第35話 ベビーラッシュ
一華とシンの第二子・愛麗が生まれてから、我が家は一層にぎやかさを増していた。
龍輝と同じように、愛麗もまた家族だけになると魔力を解放し、おむつをフワリと浮遊させて「替えてほしい」と知らせてくる。
お腹が空いたと泣くことはあるものの、育児の勝手を心得た二人にとって、何をすべきかで迷う時間はなかった。
今回も母乳育児を続けているが、以前「おっぱい、でないの?」と不思議そうに尋ねてきた龍輝は、すっかり忘れてしまったのか、もう確認してくることはない。目の前で愛麗がすくすくと母乳を飲む姿を見ているからかもしれない。
龍輝の赤ん坊の頃はシンに頼りきりだった一華だが、現在は龍輝とレイモンドによる『鍛錬と教育』も本格化している。一華自身、「今回はお母さんとして頑張るぞ」と気合だけは十分だった。
しかし、そんな妻の決意はシンにすべて筒抜けである。
「一華、無理をするな。」
毎日のようにシンの優しい眼差しと気遣いが注がれていた。
完全なる魔界人であるシンの身体と、人間の血が半分を占める一華の身体では、基礎体力の差は歴然としていた。出産からの回復が早かったアーリンと比べても、疲労の抜け方は全く違う。
「一華様は、授乳中はどうか体力を温存してくださいませ。愛麗様に母乳を与えられるのは、一華様だけなのですから。」
アーリンに当然の事実を優しく諭される。育児休暇中のアーリンと一華は、子供たちのお守り役としてリビングのソファに仲良く腰を下ろしていた。
「うん。ありがとう……。」
ちなみに、アーリンとレオナルドの間に生まれた第二子・恵怜那も、愛麗と同じようにまだ授乳の真っ最中だ。
「アーリンも、まだ授乳中なんでしょ?」
「はい。ですが、授乳の間隔も少しずつ空いてまいりましたので、まとまった睡眠も取れるようになりまして……それに、私には元々の体力がございますので。」
「やっぱり、基礎体力の差だよねぇ……。」
二人のおしゃべりに割り込むように、ゴンがよっこらしょと足元に歩み寄り、ちょこんとお座りをした。
「みゃみゃ……(一華ちゃまは、人間の体力でちゅからねぇ。)」
もっとも、日中の『鍛錬と教育』のほとんどはシンとレオナルドが引き受けているため、こうして二人がお茶を飲みながらまったりと駄弁っていることが多い。貴重な癒しのひとときでもある。
一華はふっと笑いながらゴンを抱き上げ、自分の膝の上に乗せる。
毎日こうして穏やかな日々を過ごして数十日。ふと、一華は違和感を覚えた。日々成長しているとはいえ、なんだか最近、ゴンが少し重くなっている気がするのだ。
「ねぇ、ゴンちゃん。もしかして……赤ちゃん、いる?」
「みゃみゃ……(ば、バレちゃいまちたか? いまちゅよ。)」
ゴンは照れたように顔を赤らめ、ふわふわのお腹の方へと視線を落とした。
「本当か?」
おもちゃコーナーの方から、シンも驚いたように顔だけをこちらに向ける。
「出産予定日はいつなの?」
「みゃみゃ……(あと、一か月ほどでちょうかちら?)」
「猫ちゃんのお産って初めてなんだけど……いったい何を準備したらいいんだろう?」
ゴンは小首をかしげ、きょとんとした顔をする。
「みゃみゃ……(わたちにもわかりまちぇん……初めてでちゅので。)」
サンは、ゴンが一歳を迎える頃まで過剰に手を出すなというシンの厳命を、忠実に守っていたようだ。
すっかり大人になったゴンは、見事なゴージャス長毛種へと変貌を遂げていた。ふさふさとした被毛に、リスのしっぽのようにボリュームのある毛並み。しかし、甘えん坊で幼い口調だけは、昔のままだった。
「ゴン、もうすぐ母親になるというのに、その口調は直らないのか?」
シンが苦笑しながらツッコミを入れる。
「にゃにゃみゃ……(わたくし、もうすぐママちゃんになります。もう大丈夫でちゅ!)」
「ふふっ、気を抜くとすぐ出ちゃうね。」
リビングに穏やかな笑い声が響く。
「みゃみゃ……(でちゃうでちゅ……。)」
ゴンが照れくさそうに耳を伏せた。
「にゃにゃん……(ゴンちゃんは可愛いからいいにゃ!)」
少し離れた場所から、サンが愛妻を全力でフォローする。
「ゴンちゃんはお顔も童顔だし、その喋り方でも全然可愛いよ!」
一華も笑顔で頷いた。
「でも、初産なのにあと一か月しか準備期間がないって聞くと、やっぱりちょっと不安だな……一度、動物病院に連れて行った方がいいかな?」
一華は慌ててスマートフォンを取り出し、猫の出産について調べ始める。
「みゃみゃ……(のら猫でもちゃんと産めるんでちゅ。場所さえあれば大丈夫でちゅよ!)」
本人はどこ吹いた風とばかりに楽観的だった。
「お産場所は……人通りが少なくて、暗く静かな部屋の隅がいいらしいよ……。」
一華がネット上の情報を読み上げる。
「ここに、そんな静かな場所はないな……。」
シンはおもちゃコーナーを見渡し、腕を組んで呟いた。龍輝とレイモンドが興味を示すかもしれないと、部屋の一角にはありとあらゆるおもちゃが買い揃えられていた。
「不要なものは一時的に消して、整理するか。」
シンが手をかざして呟いた瞬間、リビングの南側の空間が眩い光に包まれた。光が収まると、そこにはゴンたちのための小さなプライベートスペースが綺麗に広がっていた。
「……龍輝、お前か?」
シンが息子の龍輝の方を見つめて尋ねると、龍輝は「うん!」と強く頷いた。
「ゴンちゃんと、赤ちゃんのお部屋!」
「……でも、おもちゃコーナーの一角に作ったら、すごく騒がしいでしょ? 先住猫や小さな子供がいる部屋は避けて、静かで普段使ってない部屋が理想だって書いてあるよ。」
「なら、パーテーションを立てて、ゴンが中に入ったら周りは静かにするよう言い聞かせれば問題ないか?」
「みゃみゃ……(だいじょうぶでちゅ。産まれそうになったら、その中に入りまちゅから!)」
一華は再びスマートフォンの画面に目を落とし、オススメのお産箱の条件を読み上げる。
「ええと、お産箱は大きめのダンボール箱に、ゴンちゃんが出入りする穴を開けたものが理想で、その中にペットシーツや目の詰まった毛布を敷くのがいいみたい。で、その隣に猫トイレ、反対側にフードとお水を置けば完璧だって……!」
シンは一華のそばに歩み寄り、スマートフォンの画面に表示された情報を確認すると、スッと魔力を解放した。淡い光とともに、理想通りの頑丈なお産箱と快適なスペースがその場に具現化される。
「こんな感じでどうだ?」
「みゃみゃ……(さいこーでちゅ! これなら、安心して赤ちゃんが産めまちゅ!)」
「にゃにゃん……(あれ? 俺は入れないにゃんか?)」
「みゃみゃ……(わたちがいいって言うまで、入っちゃダメでちゅ!)」
「猫ちゃんって、人間と違って自分だけでお産するんだから本当にすごいよね。」
「みゃみゃ……(猫ちゃんは大人ににゃるのが早いけど、無事に成長できるとは限らにゃいし、寿命も短いから、お産も母猫だけでできるようにできちぇるんでちょうかねぇ……!?)」
こうしてゴンの出産場所も完璧に確保され、素人ながら準備は万端となった。あとは、無事に予定日を迎えるのを待つだけだった。
◇◆◇
そして約一か月後。ゴンの出産予定日が近づいたある深夜のことだった。
一華たちがすでに深い眠りについている頃、ゴンの小さなお産の戦いがひっそりと始まっていた。事前に決めていたお産場所へと静かに移動し、箱の中に入っていくゴン。
唯一その気配に気づいたサンは、心配で気が気でない様子で、お産の完了をハラハラしながら見守っていた。
一華は途中、愛麗の授乳のために一度目を覚ましたものの、階下の小さな変化にはまだ気づいていなかった。
◇◆◇
翌朝。一足先に起きてきたシンを見つけると、サンが全速力で駆け寄ってきた。
「にゃにゃん……(シン、ゴンちゃん、赤ちゃん産んだにゃ!)」
シンがそろりとお産場所に近づくと、中では小さな赤ちゃん猫たちが、みーみーとか細い声をあげて四匹生まれていた。
お産直後の箱の中は少し汚れていたため綺麗にしてやりたかったが、当のゴンは激しい疲労ですでにぐっすりと眠りこけている。
シンは魔力を解放し、すぐ近くに全く同じ環境の箱をもう一つ用意した。ゴンが目を覚ましたらそちらへ引っ越しをさせ、元の場所を掃除するためだ。
シンはお水とフードを近くに配置すると、穏やかな笑みを浮かべて朝食の準備へとキッチンに向かった。
食卓に温かい味噌汁や焼き鮭、玉子焼きのいい匂いが立ち込める頃、一華が愛麗を抱きかかえ、龍輝と一緒に階段を降りてきた。愛麗を優しくベビーベッドに寝かせて、家族みんなで朝食の席につく。
「「「いただきまーす!」」」
みんなが箸をつけたところで、シンが静かに切り出した。
「朝起きてきたら、すでにゴンが出産していた。」
「えっ? 夜の間に産んじゃったの?」
「えーっ、見たい見たい!」
「龍輝、今は疲れて寝ている。朝食をゆっくり食べ終えたころには目を覚ますだろうから、それまでは我慢だ。」
龍輝は少し不満そうに口を尖らせたが、父親の言葉に従って箸を口に運び始めた。
いつもより少し急ぎ足で、しかししっかりと朝食を平らげた三人。一華とシンが片付けを始めている隙に、龍輝は待ちきれないとばかりに、そろりそろりとゴンのお産場所へと近づいていった。
その小さな後ろ姿を見つめながら、一華とシンは思わずクスリと笑みをこぼす。
龍輝がお産場所に近づき、そっと顔を覗かせると、ちょうどゴンがガツガツと夢中でフードを食べているところだった。予期せぬタイミングでお産が始まったため事前に用意できず、お腹がペコペコだったのだろう。
気が済むまで食べると、今度は水をピチャピチャと美味しそうに飲み干す。お産箱に戻ろうとしたゴンは、すぐ隣にもう一つ同じ箱があることに気づき、まだ目も開かない赤ちゃん猫を優しく口に咥えて引っ越しを始めた。
四匹すべての引っ越しを無事に終えると、ゴンはほっとしたように疲れ果てた体を横たえ、そのまま赤ちゃんたちへの授乳を再開した。
「みゃみゃ……(龍輝ちゃま。赤ちゃん、生まれまちたよ。)」
ゴンは顔を覗き込んでいる龍輝に気づき、嬉しそうに報告した。
「赤ちゃん、見てもいい?」
「みゃみゃ……(見るだけでちゅよ。まだ触っちゃダメでちゅよ!)」
龍輝はお産箱まで近づき、ゴンのあたたかいおっぱいをゴクゴクと懸命に飲んでいる赤ちゃん猫たちをしげしげと見つめた。
人間界の母猫であれば神経を尖らせて我が子を必死に守ろうとするところだが、魔界の猫であるゴンとは言葉でコミュニケーションが取れるため、子どもに対しても安心だった。
「わぁ、みんな小ちゃくて、かわいいね!」
「みゃみゃ……(龍輝ちゃま。お名前をつけてくだちゃいな!)」
「なまえ……?」
龍輝は首をかしげ、少し考え込んだあと、ゴンの顔の近くから次々と小さな指を指しながら名前を告げていった。
「『みみ』ちゃん、『むむ』ちゃん、『めめ』ちゃん、『もも』ちゃん!」
龍輝は性別などお構いなしに、思いついた音をそのまま口にしたようだった。
片付けを終えた一華とシンが後ろからそっと覗き込み、サンも心配そうに恐る恐る近づいて、龍輝の体の陰からひょっこり顔を覗かせていた。
「龍輝、オスメスの区別はついているのか?」
シンがクスリと笑って尋ねる。
「???」
龍輝は首をかしげるばかりで、ただ思いついた可愛い名前を並べただけのようだった。
「みゃみゃ……(みみちゃんとももちゃんは女の子で、むむちゃんとめめちゃんは男の子でちゅよ!)」
ゴンの説明を聞いて、一華たちは納得する。
真っ白な毛並みの『みみ』。
サンそっくりの真っ黒な『むむ』。
足先だけが白くてまるで靴下を穿いているような白黒の『めめ』。
そして、まるで牛のように白黒のぶち模様が入った『もも』。
「四匹とも、見事に毛色が違っていてすごくわかりやすいね。」
「龍輝は、どうしてこの名前にしたんだ?」
「だって、ゴンちゃんがママだから、その赤ちゃんは『み・む・め・も』で順番につけたの!」
「うふふっ、それってちゃんと文字の勉強の成果ってことかな?」
一華とシンは顔を見合わせ、愛おしそうに微笑んだ。
こうして、我が家の猫たちも本格的な育児期間へと突入した。
愛麗と恵怜那という人間の赤ん坊に加え、四匹の子猫たちも生まれるというベビーラッシュとなった。




