第34話 誕生2
龍輝の変身の魔力で、怪獣の姿からウサギへと変身させられたカイちゃんが家族に加わって以来、龍輝とレイモンドには鍛錬と教育が本格的に開始された。
一華よりもいち早く、和の国の文字や魔界文字のひらがな、そして数字を吸収していく二人は、見本通りの文字を忠実に紙へと書き写していく。鉛筆の正しい持ち方もすっかり板についていた。
「やっぱり、人間とは脳の作りが違いすぎるのかな……。」
人間と魔界人のハイブリッドである一華が密かにそんなことを呟くほど、二人の覚えの早さは驚異的だった。
ひらがなを制覇した後は、カタカナ、簡単な漢字へとステップアップし、さらには英語にまで手を伸ばしている。
そんな慌ただしくも平穏な日々が、まるで何かの約束のように穏やかに過ぎ去っていき――そして、季節が巡る。
アーリンが一足早く、産休を取得した。とはいえ、自宅に一人でこもっていては、万が一のときに心もとない。そのため、レオナルドやレイモンドと一緒に『合同会社SINQ』へと毎日出勤することになった。
大きくなったお腹をソファの背もたれに預けながら、龍輝とレイモンドの勉強や鍛錬を見守るのが、この頃のアーリンの主な護衛任務だった。
そして、その穏やかな日常の中で時は満ちる。
任務の最中、ついにアーリンに陣痛が始まったのだ。陣痛の間隔を測りつつ、買い出しから戻ってきたレオナルドと共に、二人はかかりつけの病院へと車を走らせた。なお、レイモンドはそのまま龍輝と一緒に『シン華の家』で遊ばせておくことになった。
残された一華とシンは、淡々と本日の業務をこなしていく。一華の身重の体を気遣いながら、シンがほとんどの仕事をスマートに片づけてくれた。
その日の午後、レオナルドから「無事に女の子が生まれた」と連絡が入り、事務所は温かい祝福ムードに包まれたのだった。
その後も、龍輝とレイモンドの『鍛錬と教育』の二本柱は変わらずに続けられた。本当の出産休暇に入ったアーリンに代わり、今度は一華が、二人の頼もしい教育係としてその成長を見守ることになった。
◇◆◇
それからしばらくしてのことだった。
しんとした深夜の闇の中、一華が不意の痛みで目を覚まし、隣で眠るシンの肩をそっと揺さぶった。
「イタタタタ……シン、起きて……。」
陣痛が始まっていた。しかも、前回よりも痛みの間隔は明らかに短くなっている。
「すぐに病院に行けるように」と、シンはすでに必要なものを詰めたバッグを枕元に用意していた。
すぐに日頃からお世話になっている病院へと電話を入れ、陣痛の間隔が短くなっている旨を告げると、「今すぐ来てください」との力強い返答。シンは一瞬にしてバッグを車の後部座席へとテレポートさせ、続いて三階の子供部屋へと向かった。
お兄ちゃんになるという自覚から、龍輝は最近この三階の子供部屋で一人で眠るようになっていた。
ぐっすりと深い眠りに落ちている龍輝は、シンが服を着せ替えている最中であっても目を覚ます気配すらない。ぐずったりしない分、親としては大助かりだった。
龍輝を優しく抱き抱え、二階へと降りると、寝室から支度を整えた一華がちょうど部屋から出てきたところだった。シンのテレポートを使い、一瞬にして一階へと降り立つと、そこには気配を察知したサンとゴンが待ち構えていたように起きてきていた。
「留守番を頼む。」
シンが告げると、二匹は頼もしく応じる。
「にゃん……(任せろにゃー!)」
「みーみー……(すぐ産まれまちゅからね! 大丈夫でちゅよ!)」
初産時の一華の苦しみを思い出し、シンは脳内で(出産はそんな簡単なものじゃないぞ)とツッコミを入れたが、今はそんなことを口にしている余裕はない。
車のチャイルドシートに龍輝をしっかりと固定し、一華に寄り添って助手席に乗せる。シャッターを静かに上げると、シンは闇夜の道路へと慎重に車を走らせた。
夜空には皓々と神秘的な光を放つ満月が顔を覗かせている。
龍輝の時もこうしてシンが病院へと送り届けたが、今回は熟睡しているとはいえ、龍輝まで一緒に連れて行かなければならない。どうか朝まで起きないでくれ――そう祈るような気持ちで、シンも一華もハンドルとシートベルトに力を込めた。
二度目とはいえ、陣痛の痛みが変わるわけではない。薬に頼ることもできず、ただ新しい命が生まれてくるその瞬間まで、ひたすら耐え抜くしかないのだ。
◇◆◇
夜の街を十分ほど走り、病院の駐車場へ車を滑り込ませる。シンはバッグを掴み、眠ったままの龍輝を抱え上げると、一華の足元を支えながら夜間出入り口へと急いだ。
インターホンを押すと、当直の看護師が素早く車椅子を用意して迎えてくれる。一華を車椅子に乗せ、あとはプロの手に委ねる。
その瞬間、シンの肩の荷がほんの少しだけ下り、ホッと胸を撫で下ろした。
この病院では、陣痛から分娩、そして産後の回復までを同じ個室で過ごせる人気の「LDR(陣痛・分娩・回復室)」が採用されている。一旦病室に入り、妊婦用の病衣に着替えた一華は、本格的な分娩のときに備えて再び痛みに耐え続けていた。
夜間ということもあり、分娩時の立ち会いはパートナー一人に制限されていた。限界のギリギリまで一華に付き添ったあと、シンは熟睡中の龍輝をしっかりと抱き抱えたまま、一人ロビーの長椅子に腰掛けた。不思議と、龍輝は相変わらず起きる気配すらいっさいない。
一人で戦いに挑む一華を心配したシンは、思わず『透視の魔力』を天井へと向けた。部屋の天井付近から見下ろすような視点で、中の様子をそっと見守る。
分娩台の上で、一華は助産師の声に合わせ、力強く息をいきむ。
その時、白衣を着た医師が慌ただしく部屋に入ってきた。医師が何か手際よく処置をしたようだが、シンの位置からは詳しい手元までは確認できない。
次の瞬間、また強い陣痛の波がやってきた。一華が渾身の力を込めていきむと、室内に産声が響き渡った。
「オギャー!」
小さくも力強いその響きが鼓膜を揺らした瞬間、シンの視界に飛び込んできたのは、大仕事をやり遂げた一華の、額に滲む汗と深い安堵に満ちた笑顔だった。
その後、シンの前に看護師が現れた。シンは慌てて透視の魔力を解除する。
案内されて部屋の中へ入ると、一華は小さな、その名の通り『赤みを帯びた赤ん坊』を腕の中に大事そうに抱いていた。女の子だった。
生まれたばかりの我が子の顔を見つめ、次いで一華のほっと緩んだ顔を見た瞬間、シンの目から一筋の涙が熱く溢れ出た。
「お疲れ様! 産んでくれてありがとう……。」
心からの感謝を告げる。シンの腕にはまだ龍輝を抱えていたため、生まれたばかりの赤ん坊を直接抱くことはできなかったが、一華は回復を待つ間はこの部屋に残り、朝を待って一般病室へと移動する予定だ。
その場で赤ん坊人生初の初乳を無事に済ませると、小さな足首に可愛いリストバンドをつけられた赤ん坊は、いったん新生児室へと連れて行かれた。
看護師たちがテキパキと処置を終えると、部屋の中には穏やかな静けさが戻ってきた。
シンはベッドサイドの椅子に腰掛けると、窓の外はすっかりミルク色の朝に染まりかけていた。
一華はベッドに体を預け、心地よい疲労感に包まれながら、ふふっと柔らかく微笑んだ。
「シンも、一度家に帰って一眠りしてきて。起きたらママに連絡して、こっちに来てもらって。」
シンは一華の言葉に促され、一度自宅へと戻ることにした。一華自身も、出産後の体を休めるためにその場でゆっくりと目を閉じる。
再び龍輝をチャイルドシートに乗せ、シンは来た道を静かに折り返した。
自宅の車庫に車を収め、龍輝をベッドに寝かしつけると、シンもまた自分のベッドに倒れ込むようにして束の間の睡眠をとった――と言っても、眠ったのはわずか二時間ほどのことだったが。
起きてすぐに簡単に朝食の準備を整え、龍輝を起こす。着替えさせながら、シンは昨夜の出来事を優しく伝えた。
「ママが赤ちゃんを産んだぞ。可愛い妹だ! 今日から龍輝はお兄ちゃんだ!」
その言葉を聞いた瞬間、龍輝は両手をパッとバンザイして、満面の笑みで声を上げて大喜びした。
慌ただしく身支度を整え、二人で朝食をとる。食事をしながら、シンはハオとアズサにメッセージを送った。
すぐにアズサから「今すぐ行くわね!」と頼もしい返信が返ってくる。
龍輝を見守りながら、シンも遅めの食事を済ませる。ちょうど片付けが終わる頃、レオナルド一家が元気に仕事へとやってきた。
一華が無事に出産したことを報告し、業務連絡として「買い出しは継続するが、プリンの製造販売は一華が現場に復帰するまで一時的に中止する」ことを決定する。
魔界の『SINQstore』の社員たちにも、プリン販売休止の旨を速やかに連絡した。
一華の出産予定日が近づいていることを考慮し、『フロールナ・プリン』シリーズのフェアはもともと開催しないスケジュールにしていたため、現場に大きな混乱はない。当分の間は、バーベキューや花火大会のイベントなどでスケジュールの空欄を埋めていくことにしていた。
今日はジャンが買い出しに付き合ってくれる日だったため、レオナルドとジャンが揃って朝の買い出しへと出かけていく。
それから間もなく、アズサが空間のゲートを抜けてやってきた。
龍輝は出産中寝ていたため、「私が病院に連れていくわね。」とアズサが声をかけてくれる。
龍輝を着替えさせ、アズサに託すと、二人を乗せた白いSUV車はそのまま病院へと発進していった。
シンは午前中の発注業務を淡々とこなしていく。総理大臣への発注だけでなく、時には卸値よりも安く売り出される瞬間を狙って『Amzon』への発注も密かに続けていた。
◇◆◇
それから一週間が経ち、いよいよ一華が退院する日がやってきた。
朝からシンが車で迎えに行き、自宅である『シン華の家』では、ハオとアズサが心づくしの準備をして二人の帰りを待っていた。
じぃじであるハオは、龍輝の格好の遊び相手になり、ばぁばであるアズサは、龍輝の時と同じように愛情を込めた豪華な祝い御膳を用意してくれていた。
リビングの中央には、主の帰りを今か今かと待ちわびているベビーベッドが置かれている。
それは龍輝が生まれたときにハオとアズサから贈られた思い出の品であり、再びこうして新しい命を迎えるために日の目を見ることになった。ベビーベッドの中央には変わらず魔宝石が埋め込まれ、かつて龍輝を守ったように、今度は生まれてきた小さな妹を優しく護る。
シャッターの上がる音がリビングにまで響いてきた。
その音を聞きつけた龍輝は、待ちきれないとばかりに車庫へと一目散に駆け出していく。一週間ぶりの一華の帰宅が、待ち遠しくて仕方がなかったのだ。
やがて、一華が赤ん坊を大切そうに抱いてリビングへと入ってきた。龍輝が出迎える中、一華はまずハオの元へと歩み寄り、その腕の中に赤ん坊をそっと預けた。
「じぃじだよー!」
ハオの目尻は、これ以上ないほどに下がっていた。
シンは、寝室から持ち出した『美しく仕上がった木製フレームの命名書』を抱えて降りてくると、リビングのチェストの上に丁寧に飾りながら、はっきりと告げた。
「名前は、『愛麗』です。」
「まぁ、すごく可愛い名前ね!」
アズサが目を細めて歓声をあげる。
「龍ちゃんの時と同じように、魔界でも呼びやすく、そして人間界でも同じ呼び名として自然に通用するように、漢字で表記できる名前にしたの。」
一華が微笑む。
「みんなに愛されるようにか!」
ハオが尋ねる。
「それもあるし、何より愛情深く育ってほしいと思って。」
「龍輝は強さを、愛麗は愛情、か。いい名前だな!」
ハオが力強くうなずく。
「あいちゃん、可愛い!」
龍輝がパタパタと浮遊の魔力をふわりと解放し、ハオの逞しい腕に抱かれた愛麗の小さな顔をのぞき込んだ。
その足元では、怪獣から変身させられたウサギのカイちゃんが、ピクンと長い耳を動かして「新しい家族に挨拶しなきゃ」とでも言うようにぴょんぴょんと跳ねて近づいてきた。
「にゃんにゃ……(俺がお兄ちゃんとして教育してやるにゃ!)」
「みーみー……(わたちのお姉ちゃんぶりも見せるでちゅ!)」
サンとゴンも足元から見上げ、嬉しそうに声をあげる。
「さぁ、料理が冷めないうちに、みんなでいただきましょ。」
アズサはハオの腕から愛麗を自然な手つきで受け継ぎ、リビングのベビーベッドへと優しく寝かせた。
「こうして抱くと、龍ちゃんの時より随分と軽く感じるわね。」
「うん……なんかね、二人目っていうのもあるのかもしれないけど、お産自体がすごく軽かったの。」
それを聞いたゴンが、得意げに「みーみー……(ね! すぐ産まれたでちょ!)」と小さく鳴いた。
瞬間、シンは足の裏でゴンの尻尾をそっと踏みつけた。
「みっ!?」
一華と病院へ向かう際、ゴンが漏らした「すぐ産まれまちゅからね!」という言葉を聞いた時点で、シンには(また、神様が裏で何か力を貸すのだろう……。)という薄っすらとした予感があった。
しかし、ゴンの告白以降、自分たちの魂が神様の生まれ変わりなのだという途方もない真実を、ハオとアズサにはまだ報告していなかった。
――こんな話を、いったい誰が信じるというのか。
シンは何も聞こえなかったかのように、華麗にその場をスルーした。
自分たちが心から望んだこととはいえ、ここからまた賑やかで、そして怒涛のような育児の日々が始まる。




