第27話 長雨【前編】
夕暮れ時の『合同会社SINQ』の事務所スペース。
静まり返った部屋の中で、キーボードを叩く乾いた音だけが響いていたが、突如としてそのリズムが止まった。
シンの目が、パソコンの画面に釘付けになる。
画面に映し出されていたのは、見慣れた穏やかな農地の景色ではない。そこにあったのは、地面のあちこちにボコボコと開いた掘り返されたあとのような異様な畑の画像だった。
「っな……どうなってるんだ?」
思わず漏れたシンの低い声に、隣のデスクで資料をまとめていた一華が反応する。
「どうしたの?」
一華が椅子ごと滑らせるようにしてシンの隣につけ、横からパソコンの画面を覗き込んだ。
「何これ……?」
絶句する一華にレオナルドとアーリンも静かに立ち上がった。二人はシンたちの背後から同じ画面を凝視する。
静寂のあと、レオナルドが呟いた。
「……これは、逃げられましたね。」
「……はい、間違いないですね。」
アーリンも険しい顔つきで画面を見つめている。
「逃げられたってどういうこと?」
一華がクルリと振り返り、レオナルドに尋ねた。
「はい。あの穴の大きさ、そして土の盛り上がり方からして、恐らくあれは根菜類を大規模に栽培している畑です。そこに植えられていた野菜たちが、何らかの切迫した事情で、自らの意思でその土地を捨てて逃げ出した後の残骸ですね。」
「野菜が……逃げた? ……ちょっと待って、意味がわからないんだけど?」
一華の混乱はもっともだった。人間界の常識で考えれば、野菜とは地中に根を張り、動けないまま収穫を待つだけの存在だ。しかし、そこは魔界。人間界の常識が通用しない世界である。
「あぁ、人間界の者には信じられないだろうが、魔界の野菜というものは、平穏な環境であれば農民たちが収穫の手を伸ばすまでおとなしく土に収まっている。だが、天候不順が続いたり、土壌に致命的な問題が発生したりすると、自らの命を守るために危険を回避して、その土地から自力で逃げ出す習性があるのだよ。」
「逃げ出す意味がわからない……。」
「自らの足で逃げ出すということだ。」
「へっ?……野菜に足があるの?」
「その通りだ。」
シンが静かにうなずいた。
「植物の種子が、枯死しそうになったときに遠くへ飛んで子孫を残そうとするだろう? あれの拡大解釈だと思ってくれればいい。ただ、今回は子孫のためではなく、個体そのものが生き延びるために足を動かしたということだ。」
「そんなの、聞いたことないよ……。じゃあ、その逃げ出した野菜たちは、一体どこへ行くの?」
一華の問いに、シンは眉間を寄せ、憂鬱そうに息を吐いた。
「本来であれば、あらかじめ用意されていた別の代替地へ速やかに移動するため、今回のような大騒ぎには発展しない。だが、今回の報告を見る限り、あらかじめ避難先の代替地が用意されていなかったようだ。見知らぬ荒野へ彷徨い出たか、あるいは移動の途中で干からびるか、どこかで力尽きている可能性が高い……。」
「うそでしょ……。そんな悲惨なことになってるの?」
「まぁ、人間界の野菜と比べれば異質極まりない生態だが、魔界の農地においては時折起きる現象だ。さて、どうしたものか……。」
シンは腕を組み、鋭い思考をめぐらせていた。
先日、北の地域では深刻な雨不足に見舞われ、シンたちが新たな灌漑技術を導入して事なきを得たばかりだ。しかし、今回の報告があった南の地域は、それとは正反対の状況なのだろうか。もし雨不足であれば、前回のノウハウをそのまま流用できるが、もし逆の「水害」であれば、全く異なるアプローチが必要となる。
シンはパソコンをスクロールし、南の地域からの正式な報告書に目を通した。 そこに記されていたのは、シンの懸念を裏付ける事実だった。
――「長雨のうえ、たびたび激しい豪雨に見舞われ、畑が水浸しとなったことが原因」。
「長雨と豪雨か……。一華が現地に赴けば一時的に天候を回復させることはできるが、根本的な解決にはならない。さて、どうしたものか。」
「なら、実際に現地に行って自分の目で見てみようよ。机の上で考えてても始まらないし。」
一華の力強い言葉に、シンはうなずき、スケジュールを確認した。
明日、二日分の買い出しや業務を前倒しで片付け、明後日の午前中に現地視察を強行することに決定した。
すぐさま、配送担当者たちを経由して、南の地域の領主と農民たちへ緊急連絡を入れさせる。
◇◆◇
視察当日の朝、『シン華の家』のリビングは慌ただしさに包まれていた。
一華と龍輝、そして護衛として同行するレオナルドとレイモンドを引き連れ、シンは一気に南の領主の屋敷へとテレポートした。
もちろん、アーリンには留守番を頼んでいる。その傍には、すっかり大きくなった真っ白の子猫ゴンと、その面倒を献身的に見る黒猫のサンがいる。
ゴンは最初のうちはミルクを与え、排泄の世話まで必要だったが、今ではすっかり離乳食をモリモリと食べ、自分でトイレに通うまでに成長していた。サンはゴンの良き遊び相手となり、毎日のように毛づくろいをして可愛がっている。そのため、留守番を頼むにも何の不安もなかった。
南の地域に降り立った瞬間、肌を刺すような冷たい空気と共に、先ほどまで激しく降り続いていたはずの長雨がぴたりと止まった。上空の厚い雲が割れ、眩しいほどの青空が広がっていく。その空の端には、まるで歓迎するかのような巨大な虹がかかっていた。
一行が領主邸の門を叩くと、事態を重く見た領主自らが、数人の農民を引き連れて出迎えてくれた。
「おや、ちょうど雨がやみましたね。これは奇遇だ。」
領主が空を見上げて感嘆の声を漏らすが、一華もシンも何も説明はしない。ここで「一華の能力で天気を変えている」などと知られれば、都合よくこの土地に引き留められかねないからだ。
「こちらへどうぞ。ここが、問題のキャベツ畑です。そしてあちらに見えるのが、人参を栽培していた畑です。ご覧の通り、見事に土のなかに大きな穴だけが残されてしまいました。」
案内された現場は、報告画像の通り、無残に引き抜かれたような穴が無数に口を開けていた。
「野菜が逃げた先は、もう把握できているのか?」
シンが冷徹なトーンで尋ねる。
「はい。幸いというか、収穫した作物を一時的に保管する大型の倉庫が近くにありまして、どうやらそこへ群れをなして逃げ込み、身を隠していました。」
農民に先導され、一行は村のはずれにある巨大な保管倉庫へと足を運んだ。
農民が重い木の扉をゆっくりと押し開けると、内部からうっすらと湿った土の匂いと、微かなざわめきが漏れてきた。
中に足を踏み入れたシンたちの目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
足の生えたキャベツや人参たちが、怯えた子供のように山積みとなり、身を寄せ合って震えていたのだ。
「これは……随分と小ぶりですね。」
一華がしゃがみ込み、小さく丸まったキャベツをそっと見つめる。
「はい。本来なら、あと一ヶ月はしっかりと土の栄養を吸って大きく成長するはずだったのですが、あまりの長雨による根腐れの危機を感じ取り、成長途中のまま逃げ出してしまったようで……。」
農民が苦渋に満ちた表情で頭を下げた。
「これは、今からでも食べられるものなのか?」
「食べられなくもないですが……市場に出荷する際の労力と、この小ささを考慮すれば、廃棄せざるを得ないかと……。」
「そうか……。では、もう一度この子たちを畑に植え直したとして、これ以上の長雨さえ回避できれば、再び成長することは可能なのか?」
「そうですねぇ……。これから先、雨が適度な量に収まり、なおかつ、たっぷりと日光浴ができれば、奇跡的に持ち直すかもしれません。」
「日光浴か……。」
一華は立ち上がり、シンの耳元にそっと顔を寄せた。
「ねぇ、要するに『光合成』だよね。」
「理屈としてはそうだな。ただ、あいつらにはご丁寧に足が生えている。単なる光合成というより、しっかりと太陽の光を浴びせて、失った栄養を凝縮させる必要があるな。」
「なるほどねぇ……。だったら『ビニールハウス』を採用すれば、厄介な雨からは完全に回避できるんじゃない?」
「ビニールハウス……? それは一体、何なのでしょうか?」
横で聞いていた領主が、不思議そうに首を傾げた。
スマートフォンを取り出せば画像一枚で説明できるが、あいにくこの電波の届かない南の地域では、言葉だけで相手にイメージを伝えなければならない。
一華は一歩前に出ると、両手で大きなドームを描くようなしぐさをしながら説明を始めた。
「ええとですね、野菜畑をすっぽりと包み込むように、金属で骨組みを建てるんです。そして、その骨組みを覆うように、雨をしっかりと弾く薄い透明な膜……いわゆるビニールを被せるの。そうすれば、野菜に必要以上の雨が降り注ぐのを防ぐことができるんです。」
シンが呟く。
「だが、日光浴は望めない。」
「そうなの。太陽の代わりになるものとして、人間界には『植物育成用のLEDライト』というものがあるんだけど……ただ、私が知っているのはレタスみたいな葉物野菜用のもので、こういう根菜類やキャベツで成功するかどうかは、正直、やってみないとわからないのよね……。」
一人の農民が冷静に尋ねた。
「そのビニールハウスを導入した場合、雨が止んで晴れた日にはどうするのですか?」
「そこは大丈夫! 骨組みを覆うビニールは、必要に応じて巻き上げたり、畳んだりすることができるの。だから、天候が回復した穏やかな日は、太陽の光や自然の風をしっかりと受けることができるし、朝晩の冷え込む時期や雨天時はビニールをかけたままにして、気温が上がった時や晴天時にはビニールを開放して自然に任せることもできるの。」
「なるほど……。常に雨に打たれて根腐れを起こす環境さえ強制的に回避できれば、この子たちは十分に回復できそうですね。」
レオナルドの言葉に、シンもうなずいた。一華はさらに続ける。
「でも、ビニールハウスにも弱点はあるのよね。強風にはどうしても構造上弱くなるから、強い風が吹いたり、竜巻が発生したりした場合は、骨組みごと破壊されるリスクがあって、それに、激しい豪雨による浸水対策までは防ぎきれない。土地そのものの水はけが良い場所でなければ意味がないのよねぇ……。」
シンは領主に尋ねる。
「……この地域で、他に水はけの良い畑を新しく構えることはできるのか?」
領主は絶望したように首を横に振った。
「この領地内ではもう無理です。隣の領地との境界付近にわずかに空き地はありますが、一から未開の土地を切り拓き、作物を収穫できる状態にするまでには、何年もかかってしまいます。」
「そうか……。であれば、選択肢は一つしかない。この場所に、その『ビニールハウス』を試験導入してみよう。」
シンの突然の提案に、領主と農民たちは目を丸くした。
「そ、そんな奇妙な代物が本当に作れるのですか? ぜひ、導入させてください! このまま指をくわえて全滅を待っているより、何倍もマシです!」
「よし。であれば、資材の準備をまとめる。こちらからの連絡を待っててくれ。」
シンたちはその場で領主や農民たちと別れの挨拶を交わし、再びテレポートを使って『シン華の家』へと戻っていった。




