな光の粒がパラパラと散らばった。光の粒が触れると大人用のゲーム機は一瞬で姿を消し、散らばっていたおもちゃは一角にきれいにまとめられていく。
空いたスペースには、トランポリンやジャングルジム、ふかふかのマットが手際よく敷き詰められていく。さらに、その手前には、先ほど一華が見せた幼稚園用の机と椅子のセットが、温かみのある質感そのままに床へと具現化された。
部屋の隅のケージの中では、サンとゴンが静かにその様子を見守っている。ゴンは、ただ赤ちゃん猫たちが目を覚まさないことだけを祈るように、じっと丸くなっていた。
しかし、赤ちゃん猫たちがもぞもぞと動き出した。
「みゃみゃ……(シンちゃま、赤ちゃんたちが起きてしまったでちゅよぅ~)」
「悪い。母乳でも飲ませて寝かしつけてくれ!」
シンはゴンに文句を言われてしまったが、もぞもぞと動く赤ちゃん猫たちを横目に見ながらソファへと戻っていった。
環境が整うと、シンは開きっぱなしになっていたノートパソコンを引き寄せた。人間界のお受験事情をリサーチするため、通販サイト『Amzon』を開き、『小学校受験』に関する関連書籍を次々とカートに入れていく。
そのノートパソコンは、かつてレイモンドのためにシンが具現化したものだった。母親であるアーリンが画面を操作する姿にレイモンド自身は興味津々だったものの、まだ幼すぎる彼が自発的に触ることはなく、いつの間にかこうしてリビングのソファの定位置に収まっていたのだ。
新しい未来へと一歩を踏み出したリビングで、カチャカチャと響く心地よいキーボードの音が、穏やかな夜の時間を優しく彩っていた。




