第51話 家庭教師
かつて賑やかだったおもちゃコーナーは、『幼稚園』と化した特別な空間へと生まれ変わっていた。
本棚の一段には、これからの学習を見据えて一通り買い揃えられた真新しい文房具が整然と並んでいる。手に持つのが楽しくなる可愛い2Bの鉛筆、鉛筆以外の小物も収納できる引き出し付き斜め収納ペン立てが青と緑の二つ、手回し式のスケルトン鉛筆削り、キャラクターが描かれたケースの真っ白な消しゴム。さらには十二色の色鉛筆に、透明なプラスチック定規、そして子どもたちの自由な発想をどこまでも広げてくれるような、分厚くて真っ白な『らくがきノート』まで。小さな手でそれらを扱う光景を想像するだけで、部屋全体が優しい期待感に包まれる。
シンは本来の業務の合間を縫うようにして、龍輝とレイモンドの二人へ魔界文字の読み書きを教える日々を送っていた。小さな机に膝をつき合わせ、鉛筆の持ち方から文字の成り立ちまで、根気強く教え込む日々が続く。
◇◆◇
シンとレオナルドは事務所スペースの自席で『合同会社SINQ』のデスクワークを、一華とアーリンはソファで寛いでいたある日のこと。
一華が、ふとおもむろに口を開いた。
「ねぇ、ゴンちゃんって、魔界文字って書けるの?」
黒猫サン、そして四匹の子猫とベッドの上で丸くなっていた小さな白猫ゴンは、その言葉に耳をぴんと立てると、誇らしげに鳴いた。
「みゃみゃ……(もちろん、書けまちゅよ!)」
そう短く答えるやいなや、ゴンは子猫と一緒に眠るベッドからゆっくりと這い出た。
次の瞬間、その小さな身体が眩い光に包まれた。……とはいえ、変身も二回目。あの目が眩むほどだった初回の光に比べれば、今回は「そこそこ眩しい」という程度にとどまっていた。
――実のところ、初回の眩むほどの強烈な光は『みんなを驚かせたい』というゴンのちょっとしたお茶目な演出だったのだ。
光がすうっと引いていくと、そこには神聖な神衣装を身に纏った、プラチナブロンドの髪をなびかせる猫神様の姿があった。しかし、完璧な神としての神聖さを保ちつつも、頭の上のピコピコと動く小さな猫耳と、後ろでご機嫌そうに揺れるふっさふさのしっぽは、相変わらずそのまま残されたままである。
その愛らしくも神秘的な姿を目にした瞬間、龍輝とレイモンドの目が輝いた。
「ねこかみせんせい!」
二人は弾んだ声を上げ、突撃するかのような勢いでゴンへと駆け寄っていく。
ゴンは二人を見下ろしてドヤ顔を浮かべた。
「龍輝ちゃま、レイモンドちゃま、今日から『ゴンちゃん先生』と呼んでくだちゃい!」
「「ゴンちゃんせんせい!」」
元気よく声を揃える二人に、ゴンは実に満足そうに大きく頷いた。
「はい。今日からおふたりの先生になりまちゅ。」
「ゴンちゃん、シンの代わりに龍ちゃんとレイ君に魔界文字を教えてあげて!」
一華が手を合わせ、期待に満ちた目を向けてお願いすると、ゴンは小さな胸に右手を当て、これでもかと誇らしげに胸を張ってみせた。
「一華ちゃま、任せてくだちゃい。」
だが、その一連のやり取りを事務所スペースの自席から観察していたシンが、いかにも半信半疑といった様子で低く鋭い声をかけた。
「ゴン、お前……本当に字が書けるのか?」
「はい。天上界では書いてまちた。」
「なら、試しに書いてみろ。」
シンは疑念を拭いきれないまま、ペンと紙を手に取り、ソファへと近づきテーブルへと置いた。
ゴンはトコトコと可憐な足取りで歩くと、ソファにちょこんと腰掛け、迷いのない手つきでペンを走らせた。紙とペン先が触れ合うサラサラという心地よい音が響く。
紙面に現れたのは、一目で熟練者とわかる、見事なまでに流麗で美しく整った魔界文字だった。
「……天上界でも魔界文字を使用していたのか?」
シンが驚きを隠せない様子で尋ねると、ゴンはペンを置き、シンの顔を見上げた。
「いえ、天上界では天上界の文字を使ってまちたよ。」
「ん? ちなみに、和の国の文字も書けるのか?」
「もちろんでちゅ。神ちゃまでちゅからね、どこの国の文字だって書けまちゅよ!」
その言葉を聞いた瞬間、一華が不服そうに口を尖らせ、声を上げた。
「えーっ!? ゴンちゃんは教わらなくても最初から書けるの!? 同じ神の魂を持つ私なんて、自分の名前を覚えるのだけで精一杯だったのに!」
「わたちは子猫に変身する前は神ちゃまでちゅ。天上界ではどの世界の文字も理解してたでちゅ! それにね、一華ちゃま。魔界の文字は古代のラテン文字(アルファベット)がベースで英語みたいなものでちゅから、和の国の漢字に比べたら構造自体も超~カンタンでちゅよ!」
「えっ? そうなの? 私にはまったく別の謎の文字にしか見えないんだけど……!?」
頭の上に幾つもの疑問符を浮かべて首を傾げる一華に向け、ゴンは余裕たっぷりといった笑みを浮かべ、優しく包み込むように微笑んだ。
「ふふっ、和の国の文字に比べたら、魔界文字なんて超~カンタンです! なんせ漢字が存在しまちぇんからね。」
「なら話は早い。」
会話の流れをサッと自分のペースに引き戻したシンが、ゴンに向き直る。
「龍輝とレイモンドに文字を教えてやってくれ。……ついでに、数的思考力なんかも教えられるか?」
「なんでも教えられまちゅ……と言いたいところでちゅが、鍛錬は無理でちゅよ~。」
「鍛錬は俺たちでやる。子猫たちの授乳時間以外で家庭教師を頼めるか?」
「わかりまちた。……おやつで手を打ちまちょう。」
シンはニヤリと口角を上げた。
「家庭教師代と思えば安いものだな。いいだろう。ただし、一日一袋までだぞ。」
「むぅっ……仕方ないでちゅね。この素晴らしいボディラインを保つには、多少の制限も必要でちゅから……。」
ゴンはキュッと細い自分のウエストに手を当てると、自惚れを含んだ様子で再び誇らしげに胸を張った。
「ふっ、ではさっそく今日から頼む。」
シンが満足そうに頷いた、まさにその時だった。
「にゃにゃ……(ずるいにゃん! 俺も先生するにゃ!)」
子猫たちと一緒にベッドで丸くなっていた黒猫のサンが、むくっと起き上がった。ベッドをするりと抜け出すと、シンの足元まで寄ってきて見上げるように鳴き声を上げたのだ。
「サン、お前は人間の姿に変身できるのか?」
「にゃにゃ……(できるにゃ!)」
サンが意気揚々と答えるやいなや、ポンッ! と軽快でコミカルな音を立てて変身した。
薄い白煙が部屋の中に立ち込め、それが晴れたあとに現れたのは――なんと、人間の体にサンの猫の頭がそのまま乗っかった、いわゆる『猫人間』の姿だった。 変身の魔力で生成されたのか、その小柄な体にはぴったりとフィットした黒いジャージが纏われている。お尻のあたりからは、長くてしなやかな黒い尾がご機嫌そうにゆらゆらと覗いていた。
シンは微妙に眉をひそめ、呆れたような溜め息を漏らした。
「ふっ……それは『猫人間』とでも呼ぶべき姿か?」
「だめにゃんか?」
首をかしげるサンに、シンは肩をすくめる。
「まぁ、ゴンと大差ないから別に構わないが……サンは何を教えられるんだ?」
サンは黒いジャージの袖をたくし上げ、胸を張って言った。
「体育にゃん!」
「運動も大切でちゅからね!」
ゴンが上から目線で肯定する。
「ジャンプに着地、ダッシュ、柔軟、バランス感覚が得意にゃん!」
シンはフッと口元をゆるめ、納得したように頷いた。
「なるほど、まさに猫の独壇場だな。まぁ、たまにならやらせてみてもいいか。」
「俺にもおやつくれるにゃんか?」
シンはニヤリと口角を上げ笑う。
「ふっ、やはりそこが目的か! あぁ、サンにもやるさ。」
「にゃーん!」
シンからしっかりとおやつの約束を取り付けたサンは、満足そうに目を細めると、ポンッと音を立てて元の黒猫の姿へと戻った。そして子猫たちのお守りをするため、再びベッドの中へと満足そうに潜り込んでいったのだった。
それを見届けたゴンが、先生らしい威厳(?)を漂わせて二人の子どもに向き直る。
「では、龍輝ちゃま、レイモンドちゃま、おもちゃを片づけてくだちゃいな。」
「「はーい!」」
元気よく返事をした二人は、さっきまで散らかして遊んでいたおもちゃの片付けを始める。もっとも、龍輝がふわりと自らの浮遊の魔力を解放すると、床に転がっていたブロックやミニカーたちが宙に浮き上がり、吸い込まれるように次々と元あったおもちゃ箱へと戻っていった。魔力を使ったなんとも効率的なお片付けである。
部屋が綺麗に整うと、ゴンは部屋の壁を指差した。
「あ、シンちゃま、ここに黒板をつけてくだちゃい。」
「黒板か……。」
シンがどう具現化するか思案していると、横から一華がスマートフォンを取り出した。
「あ、こういうのどうかな?」
画面には『ホワイトボード 黒板』の検索画面が映し出されており、様々なタイプの商品が並んでいる。一華がそのうちの一つを指差してシンに見せた。
シンが目を閉じ、静かに魔力を解放する。
すると次の瞬間、一華が見せたスマートフォンの画像と全く同じものが、勉強コーナーの一角に突如として具現化された。
そこに現れたのは、移動しやすいキャスターが付いたスタイリッシュなボードだった。片面は通常のホワイトボード、もう片面は緑色の黒板風ボードになった両面仕様のものだ。
一華がその画面を見ながら説明を加える。
「これなら教室で使う黒板に似てるし、専用のマーカーを使うからチョークの粉も出ないらしいよ。」
「手も部屋も汚れないのは助かるな。少しサイズを変えて、本格的な教室にも設置したいくらいだ。」
感心したように頷くシンだったが、一華はふと現実的な懸念を口にした。
「でも、専用のマーカーってコストがかかりそうなんだよね。ランニングコストは抑えないと……。」
「それはそうだ。利益を生むわけじゃないからな。」
シンは深く頷くと、間髪入れずに魔力を再び集中させた。
黒板風ボードの脚元に、専用のイレーザー(ボード消し)、全色が揃った専用マーカーのセット、そして交換用の替え芯が山のようにまとめて具現化された。
それらをまじまじと見つめていた一華は、ハッと気づいたように目を見開いた。
「……あ、シンがいくらでも具現化できるんだから、コストなんて心配する必要なかったじゃん。」
自分の間抜けさに苦笑する一華に、シンはフッと口角を上げた。
「ふっ、ならゴンが試してみて問題がなければ正式採用だな。……他に必要なものはあるか?」
ゴンはちょこんと首を傾げ、人差し指をアゴに当てて考えた。
「そうでちゅね……英字練習用のような、罫線入りのプリントを作成してくだちゃい。四線のガイド線が入って、赤い基準線があるものがいいでちゅね。」
「分かった。」
シンは自席へと戻り、パソコンに向かった。素早い手つきで表計算ソフトを立ち上げ、行の高さを微調整しながら美しい四線をデザインしていく。三段目に鮮やかな赤い基準線を配置し、バランスを整えて印刷ボタンを押した。
ウィーンと微かなモーター音を立ててプリンターが稼働する。事務所スペースでパソコンに向かっていたレオナルドがスッと立ち上がり、吐き出された印刷用紙を手に取ると、そのままシンに手渡した。 シンは近寄ってきたゴンにその用紙を差し出す。
ゴンはプリントを覗き込み、うーん……と唸った。
「うー……、もう少し、大きくしてくだちゃい。子どもたちにはちっちゃすぎまちゅ。」
「こうか?」
シンはすぐにパソコン画面に向かい、行の高さをグッと広げた。A4サイズの用紙いっぱいに太い四線を大きく二段分レイアウトし、再度印刷を実行した。
今度はゴンがプリンターから直接用紙を手にして確かめる。
「あぁ、いいでちゅね! これをたくさん印刷してくだちゃい。」
「あぁ。」
シンは言われるがまま、大量に印刷していく。ウィーン、ウィーンと機械音が室内を満たし、大量のプリントが次々と吐き出されていく。途中で「ピピピ」と用紙切れのアラーム音が部屋に鳴り響くと、レオナルドが手際よく新しい用紙を補充し、さらに印刷を重ねていった。
十分にプリントが印刷されると、ゴンはそのうちの一枚を手に取った。
机から黒のサインペンを持ち、基本となる記念すべき一文字目のお手本を、迷いのない筆致で丁寧に書き込んでいく。
その文字は、先ほどシンに見せたものと同様、流麗でありながらも子どもが真似しやすい美しいバランスを保っていた。
ゴンはマグネットを手に取ると、お手本プリントを黒板風ボードの右端にペタリと貼り付けた。そして、期待に胸を膨らませている龍輝とレイモンドを「こちらへおいで」と手招きする。
「龍輝ちゃま、レイモンドちゃま、ここに座ってくだちゃい。」
二人はウキウキとした足取りで黒板の前に設置されているテーブルとセットの小さな椅子へと腰掛けた。
ゴンは専用マーカーを握りしめ、黒板風ボードに大きく文字を書きながら、声を出して書き順を教え始めた。
「まず、アルファベットの『A』を書くみたいに、赤い線の所から上に向けてお山を描きまちゅ……次に、赤い線のところでくるんと右下に丸を描くように丸めて……最後に真ん中に横線を一本引いて、はい! これで『A』に似た魔界文字の一文字目になりまちゅよ!」
「わぁ、ゴンちゃん先生すごい!」
黒板の上に描き出されたのは、英字の『A』を筆記体にしたような、どこか神秘的で流麗なフォルムの文字だった。
ゴンはシンが大量に印刷した四線入りのプリントを二人に配り、真新しい2Bの鉛筆を手渡した。
「さぁ、このお手本をよく見て、鉛筆で真似して書いてみてくだちゃいね。」
「僕も書くー!」
二人は目をキラキラと輝かせながらプリントに向き合った。小さな手で真新しい2Bの鉛筆をぎゅっと握りしめ、黒板のお手本と手元のプリントを交互にじっと見つめる。そして、真剣な表情で罫線の上にへろへろと弱々しい、それでも、一生懸命に文字を見よう見まねで書き始めた。
「龍輝ちゃま、とても上手でちゅよ! レイモンドちゃまも、線の止めが素晴らしいでちゅ!」
ゴンは二人の間をトコトコと往復しながら、時に頭を撫で、時に優しく手を添えて指導を続けていく。その姿はどこからどう見ても、立派で頼もしい『先生』そのものだった。
先生役のゴンに向かい合い、仲良く並んで座りながら勉強に励む二人の背中を見届け、シンとレオナルドは静かに事務所スペースの自席へと戻っていった。
「さて、俺たちも仕事を片付けるか。」
「えぇ、この書類の山を今日中に終わらせましょう。」
二人は残っていた書類業務を再開し、ペンを走らせる音とパソコンのタイピング音が心地よく部屋に響き始めた。
一方、一華は自分の学習帳を開き、魔界文字の練習を続けていた。すでに自分の名前くらいは問題なく読み書きできるようになっていたのだが、ソファに座る一華の位置から見えるゴンちゃん先生の教え方が面白いのか、あるいは子どもたちの熱量に触発されたのか、子どもたちと一緒に真剣な面持ちでペンを走らせていた。
「えっと……ここはこう曲がって……あ、書けた!」
一華が小さく歓声を上げると、ゴンが「一華ちゃまも大変良くできましたでちゅ!」と褒めちぎり、部屋の中に和やかな笑い声が弾けた。
そんな賑やかで、どこまでも微笑ましい光景をそっと見守っていたアーリンは、静かな足取りでキッチンへと向かった。
カチャッとマグカップが触れ合う心地よい音のあと、冷たいお茶がコポコポと注がれていく。アーリンは淹れたてのお茶をトレーに乗せ、書類に向き合うシンとレオナルド、そして楽しそうにペンを握る一華のもとへと、静かに配って回るのだった。
かつてのおもちゃコーナーでは、家庭教師による、賑やかなお勉強の時間がはじまった。




