第32話 渦巻き【前編】
「大変です! 領主様、海が飲み込まれています!」
最南端の地域を統べる領主の豪奢な執務室の扉が、激しく打ち鳴らされた。飛び込んできたのは、その海域で網元を務める古参の漁師たちだ。顔面は青ざめ、手の震えを必死に抑え込んでいる様子がありありと見て取れた。
彼らが営むのは、魔界の広大な海域を利用した一大漁場である。小さな幼魚が網の目をすり抜けて生態系が維持されるよう、網の目の大きさを厳密に調整し、計画的な資源確保を行っている誇り高き漁師たちだ。しかし、この日はそんな彼らの常識を根底から揺るがす異変が起きていた。
海から遠く離れた内陸に位置する宮殿では、これまで十分な保冷技術が確立されていなかった歴史的背景もあり、生魚を食す文化は長らく根付いていなかった。
だが、魔王ハオの統治によって技術革新(シンによる太陽光発電システムと冷蔵庫の導入による)が進み、今や南方の新鮮な魚介類は魔王都の食卓を彩る重要な名産品となっていたのだ。その生命線ともいうべき漁場が危機に瀕していた。
南の領主は魔王ハオの元へと即座にテレポートした。
◇◆◇
魔王都のメインストリートに面した市場は、いつもであれば南方の新鮮な魚介類を買い求める人々の活気で満ちあふれているはずだった。しかし、この日は一変して異様な重苦しさに包まれていた。
「おい、今日もマグロの類は入荷なしか?」
「あぁ、南の漁場が例の『大渦』で封鎖されてからというもの、目利きたちの顔が曇りっぱなしさ。魔王様が推し進めてくれた冷蔵技術のおかげで、ようやく内陸でも美味い刺身が食えるようになったってのに……これじゃあ先が思いやられるぜ。」
名産品の供給が絶たれたことで、市場のあちこちから主婦や料理人たちの落胆の声が漏れ聞こえる。それは単なる『一つの漁場のトラブル』に留まらず、魔王ハオの統治によって築き上げられた豊かな食文化そのものが、いまや目に見えない巨大な脅威に脅かされている動かぬ証拠であった。
◇◆◇
謁見の間でひれ伏す領主から事情を聞き取ると、魔王ハオは深々と腕を組み、低く通る声で即座に決断を下した。
「あい、わかった。直ちに偵察部隊を組織する。お前は戻って領民たちを落ち着かせよ。」
ハオは即座に従者を呼びつけて偵察部隊の招集を命じると同時並行で、スマートフォンを取り出し、我が身の片腕であるシンへメッセージを打ち込んだ。
ピコン♪
『南の海域で海が飲み込まれている。偵察してきてくれ。』
魔王城の広場には、すでに招集された精鋭の偵察隊が緊張の面持ちで整列していた。普段はお調子者の黒猫サンだが、このような緊急事態では神獣としてシンの相棒を務める。
サンは眩い光に包まれると、純白の翼を持つ巨大なペガサスへとその姿を変えた。ゴンを懐に抱え、サンに跨ったシンを先頭に、偵察隊は万全の防御結界を展開したうえで、南方の海域上空へと一気にテレポートを敢行した。
◇◆◇
空間が大きく歪み、次の瞬間、一行は潮風と不穏な気配が入り混じる南の海域上空へと降り立った。
「『海が飲み込まれている』とは、いったいどのあたりだ……?」
シンは目を凝らし、眼下に広がる紺碧の海原を見渡す。近場には異常は見当たらない。シンをはじめとする面々は、それぞれ遠視の魔力を解放し、さらに遠くの海域へと意識を集中させた。
数秒後、偵察部隊の一人が青ざめた顔で声を張り上げた。
「――あそこです! この先、三百海里ほどです!」
シンの鋭い合図とともに、一行は空間を跳び、さらに三百海里先の空へと瞬時に移動した。
その眼下に広がっていたのは、言葉を失うほど圧倒的な光景だった。
広大な海のど真ん中に、百メートルもあろうかと思われる巨大な渦が口を開けている。潮の満ち引きによって生じる渦潮レベルではない。水面そのものが中心へ向かって猛烈な勢いで吸い込まれ、海全体が奈落の底へと落下しているかのような錯覚にとらわれる。あまりに激しい回転運動に、じっと見つめているだけで平衡感覚が狂い、強烈な眩暈を覚えそうだ。
底の見えない深い闇へすべてを飲み込もうとするその巨大な口は、まるで生き物のように不気味な黒光りを放っていた。
「これは……クジラでも沈んでいるのでしょうか?」
「いや、それより遥かにデカいぞ。海底そのものに大穴が開き、海水が引きずり込まれているのか……。あるいは、我々すら見たこともない未知の魔海獣の仕業か……。」
シンは眉間を寄せながら、懐から顔を覗かせている神の使いである子猫に問いかけた。
「ゴン、この海域にクジラよりデカい魔海獣の類は生息しているのか?」
ゴンはシンの懐からぴょんと飛び出しサンの背中へと下りると、前足をちょこんと揃えておすわりし、真剣な表情(に見える顔)でシンを見上げた。
「みーみー……(うーん……以前、聞いたようにゃ……聞いてにゃいようにゃ……)」
「おい、どっちだ。知っているならすべて話せ。」
シンが突っ込むと、ゴンは「みっ!?」と小さく飛び跳ねてから、コホンと気を取り直すように小さく喉を鳴らした。
「みーみー……(うー……天上界の古文書によれば、太古の昔には『コロッスス』と呼ばれる超巨大な魔海獣がいちゃとか、いにゃいとか……その魔海獣が移動した痕跡の可能性もありまちゅが……、もっと現実的な地学的事象かもしれまちぇんにゃ。)」
「おい、具体的にどういうことだ?」
「みーみー……(はい。海底の地殻深くに巨大な空洞があり、その天井が崩落すると、周囲の海水が一気に地底へと引きずり込まれる『海底洞窟の天井崩壊』という現象が起きまちゅ。人間界の学術書にも似たメカニズムが記されてまちゅよ。)」
「海底洞窟の天井崩壊、だと……?」
流暢かつ専門的な地学の知識をよどみなく語る子猫の姿に、シンは思わず眉間を寄せる。外見の愛らしさからは想像もつかないハイレベルな解説である。
ゴンはペガサス・サンの背中で小さく身震いしながら続けた。
「みーみー……(もちくは、海底の地層深くに閉じ込められていたメタンガスが一気に噴出した陥没穴……人間界では『バミューダ・トライアングル』と呼ばれる現象の可能性もありまちゅね。)」
「メタンガスに……『バミューダ・トライアングル』だと……?」
(……おいおい、神の使いとは言え、天上界の神猫は地上をずーっと見下ろし監視でもしているのか、はたまた人間界のテレビ番組でも見ていたのか……?)
シンは、サンの背中の上で高度な講義を繰り広げるこの小さな神の使いに、心の中でツッコミを入れつつ、脳裏で人間界の知識を総動員した。
(たしか、無色無臭で……可燃性の極めて高いガスだったはずだ。もし大量に噴出していれば、引火した瞬間に海全体が火の海になる……。結界を張った状態で来ておいて正解だったな……。)
「よし、義父上のところへ一度戻るぞ。」
◇◆◇
南の海域での調査を終えたシンは、一息つく間もなくペガサスから元の黒猫に戻ったサンを連れ、魔王城の執務室へと直行した。
「戻ったか、シン。いったい何が起きておるのだ?」
「……メタンガス、あるいは『海底洞窟の天井崩壊』の可能性があります。」
ハオの問いに、シンは現地で得た状況証拠を淀みなく報告する。
ハオは屈強な腕を組み、怪訝そうに片眉を吊り上げた。
「メタンガスだと? ……人間界の書物によれば、目に見えぬ危険な気体があると聞いたことがあるが、まさか海の中でそれが湧き出るというのか?」
「はい。人間界の科学では、海底の地層からそうした可燃性のメタンガスが噴き出す現象が知られているそうです。」
ハオはふむ、と顎に手を当てて腕を組んだまま、どこか遠い目をした。
「ふむ……魔界の過酷な環境ならばあり得ぬことではないが、海がメタンガスで満たされるなど、まるで生命の終焉を予兆する不吉なシナリオの始まりだな。もしそれが事実ならどれほど危険なのだ?」
「あ、いえ、あくまで現段階での可能性の一つです。……ですが、もし大量に噴出していれば、引火した瞬間に海全体が火の海になるほどの脅威です。」
「なに、海が火の海だと!? ……おいおい、それでは魚どころか魔王都の海岸線まで丸ごと吹き飛ぶのではないか。恐ろしいガスがあったものだな……」
ハオが豪快に眉をひそめて唸る傍らで、足元から再び呑気かつ流暢な声が響いた。
「みーみー……(ちなみに、人間界の地質学的データによれば、過去に起きた同規模の海底陥没では、周囲の潮流が完全に安定するまでに平均して約九十六時間を要した事例がありまちゅ。したがって、焦る必要は全くありまちぇんよ、ハオちゃま。)」
「…………?」
ハオはピクリと眉を跳ね上げ、視線を音のした足下へと落とした。そこには、ただの愛らしい(ように見える)小さな白猫が、前足を行儀よく揃えておすわりしている。
「シン、いま……我が足もとの猫が、何か人間のような小難しい数字を並べていなかったか? 『きゅうじゅうろくじかん』と聞こえたが……」
「……気のせいです、義父上。気の抜けた鳴き声を聞き違えたのでしょう。なにぶん魔獣の鳴き声は複雑怪奇ですので……。」
シンは冷や汗を拭いながら即座に言い張り、知性のギャップを隠すようにそっと足の裏でゴンの尻尾を軽く踏みつけたのだった。
「みっ!?」
シンはわずかに咳払いをして話を続けた。
「あ、あの……ともかく、最低限の安全策として、当面の間はあの海域での漁を一切禁止するよう手配をお願いします。」
「あい、わかった。すぐに通達を出そう。」
◇◆◇
最低限の安全策を講じたシンは、任務を終えて自宅である『シン華の家』へと帰還した。リビングのソファに腰を下ろし、今日の奇妙な現象について考え込む。
「お疲れ様、シン。どうだった?」
「空気中のメタンガスの量を調査する方法は、人間界では確立できているのか?」
「ん? メタンガス? どこかで採掘でもしているの?」
一華は、シンの険しい表情を察知し、すぐに自席のパソコンに向かった。
「いや、そうじゃない。偵察してきた海域で発生している巨大な渦の理由の一つに、『メタンガスの噴出』があるらしいんだ。もしそれが事実なら、気付かずに近づくだけで命取りになる。」
一華は手早くキーボードを叩き、検索画面にキーワードを入力して、海底でのメタンガス噴出に関する事例を次々と画面に映し出していく。
「――人間界のネット情報によるとね、ガスが噴出している場合、海面はまるで沸騰しているかのように激しい白波が立ち、さらに周囲には濃い霧が――」
「待て、一華」
シンの鋭い声に、一華の手がピタリと止まる。シンは海上の状況を思い出し険しい顔つきになっている。
「俺がこの目で見た海面には、そんな激しい泡立ちも濃霧もなかったが……もしゴンが言うように、あれが『バミューダ・トライアングル』だとしたら、悠長に原因を解明する暇はないかもしれない……。」
一華はパソコンの画面から目を離し、シンの真剣な眼差しを真正面から受け止めた。
「……そっか。でも、状況からしてガス以外の別の理由ってことじゃないかな?」
「別の理由となると、『海底洞窟の天井崩壊』か……。」
「海底洞窟の天井崩壊?』
「あぁ。ゴンによれば、もう一つの可能性は『海底洞窟の天井崩壊』だそうだ。海底の下に広がる鍾乳洞のような巨大な空洞が、地殻変動などで突然崩落し、一時的に大量の海水が地底へ流れ込んで巨大な渦を巻く――そんな地学的な大異変が起きることがあるらしい。」
「らしいって、ゴンちゃんが言ってたの?」
「あぁそうだ。ゴンなら天上界で見て来たことがあるだろうと思って聞いてみた。」
一華は腕組みをして首を傾げた。
「この国で日常的に見られるような潮の満ち引きによる渦潮とは、やっぱり仕組みが違うの?」
「あんな海峡で発生する規模の渦潮じゃない。毎日発生するようなものなら漁師たちもとうに慣れているはずだが、今回のような規模は誰も見たことがないと言っていたそうだ。」
一華はパソコンの画面から目を離し、シンに向き直った。
「どっちにしても、渦を巻く現象が一時的なものなら、数日経てば結果がわかるはずだよ。その後で、海底に『ブルーホール』のような陥没穴が確認できれば洞窟の崩壊が原因だし、海面がずっと泡立ったままであればメタンガスが原因って見なしてもいいんじゃないかな?」
一華はさらに続ける。
「人間界には『ポータブル型ガス検知器』なんて便利なものもあるみたいだけど、あんな危険な渦の真ん中で空気を採取するのは自殺行為だよ。漁師さんたちには申し訳ないけど、安全が確認できるまでもう少し待ってもらうしかなさそうだよ。」
ソファの背もたれからひょっこりと顔を出したゴンが、ぴょこんと耳を揺らした。
「みーみー……(そうでちゅね。渦巻きが完全に収まるまで、毎日偵察隊を向かわせて様子を監視するのが一番安全でちゅ。)」
「数日で自然に解消してくれるといいんだが……。」
シンは深く息を吐き出すと、すぐさま立ち上がり、ハオの執務室へと再びテレポートしていった。
◇◆◇
ハオに対して、現場の海面が泡立っておらず濃霧も発生していないため『メタンガス噴出』の危険性は低いこと、一方で『海底洞窟の天井崩壊』であれば数日ほどで渦が自然に収束する可能性が高い旨を丁寧に報告した。
そして、最低限の対策と定期偵察の指示をハオに仰いだシンは、その足で『シン華の家』へと戻り、リビングのソファに倒れ込むように腰を下ろした。
(……魔海獣『コロッスス』の可能性について、義父上には結局伝えずじまいだったな。だが、ゴンがあの様子で言っていた以上、完全に否定されたわけでもない……。)
一華は、ソファの上でどこか遠い目をして深く考え込んでいるシンの横顔を、優しく見つめていた。一華は夫の心の内を無理に探ろうとする共鳴の魔力をあえて解放せず、そっとシンの隣に腰掛け、静かにカップを差し出した。
「お疲れ様、シン。明日も偵察は続くんでしょう?」
「ああ……。だが、あの渦の底がどうなっているのか、今はまだ誰も分からない。自然の気まぐれによるただの陥没穴なのか……(それとも、ゴンが言うような古代の魔海獣が目覚めの気配を漂わせているのか……)。」
シンはカップを受け取り、その温もりを感じながらカップの珈琲へと視線を向けた。
◇◆◇
それから数日間、朝早くに偵察隊を向かわせ報告を受けていたハオからシンにメッセージが届いた。
『渦巻が収まったそうだ。』
シンは原因が『海底洞窟の天井崩壊』と片づけることにした。
渦巻が収まった海域近くでは何事もなかったように魔導船団による漁が復活し、魔王都のメインストリートに面した市場は、以前のように南方の新鮮な魚介類を買い求める人々の活気で再び満ちあふれていた。
これで一件落着――誰もがそう胸を撫で下ろした。だが、シンだけはどこか拭えない引っかかりを覚えていた。
(……今回は、たまたま海底の洞窟が崩落しただけで済んだが、もしあれが『コロッスス』という古代の魔海獣によるものだったとしたら……。)
紺碧の海原の底で、計り知れない巨体がゆっくりとまぶたを開けようとしている。
そんな不気味な予感だけが、静かな冷たさとなってシンの胸の奥に残り続けることになった。




