第44話 教科書選定【前編】
龍輝のための学校建設を打ち明けたその日の深夜、シンは、和の国の総理大臣に向けて久しぶりのテレパシーを繋いでいた。
――《頼みがある》
「……っ!?」
冷徹で低い声が頭に直接響いた瞬間、総理大臣はベッドの上で飛び起きた。冷や汗を流しながら震える声で返事をする。
「……一体何のご用件でしょうか?」
――《公立・私立を問わず、小中学生が使用する検定済教科書や副教材、テスト問題など、すべての教材を集めてくれ》
淡々とした、しかし絶対的な拒絶を許さない声が脳内で響く。
総理大臣は一瞬、耳を疑った。あまりにも思いがけない要求に、思考が一瞬フリーズする。
「教科書や……教材、ですか? しかし、和の国の教育現場で採用されている検定済教科書や副教材は、同じ学年であっても発行する出版社ごとに数種類は存在します。それらすべての種類が必要ということでしょうか……?」
――《あぁ、そうだ。内容を確認したい》
「内容の確認……わかりました。少々お時間をいただくものもあるかもしれませんが……よろしいでしょうか?」
――《とりあえず、手元にあるものをすぐに送ってくれ。急ぎだ》
シンはそれだけを一方的に告げると、応答を待つことなく通信の魔力を断ち切った。
「久しぶりの依頼が、今度は小中学生用の教科書だと……? 宇宙人は一体、何を考えているんだ……?」
脳内に満ちていた圧倒的な圧迫感が潮が引くように消え去り、部屋には再び静まり返った暗闇だけが残された。
総理大臣は頭を抱えた。
久しぶりの直接的な接触。世界を震撼させるような兵器の開発指示でもなく、大規模な資源の要求でもない。
「小中学生用の教科書と教材の全種類収集……? 宇宙人は一体、何を考えているんだ……? 奴らの母星で、和の国の教育システムを研究して何に利用する気だ……?」
暗闇の自室で、総理大臣は答えの出るはずもない恐ろしい推測を頭の中で延々と巡らせながら、明け方まで浅い眠りと悪夢を行き来するのだった。
◇◆◇
翌朝、総理官邸の総理執務室の奥には、緊急で呼び出された文部科学大臣の姿があった。
総理大臣は側近をすべて部屋の外へ退去させ、完全な密室を作ると、重々しい口調で昨夜の出来事を切り出した。
「――というわけだ。『宇宙人』からのメッセージだ。小中学校で使われているすべての検定済教科書、副教材、ドリル、さらにはテスト問題に至るまで、全種類を至急収集しろとのことだ……。」
文部科学大臣は開いた口が塞がらないといった表情で、総理の顔を凝視した。
「な、なんですと……!? 全種類の教科書や教材を、ですか……!? 政治や経済だけでなく、次は我が国の基礎教育にまでメスを入れようと言うのでしょうか!?」
「うむ……わからぬ。ただ、奴は『内容を確認したい』と言っていた。……文科省として、現在の教科書の内容に何か致命的な問題や、奴らを不快にさせるような記述が存在すると思うか?」
文部科学大臣は額の汗をハンカチで拭いながら、激しく首を横に振った。
「い、いいえ! 現在採用されている検定済教科書は、学習指導要領に基づき厳重な審議を経て出版されているものです。大きな問題があるとは到底思えません!」
「では何故だ……。あいつに『子ども』が生まれたとでもいうのか?」
総理のその言葉に、文部科学大臣はハッと目を見開いた。
「子ども……! そうか、人間界の学校に通わせられない深刻な事情があり、独自の教育施設で和の国の知見を徹底的に叩き込もうとしているのでは……!?」
「通学されても困るからな。現場の学校に宇宙人の子どもが通うなどということになれば、パニックどころの話ではない。……ともかく、理由はどうあれ要求を拒む選択肢はない。全種類の検定済教科書から副教材に至るまで速やかに収集し、秘密裏に『別班』経由で彼らの指定ルートへ届けろ。」
文部科学大臣は一瞬息をのんだ。
「『別班』まで……! 防衛省の闇組織まで動かすとおっしゃるのですか……!」
「それほどの事態だということだ。一刻も早く手配しろ。」
「は、はいっ! すぐに文科省の総力を挙げて手配いたします!」
文部科学大臣は深々と一礼すると、青ざめた顔で執務室を飛び出し、外で待機させていた側近を引き連れて大急ぎで本省へと戻っていった。
◇◆◇
数日後の昼下がり。
郊外の住宅地の一角にひっそりと佇む『合同会社SINQ』の巨大倉庫。その広大な敷地に、激しいエンジン音とともに三台の大型トレーラーが滑り込んできた。
トレーラーの荷台にはそれぞれ『冷凍』『冷蔵』『常温』と書かれた巨大なコンテナが設置されている。
熟練のドライバーたちは車から降りるや否や、指示された位置へ手際よくコンテナ部分を切り離し、空のコンテナをトラクターヘッドで牽引して静かに走り去っていった。一般企業の物流作業に見えるが、彼らはすべて政府の特殊機関から派遣されたものたちであった。
トレーラーが去ったことを確認すると、倉庫の陰からシンとレオナルドが姿を現した。
シンは巨大な倉庫の頑丈なシャッターを魔力で一括ロックし、周囲に音と視線を遮断する結界を張る。
「では、作業を始めましょうか、シン様。」
「あぁ。今回も量が多い。手早く済ませるぞ」
倉庫の頑丈な扉をしっかりと締め、二人は常温、冷蔵、冷凍コンテナの重厚なロックを外した。
観音開きの扉が開かれると、中には人間界の協力業者や政府ルートから買い付けた食料品、生活雑貨、資材などが隙間なくびっしりと積み上げられていた。
シンとレオナルドは、人間界のパッケージラベルに貼られた和の国の品名や注意書きを、指先から放つ微細な魔力で次々と『魔界文字』へと書き換えていく。一瞬で文字が書き換わる光景は職人芸の域に達していた。
それらを配送先ごとのコンテナに手際よく仕分け、魔界で絶大な人気を誇る巨大商業施設『SINQstore』へとテレポートで送り込んでいく。
魔界の『SINQstore』へ送り込まれた配送コンテナは、領地ごとの配送担当者たちの手によって次々と各領地で待つ領主の元へと配送されていく。
その作業の最後、常温コンテナの奥深く、見慣れない無地のダンボール箱が二十箱以上高く積み上げられているのが見えた。シンは透視の魔力を解放し中身を確認する。
「シン様、これは……」
「総理大臣に手配させた教科書と教材だな。文科省が本気を出したらしい。相当な量だな。」
シンは積み上げられた箱の山を一瞥すると、人さし指をすっと持ち上げた。
「一足先に、これらは『シン華の家』のリビングへと直接転送する。レオナルド、後片付けが終わったら我々も戻るぞ。」
「かしこまりました。」
シンの指先が妖しく光ると、二十箱以上のダンボールが一瞬でその場から消失した。
◇◆◇
その頃――倉庫の隣の敷地に建つ『シン華の家』のリビングでは、恐ろしいほどの空間の歪みが発生していた。
「……えっ!? なに、なに!?」
リビングのソファで寛いでいたシンの妻・一華が飛び起きた。
何もない空中に突如として漆黒の空間の裂け目が現れ、そこからズシリと重そうな無地のダンボール箱が、次々と床に向かって滑り落ちてきたのだ。
ドスン! ドスン! ドスン!
箱はまるで生き物のように整然と積み重なっていく。 その異常事態を、残されていた一華だけでなく、アーリン、幼い息子の龍輝、そしてレイモンドが呆然と見つめていた。さらに、足元では飼い猫のサンとゴン、そして最近生まれたばかりでようやく薄目を開けたばかりの赤ちゃん猫四匹までもが、首を傾げて箱の山を見つめている。
リビングの空きスペースから、子供たちのおもちゃコーナーにかけて、あっという間に二十箱以上の段ボールが壁のようにそびえ立った。
何が起きているのか理解できず、まるで部屋全体の時が止まったかのように全員が固まっていた。
そこへ、シンとレオナルドが何事もない顔でリビングへ入ってくる。
「どうしたのだ? 全員で固まって。」
あまりの静けさに、シンが不思議そうに首を傾げながら声をかけた。
「どうしたのだ、じゃないよシン! 急に……部屋の真ん中にこの怪しい箱の山が現れたからビックリしたんだよ!」
一華がようやく硬直を解き、胸を押さえながら叫んだ。
「にゃにゃーっ!……(びっくりしたにゃ! これは絶対、俺たちへの高級おやつのプレゼントに違いないにゃ!)」
期待に目を輝かせる黒猫のサンが興奮気味に声をあげ、ダンボールの周りをグルグルと回り始める。
「あぁ、悪い。俺だ。量がかなり多かったから、先に転送しておいたんだ。」
「にゃんにゃ……(なんだ、シンだったにゃんか……おやつじゃないにゃん……。)」
サンは一瞬で期待を裏切られたことを悟り、耳をパタンと折りたたんでトボトボとベッドへと戻っていった。
一華は積み上がった箱に近づき、側面を撫でてみた。
「……で、これ何が入っているの? ダンボールに何の印刷もないけど。」
「小中学生用の検定済教科書や副教材、各種ドリルだ。総理大臣に命じて集めさせた。」
「えっ……教科書!? こんなに……? 龍ちゃんが学校に行く年齢になるのは、まだ三年以上先だよ?」
「あぁ。この中から魔界の学校で採用する教科書を厳選・決定し、内容を魔界の文化や倫理観に合わせて修正、魔界用として再編纂する。」
一華は唖然として箱の山とシンの顔を交互に見た。
「……もしかして、この何冊もある教材の全部に目を通すの……?」
「ま、そういうことになるな。内容を把握せねば選定も翻訳もできん。」
「……」
魔界に学校を建てるという壮大な計画を決意したところまでは素晴らしいと思っていた一華だったが、まさか教育課程の策定や教科書の選定・編集という地道すぎる作業から自分たちで手掛けるとは思っておらず、返す言葉を失ってしまった。
シンは唖然とする家族を余所に、「本日納品された商品代金の振り込み作業がある。」と言って自席のパソコンに向かい、カタカタとキーボードを叩き始めた。




