第30話 飴とムチ
ゴンの告白から数日間、魔界の日常にはかつての平穏が、しかし以前とは少し違った新しい色を帯びて戻りつつあった。
魔界特有の不順な天候は相変わらず気まぐれだったが、人間界から持ち込まれた灌水技術や、土地のあちこちに設営されたビニールハウスのおかげで、農民たちの間に広がっていた焦燥感は驚くほどに薄れていた。作物が順調に育つ緑の光景は、人々の心に確かな余裕をもたらしている。
一方で、人間界の先進的な技術や物資を魔界全域へ供給するルートが確立されるにつれ、配送担当者たちの業務量は爆発的に増加していた。最初は数人で手分けして走り回っていた彼らも、もはや個人のマンパワーだけで回せる規模を超え、領主の厳正な人選のもと、各領地に直属の部下を配置する組織化へと踏み切っていた。
これは、人間界の言葉で言うところの『エリアマネージャー』制度の誕生にほかならなかった。
シンの知らないところで着々と組織が拡大し、使用人が増えていく。だが、その裏でヴォルトンの鋭い目が光っていた。もしそこに一人の裏切り者でも紛れ込ませようものなら、紹介した魔王自身から容赦ない制裁が下る。恐怖と規律、そして確かな報酬のバランスの上に成り立つ魔界のシステムは、今やかつてないほどの統率力を生み出していた。
そんな穏やかで、しかし着実に前進する日々の中、リビングの一角で新たな戦いが始まろうとしていた。
「最近、ようやく色々なことが落ち着いてきたよね。」
ルイボスティーから立ち上る湯気を眺めながら、一華がふうと息をついた。
「あぁ。そうだな……このタイミングで、龍輝とレイモンドに勉強を開始させるか。」
「えっ? まだ早くない? 二人ともまだ小さいし……。」
一華が目を丸くすると、シンは微塵も揺るぎない表情で言い放った。
「いや、日常に組み込めば遊びと一緒だ。」
シンはいつの間に用意したのか、一枚の大きな模造紙をテーブルに広げていた。そこには、きれいに整えられた和の国の文字と、どこか神聖かつ幾何学的な気配を漂わせる魔界の文字の比較一覧表が描かれている。
「一華も一緒に勉強すれば、魔界文字も読み書きできるようになるぞ!」
「……うっ、そうきたか……それじゃあ、拒否できないじゃない……。」
「まずは平仮名と数字からだな。基礎がすべてだ。」
「でも、どうやって勉強するの? ノートに書いて覚える年齢でもないでしょう?」
一華の疑問に答えるように、シンは手元に意識を集中させた。次の瞬間、コツンと乾いた心地よい音を立てて、白木の四角い積み木のようなブロックがいくつもリビングのテーブルの上に現れた。シンの魔力によって精巧に具現化されたそのブロックの一つひとつには、精緻に削り出された文字が刻まれている。
これだけで十分に商品価値があるように思える。
和の国の文字が刻まれたブロックと、それに対比する魔界文字が刻まれたブロック。
それは、和の国で古くから親しまれている『百人一首』や『かるた』の要領で遊べる工夫が凝らされた教材だった。和の国の文字が書かれたブロックに対応する魔界文字のブロックを見つけて持ってくる、という単純明快なルール。
ブロックは色も形もすべて同じ。異なるのは、表面に刻まれた文字の形だけ。 一華には、魔界文字と和の国の文字がまったく違う体系の記号であることは目で見て判別できる。しかし、幼い龍輝やレイモンドにとっては、どちらがどちらの世界の文字なのか、そもそも文字という概念自体がまだ手探りの状態だった。まずは文字そのものの形を目に焼き付け、認識しなければ、何を探せばいいのかすら分からない。
「龍輝、レイモンド。いいか。」
シンが子供たちの視線を惹きつけるように、低く通る声で告げた。
「この一覧表の上の段に書かれているのは、今俺たちがいるこの国で使っている文字だ。そして下の段に書かれているのは、魔界で使われている文字。今から両方を覚える。パパが見せるブロックに書かれている文字と同じ段の文字が書かれたブロックを、あの中から見つけて持ってこられるようにするんだぞ。」
龍輝とレイモンドは、真剣そのものの顔つきで「うん、うん」と力強く頷き、シンが作成した文字一覧表を凝視した。
一華も面白がってその隣を覗き込んだが……ほんの数秒後、「だめだこりゃ……私には魔界文字はただの絵とか、複雑な記号にしか見えないよ……。」と、早くも白旗を掲げて諦めモードに入ってしまった。
「一華様が魔界文字をすぐに読めないのは……神様が必要ないと、魂のどこかで判断されたからでしょうか?」
ソファの片隅で、アーリンが上品に首を傾げながら呟いた。
「そうだよね。ゴンちゃんの言葉からすると、シンとペアになるようにすべての魔力を与えられていないってことだし……私の脳ミソが、魔界仕様になってないってことかなぁ。」
「それは都合のいい解釈だな。」
シンが冷徹に、しかしどこか面白がるような響きを含ませて言い放った。
「みーみー……(そうでちゅよ。魔界文字の読み書きは、純粋な魔力の量とは関係ないでちゅよ。)」
サンとぴったり寄り添いながら、ソファの上で丸くなっていたゴンが、シンの言葉にすかさず相槌を打つ。
「……そこはさ、たとえ嘘でもいいから『そうですね、一華様だからですよ。』って合わせてくれてもいいじゃない……!」
「みーみー……(神ちゃまにお仕えしている以上、お世辞や嘘は言えまちぇんでちゅよ。)」
誇らしげに胸を張るゴンの姿に、一華は「ううっ」と項垂れた。だが、仕方がないとばかりに、再び龍輝とレイモンドの横に戻り、文字一覧表を覗き込んだ……が、やはり文字の羅列が頭の中でぐるぐると回るだけで、一向に頭に入ってこない。
「やっぱ、私みたいな凡人は、見て覚えるんじゃなくて、書いて覚えるアナログなやり方にするよ。」
その呟きを聞き逃さなかったシンは、即座に、昔から和の国で使われている小学生用の学習帳と鉛筆を具現化し一華に差し出した。
「ふふ、なんだか本当に、小学生の夏休みの宿題を無理やりさせられている気分だなぁ。」
確かに、窓の外の空気はむっとするような暑さに包まれ、季節はまさに盛夏だった。和の国のカレンダーであれば、子供たちが大好きな夏休みの真っ最中という時期だ。この前、みんなで川遊びに行って冷たい水にはしゃいだばかりだった。あの時、みんなで花火をしたいねと話していた記憶がよみがえる。
「ふっ。夏休みの宿題をしっかりと終わらせたら……ご褒美に、みんなで花火をしに川に行くぞ。」
一華が一向に魔界文字を覚えようとしないのを見越し、シンは絶妙なタイミングで飴を差し出した。
「ううっ……! 私が勉強しないと、みんなで花火ができなくなるなんて……シン、相変わらずやり方がずるいよ!」
「ふっ、人間というものは、小さな達成感を感じることが重要だ。その小さな一歩を積み重ねた先で、大きな目標に到達できるのだからな。」
「はい、それは鍛錬においても全く同じことが言えます。今日はこれが出来るようになる、という小さな達成感を毎日味わった先には、強大な敵をも打ち倒せるような大きな目標の達成があるのです。」
レオナルドは、かつて自身が受けてきた護衛としての過酷な鍛錬の日々を懐かしそうに思い出しながら、シンに深く同意した。
「それは理論としてはすごくよく分かるけどさ……最終目標の『魔界文字の完全マスター』が大きすぎて、その手前の小さな達成感を感じても、長い道のりが重くのしかかるんだよね……。」
「それも一理ありますね。一華様のそのお気持ち、非常によくわかります。」
アーリンが優しくふわりと微笑んだ。
いつの間にか、リビングの中は『厳格に積み上げる男たち』VS『共感で寄り添う女たち』という、見事な構図ができあがっていた。
「それは、今この時点で、まだ何も達成していないからじゃないのか?」
シンは一歩も引かない。
「一つでも二つでも、魔界文字を自分のものとして覚えることができれば、そこからは脳の回路が切り替わって、自然と判別できるようになるものだ。」
「うーん……理屈はそうかもしれないけどさぁ……」
一華は頭を抱えつつも、観念したように鉛筆を握りしめた。
「一華、無駄な思考に割く時間があるなら、とりあえず手を動かせ。」
シンのスパルタな促しに従い、一華は三人の視線を浴びながら、学習帳の大きなマス目に一文字一文字、絵を描くような感覚で、複雑な魔界文字を懸命に一行に一文字ずつ書き写し始めた。
カリカリと鉛筆が紙を擦る音がリビングに響く。
一華が黙々とノートに向かい、ようやく一ページ目を埋め尽くした頃だった。 一覧表を凝視していた龍輝が、突然「あ、覚えたー!」と明るい声を上げ、シンのもとへ駆け寄っていった。
「嘘でしょ? もう全部覚えたの!?」
一華は鉛筆を止めて我が目を疑った。
「うん、覚えた。」
龍輝の無邪気な返事に、シンは満足そうに頷いた。
シンはおもちゃコーナーのマットの上に、全てのブロックを広げ、その中から、一つの和の国の平仮名を手に取ってみせる。
「まずは、この文字と同じ枠に書かれていた魔界文字のブロックを、そこから探して持って来い。」
シンが龍輝に見せたのは『りゅ』という文字だった。
龍輝はブロックを一つひとつじっと見つめ、見覚えのある形を探すと、迷いのない足取りで魔界文字の『りゅ』のブロックを拾い上げて持ってきた。
そのすぐ隣で、レイモンドも「僕も覚えたよ!」と元気よくシンに駆け寄る。
レイモンドには『れ』の魔界文字を探しに行かせた。
龍輝は『りゅ』のブロックをシンに渡し、シンが今度は「次は『う』の文字だ。」と言うと、再びブロックの山から『う』を探し出す。レイモンドには『い』の文字を探させ、二人が持ってきたブロックを並べて見せた。
龍輝が並べたブロックを読んだシンが頷く。
「そうだ。これはどちらも『りゅ』『う』『き』と読む。そしてこちらは『れ』『い』『も』『ん』『ど』だ。どちらも、お前たちの名前を表している。自分の名前だからこそ、忘れることはないな。」
龍輝は自分の手で並べたブロックを指さしながら、「りゅうき、りゅうき!」と嬉しそうに呟いている。レイモンドも龍輝の真似をして、誇らしげに指を滑らせながら「れいもんど……読める!」と目を輝かせた。
我が子の吸収力の早さに驚く間もなく、シンは容赦なくすべてのブロックを再びバラバラに混ぜ合わせた。あちこちへ放り出されたブロックは、どこに何があるのか一見して分からない状態に戻っている。
「よし。もう一度、自分の名前をこの国の文字と魔界文字の両方で、自力で並べてみろ。」
先ほどまでは見本を見ながら探していたが、今度は『音』の記憶だけを頼りに、散らばった無数のブロックの中から二種類の文字を一対ずつ探し出さなければならない。
明らかに難易度が上がった試練だったが、龍輝とレイモンドは少し考える素振りを見せたものの、驚くべき手際で次々とブロックを拾い上げ、シンの目の前に完璧に並べてみせた。
「えっ……嘘でしょ? もうそんなに完璧に覚えたの……?」
一華は自分の学習帳と目の前の光景を交互に見比べ、二人の頭の中はどうなっているのだろうと本気で口をあんぐりと開けた。
(これって……もしかして、魔界人の血を引く子供たち特有の、桁違いの脳力ってやつなの……?)
一華の動揺をよそに、シンはさらに難易度を上げる。今度は一華たちの名前、さらには親であるシンや周囲の者たちの名前のブロックを持ってこさせ、その読みを教え、いちから二つの文字の対比を完璧に再現させるという課題を次々とクリアさせていく。
ほんの少しの時間で、龍輝とレイモンドは自身の名前だけでなく、家族全員の名前の文字の組み合わせを完全にマスターしてしまった。
一方、一華はといえば……まだノートの二ページ目を書き終えたところだった。
(このペースじゃあ、私があまりにも足を引っ張りすぎて、今夏の川での花火大会が幻になっちゃう……!)
自分の不甲斐なさに冷や汗を流しながら、一華は「絶対に置いていかれないんだから!」と心の中で気合を入れ直し、再び必死の思いでペンをノートのマス目へと走らせ始めたのだった。
◇◆◇
夏休みの終わりを向かえる頃。
一華の懸命な努力が実を結び、『いちか』の魔界文字が読み書きできるようにまでなった。
その小さな、けれど確かな達成感を祝うため、『花火大会』を決行することに決めた。
シンが事前に用意したのは、河川敷を見下ろす少し高台の特等席だった。そこには屋根付きのバーベキュー場が完備され、屋根に設置されたソーラーパネルでしっかりと電力を確保している。
常設の頑丈なコンロや竃、大きなテーブルを囲むように配置された椅子。昼間であれば容赦ない陽射しを遮り、川面から吹き抜けるひんやりとした風が心地よい場所だ。
夕陽が西の山並みに傾き始め、オレンジ色の光が世界を染め上げるころ。
「それじゃ、行くぞ。」
シンの合図とともに、川遊びした時の面々がテレポートの光に包まれ、河川敷の特等席へと降り立った。
今回のメインは、何と言っても夕食と花火大会だ。
「今日は川には入らない予定だったんだがな。」
苦笑しながら言うシンの手から、いつの間にかバケツ一杯のピチピチと跳ねる鮎が、ジャンへと手渡されていた。
今回のメイン食材は、人間界のスーパーで買い出しをしてきた贅沢な海の幸だ。大ぶりのホタテ、プリプリのエビ、サザエにイカ。さらに、夏の定番である焼きそばの材料も抜かりなく揃っている。
薄切り肉、キャベツにもやし、人参に玉ねぎ。それらは事前にちょうどいい大きさに切りそろえられて持ち込まれていた。
シンが手際よく鉄板で肉や野菜を炒め、その隣では蒸しそばが軽快な音を立てる。最後に具材と麺を合わせ、香ばしい焼きそばソースを一気に絡めれば完成だ。もちろん、一華の好みに合わせて青のりは抜きである。
「いただきまーす!」
豊かな自然の中で味わう海鮮バーベキューとアツアツの焼きそばは格別で、一行は次々と舌鼓を打った。
お腹が満たされ、辺りがすっかり夜の闇に包まれると、いよいよこの日のメインイベントが幕を開ける。
「花火ってこうやってやるんだよ。」
一華が手本として蠟燭から花火に火を灯し、じっと見せると、周囲の面々も興味津々でそれに続いた。
それぞれが好きな花火を手に取り、思い思いの時間を楽しむ。
ドンと響く打ち上げ花火とは違い、シューッという静かな音と、パチパチと弾ける可憐な火花。その儚くも美しい光に、誰もが自然と見入ってしまう。
ふと見れば、ハオやアズサまでもが片手にビールを掲げ、童心に帰ったように手持ち花火のきらめきを楽しんでいる。
夏の終わりの夜風に吹かれながら、穏やかで温かなひと時は過ぎていく。
鮮やかな火花に照らされたみんなの笑顔とともに、かけがえのない夏の一ページを心に刻み込んでいった。




