第45話 教科書選定【後編】
その日の夕方、業務を終えたシンは早速行動を開始した。
リビングのおもちゃコーナーの一角の壁際に真新しい大きな本棚を二基、具現化して設置した。
シンはダンボール箱のテープを剥がし、一冊一冊表紙を確認しながら、学年ごとに並べ始めた。
本棚の一番上の棚には中学三年生用の教科書や副読本、問題集。続いて二年生、一年生と下へ向かって並べていく。
几帳面なシンの作業により、教科ごとに並べられていく。
そして最後に、小学一年生用の教科書へと手を伸ばした。
シンは小学一年生用の教科書だけは本棚へ納めず、手に持ったままソファ前のローテーブルへと運んだ。
シンは一華の隣に腰を下ろし、国語の教科書の表紙を静かにめくる。
「ほう……小学生用の教科書は、どの会社も『上・下』と複数冊に分かれているのだな。一年間で学ぶ量をなぜ一冊にまとめない?」
「あ、それはね、毎日子供たちがランドセルに入れて学校へ持ち運ぶからだよ。一冊にまとめちゃうと分厚くて重くなりすぎるでしょ?」
「ランドセル?」
聞き慣れない単語に、シンが不審そうに首を傾げた。
一華は自分のスマートフォンを取り出し、『ランドセル』と検索して色鮮やかな革製の通学鞄の画像をシンに見せた。
「あぁ! これか。人間界のテレビCMでたまに見かけるな。背中に背負う箱のような鞄か!」
「そうそう。これに教科書、ノート、筆記用具、給食袋、体操服なんかを全部詰めて、小さな小学生が毎日家と学校を往復するんだよ? 小さい体にはすごい負担でしょ。だから少しでも本を薄くして、軽くするために学期ごとに分けてあるんだと思う。」
シンは腕を組み、深く頷いた。
「なるほどな……素晴らしい配慮だが、魔界の子供たちには甘えかもしれん。魔界では一年分の教科書を一冊に分厚くまとめ、それを重いランドセルに詰めて往復させれば、毎日の登下校が良い筋力トレーニングと魔力制御の鍛錬になるのではないか?」
一華は目を丸くして叫んだ。
「シンは鬼なの!?」
「鬼だと……? なぜだ?」
「だって! 龍ちゃんや魔界の小さい子供たちが、重いランドセルを背負って毎日通うことに抵抗はないの!?」
「龍輝がそんな程度の重さで苦しむと思うか? 一華、忘れたのか。龍輝はあの巨大で超高密度な『五つの宝玉』でさえ、自力で浮遊させて家に持ち帰ってきたのだぞ。」
「あ……そうだった……。龍ちゃんにとっては、物理的な重さなんて鍛錬になりようが無かったんだ……。」
一華はガクッと肩を落とした。我が子の規格外なスペックを忘れていた。
「そういうことだ。だが、魔界の一般庶民の子供たちなら、なおさら幼少期からの肉体鍛錬が必要だろう?」
「うーん、でもレイ君はどうかな……? レイ君はまだ魔力も使えないし、持てるかな?」
一華が心配そうに視線を向けた先では、三歳になったレイモンドが不安そうにこちらを見ていた。
シンは一華が見せてくれたスマートフォンの画像をじっくり観察すると、右手を静かに掲げ、空間に漆黒の上質な革で作られた、頑丈な本物のランドセルを具現化した。
シンはそこに、テーブルの上にあった教科書や副教材などを容赦なくぎっしりと詰め込んだ。米袋5キロの重さを優に超えている。
「レイモンド、ちょっと試してみろ!」
シンがズシリと重いランドセルを掲げ、おもちゃコーナーからトコトコと駆け寄ってきたレイモンドの小さな背中に背負わせた。
三歳のレイモンドの小さな身体では、ランドセルがお尻まで完全に覆い隠してしまう。
「うっ……ぐ……お、おもい……っ!」
レイモンドは背中からひっくり返りそうになるのをぐっとこらえ前かがみになると、逆に押しつぶされそうで床に手をつきそうになる。
「レイ君! 大丈夫!?」
一華が慌てて支えようとしたが、シンが制した。シンはすぐにランドセルを掲げて下ろしてやった。
レイモンドは呼吸を荒らげながらも、泣かずにシンを見上げている。
「レイモンド。まだ三歳とはいえ、背筋の筋力が足りず、骨格が出来上がっていないな。あと三年で、この重量に耐えうる体幹を鍛えなければダメだぞ!」
シンの真剣な眼差しに、レイモンドは「うん!」と真面目にコクンと深く頷いた。
するとそこへ、「ぼくもー! ぼくもやるー!」と待ってましたと言わんばかりに、龍輝が目を輝かせて元気よく駆け寄ってきた。
「いいか龍輝、魔力で身体能力を強化するなよ。素の筋力だけで立ってみろ。」
「うん!」
龍輝は元気よく頷くと、魔力の解放を完全にオフにした。
シンは容赦なく、教科書がぎっしり詰まった激重ランドセルを龍輝の背中に背負わせた。
その瞬間、ズシッ……!! と肩にのしかかる凄まじい物理的な重量。
「うぅっ……! お、おもいー……っ!」
さすがの龍輝も、一瞬だけ膝がガクッと折れかける。しかし、そこは魔王の血を引く龍輝である。可愛い顔を歪ませながら足を踏みしめると、小さな体をプルプルと震わせながらも、見事に自力でしっかりと立ち上がってみせた。
三歳のレイモンドが一瞬で潰れそうになっていた重量を、純粋な筋肉と骨格だけで持ち耐える姿に、一華は驚愕した。
「すごい……龍ちゃん、本当に立ってる……。」
「よし、龍輝。次はそのまま、背負ったランドセルだけに微弱な『浮遊魔力』を作用させ、重量を徐々にコントロールしていけ。背中に感じる重さをゼロにするんだ!」
シンの高度な技術指導が入る。
龍輝は目を限界まで見開き、集中した。ランドセル全体を浮かせて飛ばすのではなく、身につけた装備品の『重量感覚』だけを削り取っていく魔力制御。
限界まで前に傾いていた龍輝の小さな体が、少しずつ、まっすぐに戻っていく――。
やがて、龍輝の表情から苦悶が消えた。まるで羽毛でできたランドセルを背負っているかのように、軽々と背筋を伸ばす。
「どうだ?」
「すごーい! ぜんぜんおもくない! からっぽみたい!」
「そのまま、走れるか?」
龍輝は弾けるような笑顔を見せると、「ワーイ!」とおもちゃコーナーの周りを元気いっぱいに疾走し始めた。くるくると楽しそうに走り回る。
「えっ? 龍ちゃん、本当に重くないの? 私が持ってもズッシリくるのに……?」
「うん! ぜんぜんおもくないよ! かるいよ!」
走り回っていた龍輝はピタリと足を止めると、まだ息を弾ませながら不安そうに立っていたレイモンドのもとへ駆け寄り、その小さな肩をポンと叩いた。
「レイちゃん! これね、まりょくでふわーってやるとすっごくかるくなるんだよ! レイちゃんも大きくなったらぜったいにできるようになるからね!」
「うん……! ぼく、れんしゅうする……!」
レイモンドは龍輝の言葉にぱっと表情を明るくし、小さな拳をギュッと握りしめた。
シンは満足そうに深く頷いた。
「よし。浮遊の魔力を早期に覚醒・制御させるための教材として、ランドセルは非常に優秀だな。覚醒できていない者にとっても、基礎体力を培う良いハンデとなる!」
シンは走り回る龍輝からランドセルを回収して消去すると、再びテーブルの上の教科書に視線を戻した。
シンの手でランドセルが消されると、龍輝から「あーぁ」と声が漏れた。
◇◆◇
「さて、教科書の中身だが……国語や算数は魔界の知識に置き換えれば問題ない。魔界文字には和の国のような漢字やカタカナの区別がなく、どちらかといえば英語に近いアルファベット構造をしているからな。和の国の文字(漢字)の練習は、この『シン華の家』で龍輝たちに個別に教えるとして……問題はこの『音楽』だな。」
ふたたびソファに腰を下ろしたシンが眉をひそめてめくっていたのは、小学校の音楽の教科書だった。五線譜と音符が綺麗に並んでいる。
一華が身を乗り出して覗き込んだ。
「音楽? 魔界の音楽って……もしかして、お城の宮廷楽団が演奏するような格調高いクラシックみたいなものしかないの?」
シンはふむと腕を組んだ。
「あぁ。人間界のように、日常的に街中のショップやテレビからポップスが流れるような文化は存在しない。音楽とは貴族や王族が式典で嗜むものであり、庶民には馴染みが薄い。」
「じゃあ、一般の子供たちや庶民の人たちは、楽譜って読めないのかな?」
「読む必要がないから読めないな。教える教師すら存在しない。よって帝王教育のカリキュラムにも含まれていない。」
「それなら、最初は複雑な楽器演奏や楽譜の読み方はナシにして、歌詞のところだけ魔界文字に書き換えて、曲は宮廷楽団にお願いして音源を作ってもらったら? 歌うだけにするとか!」
シンはソファの対面に座って作業を見守っていた二人に視線を向けた。
「レオナルド、アーリン。お前たちはどうだ? 楽譜は読めるか?」
「……恥ずかしながら」とアーリンが申し訳なさそうに頭を下げた。
「子守歌や伝承歌などは親から口頭で耳コピーして覚えますが、楽譜を見て演奏した経験はございません。」
レオナルドも苦笑いを浮かべながら言葉を重ねる。
「宮殿の従者の中でも、式典で金管楽器のファンファーレを担当する特別な兵士などは、先代の指導者から直接音と指使いを教わるようです。」
「……なるほど。では魔界での音楽の授業での『楽器演奏』は全面カットだな。歌唱程度に留めておくとしよう。」
一華はパラパラと音楽の教科書をめくりながら、掲載されている童謡や合唱曲のページで手を止めた。
「歌といえば……和の国の有名な童謡って、そのまま魔界文字に直して歌わせても大丈夫かな? 例えば『チューリップ』の『咲いた 咲いた』とか、『かえるの合唱』の『ゲロゲロゲロ』とか……親しみやすくて良いと思うんだけど……。」
シンは少し考えてから、真面目な顔で首を横に振った。
「直訳は非常に危険だ。」
「えっ? なんで?」
「『ゲロ』という音節は、魔界に伝わる暴食の魔王『GeRo』の真名だ。教室で無邪気な子供たちが大合唱で『ゲロゲロゲロ』と連呼してみろ。その音霊の共鳴により、教室の床に自動的に幾何学模様の召喚陣が浮き上がり、暴食の魔王が召喚されてしまうぞ。」
「えぇぇぇぇっ!? かえるの歌で魔王が召喚されちゃうの!?」
一華は悲鳴を上げた。しかし、すぐに思い直したように食い下がる。
「じゃ、じゃあ後ろの『クワッ、クワッ、クワッ』の部分は!? そこなら大丈夫でしょ!?」
「なお悪い。」
シンは一切の冗談を排した真剣な顔で即答した。
「『クワッ』はかつて古代にいたとされる妖魔の真名『クワ=グラ』のニックネームだ。『ゲロ』で暴食の魔王を呼び出し、『クワッ』で妖魔まで呼び出すことになる。その教室では宴が始まってしまう……。」
「完全に宴会の歌じゃないの……っ!」
一華は頭を抱えた。
「『どんぐりころころ』も別の意味で大変な歌ですね。」と、ここでレオナルドが神妙な顔で補足を入れた。
「魔界において『どんぐり』に酷似した発音の単語は『いたずら小悪魔(ドング=リ)』を指します。『どんぐりがころころ転がって、ドジョウにはまってさあ大変』という歌詞を魔界語に直訳すると、『小悪魔がころころ滑ってドジョウの巣穴につまり、出られなくなって大泣きし、周りの魔物がなだめるのに大わらわ』という、ドタバタ幼稚園のような可愛らしいトラブルの歌になってしまいます。」
「どんぐりころころがドタバタ幼稚園の歌……!?」
一華は遠い目をして、深く深〜くため息をついた。
「翻訳……めちゃくちゃ慎重にやらないと、大変なことになりそうだね……。」




