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シン華物語Ⅱ(最強魔王は誰?)  作者: ゆず華


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第39話 小さな冒険【前編】

ドラゴンの卵を無事に返却した翌日の朝。

窓の外からは柔らかな陽光が差し込み、『シン華の家』のリビングを優しく、穏やかな温もりで包み込んでいた。


リビングの隅では、愛麗がスヤスヤと規則正しい寝息を立てており、この上なく平和な時間が流れている。


そんな、穏やかで気だるさすら覚える朝の空気を完全に切り裂くように、一際元気で張りのある幼い声がリビングに響き渡った。


「じぃじのところ、いってくるー!」


龍輝は小さな両手を大きく振ると、弾けるような満面の笑みを浮かべ、ペタペタと床を蹴る軽い足音を立てながら、リビングの外へと元気いっぱいに駆けだしていった。


その幼い足音を背後で聞いたお守り役の黒猫――サンは、どこか遠い目をして「聞いてにゃいにゃん……」と呆れたような、しかし仕方のないことだと諦めたような低い声を小さく漏らした。


それでも、ハオから厳命されて龍輝の護衛役を任されている以上、主をたった一人放っておくわけにはいかない。サンは慌ててパタパタと短い足を動かし、その後を追うように廊下へと飛び出した。


「えっ?」


キッチンで朝食の食器を片づけていた一華とシンは、ほぼ同時にピタリと動きを止め、声のした方へと顔を向けた。

しかし、すでにそこに龍輝の姿はなく、ただパタパタとかわいらしい足音だけが、広い廊下の向こうへと遠ざかっていくだけだった。


「聞いてた?」


一華は、白い泡のついた食器を洗い続けながら、すぐ隣に立つシンを見上げた。大きな瞳には、少しばかりの驚きと、どこか呑気な困惑の色が浮かんでいる。


「いや……今日の予定には、確かそんなものは入っていなかったはずだが……。」


シンは少し首を傾げ、丁寧に食器を拭く手を止めずに、今朝のスケジュールやこれまでの記憶を懸命にたどる。しかし、龍輝がじぃじ――魔王ハオの宮殿へ行くという予定はどこにも存在しなかった。


「もしかして、パパと龍ちゃんの秘密の約束かなぁ?」


一華はふっと柔らかく、すべてを受け入れるような優しい微笑みを浮かべると、手についた泡をシャワーの水で綺麗に洗い流した。


「まぁ、自由に往来できるようペンダントも頂いているんだから、問題ないだろう。」


一華とシンは、接続ゲートで繋がっている魔界の宮殿へ行くことを、お隣の家へ遊びに行くというよりも、広大な一つの大きなお屋敷のあちらとこちらを行き来する程度の、非常に気軽なものとして捉えていた。

そのため、この時点ではまだ、二人はそこまで深く心配していなかったのだ。


それがまさか、宮殿全体を巻き込み、全軍が出動するほどの前代未聞の大騒動に発展しようとは、この時の二人はまだ夢にも思っていなかった。



◇◆◇



その頃、勢いよくリビングを駆けだしていった龍輝は、人間界と魔界を繋ぐ接続ゲートのドアノブへと小さな手を伸ばし、それをガチャッと小気味よい音を立てて下げると、全体重をかけて勢いよく押し開けた。


扉の向こうからは、いつも我が家で感じている暖かな空気とは全く異なる、荘厳でどこかひんやりとした魔界特有の空気が流れ出し、龍輝のまだ柔らかい肌を心地よく撫でた。


そのまま『シン華の間』へと元気いっぱいに足を踏み入れた龍輝の背中を追うように、サンもすかさず滑り込むようにして部屋に入ってきた。


完全に小さな体を『シン華の間』へと移した龍輝は、背伸びをして小さな体を精一杯伸ばし、飾り戸棚に手をかけた。そして、自分の背丈を遥かに超す重い扉に全体重をかけ、しっかりと元の位置へと押し戻す。


「にゃにゃん……(じぃじのところに行くって、聞いてなかったにゃん。一人で勝手に行くのはルール違反にゃんよ……。)」


サンが不満そうにしっぽをパタパタと左右に大きく揺らすと、龍輝は小さな唇の前で右の人差し指をピンと立ててみせた。


「しー。」


続いて、コソコソとした、誰にも聞かれたくないような、秘密を共有する時の小さな声で囁く。


「サンちゃん、ペガサスになって。」


その突拍子もない、しかしいつものように無邪気で有無を言わせぬリクエストに、サンは少しだけ大きな、人間のようなため息をついた。

仕方がないと言わんばかりにしっぽを脱力させると、次の瞬間、黒猫の全身がまばゆい神秘的な光に包まれていく。光が収まると、そこには真っ白で美しい翼を持つ巨大なペガサスへと見事に変貌を遂げたサンが、静かに姿を現した。


龍輝は、日頃から使いこなしている浮遊の魔力をふわりと自身の小さな体に纏い、その体をふわりと宙に浮かばせた。そして、ペガサス・サンの広くて温かな背中へと、軽やかに跨ったのだ。


そしてそのまま、龍輝とサンはテレポートの淡い光の粒子に包まれ、『シン華の間』の空間から綺麗にその姿を消した。


二人が目指すのは、ハオのいる執務室――などではなかった。もっと遠く、誰も予想もしない場所だった。



◇◆◇



『シン華の間』での突飛な出来事を知る由もない人間界の『シン華の家』のリビングでは、一華がハオとアズサに向けて、スマートフォンからのんびりとメッセージを送っていた。


<龍ちゃんが、じぃじのところ、いってくるーって向かったよ!>


メッセージを送ってから数秒の沈黙のあと、すぐにアズサからいつも通りに落ち着いたトーンの返信が届いた。


<わかったわ>


アズサからの簡潔な返信を確認した一華は、近くでスヤスヤと平和な寝息を立てて眠る愛麗のお守りに再び意識を向けた。

シンも自分の朝の仕事へと静かに取りかかり、リビングには再び穏やかで静かな時間が戻った。


少し遅れて、レオナルド一家が揃って『シン華の家』に出勤してきた。しかし、一華から「龍輝が魔界へ遊びに行った」と聞かされると、レイモンドは途端に寂しそうな、シュンとした子犬のような表情を浮かべた。

サンまでおらず、一緒に遊んでくれる相手がいないのだとわかり、がっくりと大きな肩を落としてしまう。


一方、今日の買い出し担当であるアーリンは、娘のエレナを一華へ預けると、レオナルドと一緒に小型トラックSINQ(シンカ)号に乗り込み、街の郊外にある巨大な倉庫型スーパーへと元気に買い出しに出掛けて行った。



◇◆◇



――その頃、魔界の宮殿。


一華からのメッセージを受け取っていたハオは、すぐに従者の一人を呼び出して「龍輝がこちらに向かっているはずだ、迎えに行くように。」と命じていた。

しかし、その指示を出してからわずか数分後。ハオの執務室のドアが、壊れんばかりの凄まじい勢いでノックされた。


「入れ」


ハオが不審に思いつつも、低く短く声をかけると、バンッと乱暴に扉が開き、そこに飛び込んできたのは、普段の冷静さが嘘のように慌てふためいた様子の若い側近・ジョヴァンニだった。彼は完全に青ざめた顔で、額から冷や汗を流している。


「魔王様! 大変です! 宮殿のあらゆる場所をくまなく探しましたが、龍輝様の姿がどこにも見当たりません!」


「なんだと?」


ハオの整った眉間がピクリと鋭く動いた。執務室の空気がわずかにピリリと緊張を帯びる。

直後、もう一人の従者――以前、龍輝の遊び相手をしてすっかり懐かれていた子持ちの側近・ラルフも、激しく息を切らせてバタバタと部屋に駆け込んできた。


「し、しつれいします! 宮殿の門番全員に確認を取りましたが、龍輝様が正面の門から外へと出て行った形跡は一切ありません! それに……サン様の姿も、城内のどこにも見当たりません!」


ハオの瞳がわずかに、しかしはっきりと見開かれた。

魔界の宮殿において、魔王族の血を引く小さな子どもが、まるで神隠しにあったかのように忽然と消えるなど、魔力的にも物理的にも本来は絶対にあり得ないことだった。宮殿全体には、侵入者を完全に拒絶し、内部の者を守るための強力な結界が幾重にも張り巡らされているのだから。


「……まさか、宮殿の警備網を完全にすり抜けるほどの、とんでもない不届き者が侵入したというのか?」


その場に居合わせたアズサも、表情を鋭く引き締め、ただ事ではない事態を察知した。


「ハオ様、一刻も早く城中を探さなくちゃ。もしあの子に万が一のことがあったら――」


「案ずるな、アズ。我が城の結界と警備を抜くなど容易ではないが……万が一ということもある。全兵士を動員して宮殿の隅々までくまなく捜索しろ! 庭園の池から地下の宝物庫、召喚の間から塔のてっぺんまで、一寸の狂いもなく探せ!」


「はっ!」


ラルフは血相を変えて部屋を飛び出し、そのまま宮殿の広大なエントランスに向かって、張り裂けそうな大声で全職員に向けて指示を飛ばした。


「おい、全員聞け! 龍輝様が行方不明だ! 宮殿総出で捜索を開始する!」


ラルフの声が宮殿の石造りの廊下に響き渡った瞬間、魔界の宮殿は一気に蜂の巣をつついたような、前代未聞の大騒動へと発展した。


「なんだって!? 龍輝様が消えただと!?」


「お忍びの隠れ場所か……? いや、地下のワインセラーまでくまなく見たが、どこにもいないぞ!」


「大変だ! 魔王様がご立腹だぞ! 一体どこへ行かれたんだ!」


宮殿の豪華な廊下は一気に騒然とした雰囲気に包まれた。

普段は圧倒的な威厳に満ち溢れている屈強な魔族の騎士たちが、この時ばかりは大真面目な顔で「龍輝様ーーっ! どちらにいらっしゃるのですかーーっ!」と叫びながら廊下を全速力で走り回り、巨大な壺の中や、深紅のカーテンの裏、さらには宮殿のオブジェとして置かれている古代の甲冑の陰まで、覗き込んでは大真面目に確認している。


その頃、アズサからの緊急連絡を受けて、急遽『シン華の家』から魔界へと文字通り飛んできたシンも、宮殿の玄関口で、顔を真っ青にした若いハオの側近・ジョヴァンニにちょうど出くわした。


「シン様! 申し訳ありません、龍輝様が宮殿のどこにもいらっしゃらなくて……!」


シンの表情は険しく引き締まっていた。


「俺が探す。城の裏手や魔王都のほうはどうだ?」


シンの声は低く、しかしその内側には一刻を争う強い焦りが秘められていた。


「そちらはまだ確認していません!」


「くっ……!」


シンは一瞬にして血の気が引くのを感じた。愛する妻・一華をこれ以上無用な心配で苦しめないため、そして何より、自分たちの愛息である龍輝の無事を自分の手で一刻も早く確認するため、シンは宮殿の敷地から外へと一気に飛び出した。

そして、周囲の広大な空間に向けて自身の魔力を極限まで解放し、龍輝の持つ微かな気配と魔力の痕跡を必死に、狂おしいほどに辿っていったのだった。

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