第26話 サンの受難
「にゃにゃーん……(一華、助けろにゃー!)」
静かな夕食のひととき、リビングの空気を切り裂くようにサンの切実な叫び声が響き渡った。
呼ばれた一華は「えっ?」と呟きながら箸をおき、鳴き声がした方へと顔を向ける。サンの姿があるのは、いつもの特等席ではなく、ダイニングから少し離れた薄暗い一角におかれたケージの中だった。急ぎ足で近寄ってみると、そこには目を丸くしたサンと、子猫の姿があった。
「にゃにゃにゃ……(この子、俺のおっぱい吸ってるにゃ……!)」
必死の形相で助けを求めるサンのお腹にしがみついているのは、手のひらにすっぽりと収まってしまうほど小さな、真っ白な子猫ゴンだった。その小さな命は、サンのお腹に顔を埋め、懸命に母乳を求めようとチュウチュウと音を立てている。
「ふふっ、ママと勘違いしちゃったんだね。起きるまで待ってたんだけど、やっぱりお腹空いちゃったかぁ……。」
一華はくすりと笑いながら、子猫の背中を優しく撫でた。シンが車を走らせて街のペットショップで買い込んできた、子猫用のミルクを思い出してキッチンへと足を向ける。
サンの悲痛な訴えを聞きつけた龍輝が、キッズチェアからふわふわと浮遊の魔力を使ってふわりと床に降り立つ。そして、サンの方へトコトコと駆け寄っていった。
――そもそも事の発端は、龍輝のお昼寝につきあっていたサンが、ケージの中で眠る子猫を見つけたことだった。寂しそうに丸まる子猫を温めてやろうと『透過の魔力』でケージに入り込んだのはいいものの、目を覚ました子猫からすれば、温もりをくれた大人の猫=(イコール)母親と直結してしまったのだ。雄であるサンから母乳など出るはずもなく、すっかりパニックに陥ったサンが一華を呼んだというわけだ。
シンはダイニングの椅子に座ったまま、その微笑ましい光景を静かに見守っていたが、龍輝のとった行動に思わず目を見張る。
龍輝はケージの前にちょこんと座り込むと、自分の小さな服の裾をキュッと掴み、首元まで器用にたくし上げた。そして、丸まって震える子猫を覗き込みながら、無邪気な声で尋ねたのだ。
「のむ?」
その姿を見た瞬間、シンはクククッと喉の奥で笑いをこらえきれなくなり、思わず龍輝のもとへと歩み寄った。
「龍輝、それは違うぞ。龍輝はおっぱいでないぞ。」
頭をなでながら優しく諭すと、龍輝は「?」とばかりに小首を傾げる。くりっとした大きな瞳が父親を見上げる。
「サンと龍輝とパパは、男だからおっぱいは出ないんだ。」
「ママは?」
「ママは出るには出るが……今は赤ちゃんがいないから出ない。」
龍輝は、ケージの中で小さく息をしている子猫を指さしながら、ハッキリとした口調で言った。
「あかちゃん」
「猫の赤ちゃんには、人間のママのおっぱいは出ないんだよ。」
「?」
龍輝は納得がいかないらしく、再び首をこてんと傾げた。男と女の違いも、人間と猫の違いも、もうすぐ二歳になる子供の小さな頭にはまだ少し早かったらしい。
そこへ、ちょうどいいタイミングで一華が子猫用の哺乳瓶を持って戻ってきた。
人肌に温められたミルクの入った哺乳瓶を手に、一華は少し緊張した面持ちでケージの前にしゃがみ込む。子猫にミルクをあげるのは初めての経験だ。
あわててスマートフォンを取り出し、先ほどネットで調べた『子猫へのミルクの与え方』のページをもう一度スクロールして頭に叩き込む。
――うつ伏せにして、頭をしっかりと支えて、口元にそっと哺乳瓶を押し込む。
「よし……」
恐る恐る哺乳瓶の先を小さな口に含ませると、子猫は驚くべき執念を見せた。先ほどまでサンのおっぱいを必死に吸っていただけあり、吸う力は十分すぎるほどだ。昼前から何も口にせず、ずっと不安のなかで眠り続けていたのだろう。空腹の限界だったのか、小さな喉を鳴らしながら「ごくごく、ごくごく」とすごい勢いでミルクを飲み干していく。その吸いつきの激しさに、一華は思わず息を呑んだ。
「よかった……。ちゃんと飲んでくれた。」
胸をなでおろす一華の表情には、深い安堵がにじんでいた。
保護はしたものの、動物病院はあいにく連休中で、開くのは明後日だ。それまでの間、もしミルクを飲んでくれなければ命の危険すらあった。小さく細い体が、生きようと必死に哺乳瓶に吸い付く姿を見ているだけで、胸が締め付けられるような思いだった。
「ゴンちゃん、美味しい?」
龍輝が優しく声をかけると、隣で様子を見守っていたシンが目を細めた。
「美味しいみたいだな。ものすごい勢いで飲んでる。」
「にゃにゃん……(助かったにゃ……。もうダメかと思ったにゃ……。)」
サンも自分の胸元から解放され、ホッとしたように小さく息をついている。
「サンちゃん、この子のパパになってあげてね。」
一華が微笑みかけると、サンは誇らしげに鼻を鳴らした。
「にゃんにゃん……!(この子は俺のお嫁さんにゃん! 帰ってきたにゃん!)」
「この子も女の子か……。まさか、本当にゴンが帰ってきたわけじゃあるまいな……。」
シンが腕を組み、面白そうに顎をさする。
「まさか。年齢的にはちょうど合うかもしれないけど、ドラゴンが猫に変身したりはしないでしょう? ようやくママたちと平穏に暮らせることになったのに。」
「だよな。取り越し苦労だよな。」
「そうだよ。ゴンちゃんの代わりに、神様が送り込んでくれたんじゃない? サンちゃんの時のように。」
一華の言葉に、シンはふと、サンがこの家にやってきた日のことを思い出した。
あれは、一華が黒猫「仁華」の姿のまま人間界を散歩していた時、偶然に保護した魔界の猫――それがサンだった。人間界へやってきた経緯について、サン自身は記憶喪失らしく、今でもまったく思い出せないままである。
「なぁ、サン。人間界にやってきた時のこと、今でも思い出さないのか?」
シンの問いかけに、サンは「にゃにゃん……(わかんにゃいにゃん……)」と、どこか気のない返事をして、再び子猫の匂いを嗅いでいる。
「そうか。まあいいさ。……にしても、この子が大人になるまでは、変なちょっかいを出すなよ。」
「にゃんにゃー……(おとにゃににゃったら、ちゃんと正式にお嫁さんにするにゃん!)」
「せいぜい、仲良くやれよ。」
そうこうしているうちに、ゴンは哺乳瓶の中身を綺麗に飲み干し、小さなピンク色のお腹はパンパンに膨れ上がっていた。
満足した子猫を優しく抱き上げると、一華は授乳後の大切なケアを始める。背中をトントンと優しく叩いてゲップを促し、濡れたコットンでそっとお尻を刺激して排泄を促す。その手つきは、龍輝を育ててきた経験があるからこそ、非常に手慣れていて迷いがない。
お世話がすべて済むと、一華はふうと息をついて、子猫を再びサンのもとへと返してやった。
「サンちゃん、冷えないようにしっかり温めてあげてね。」
「にゃん……(任せろにゃん! 優しくしてメロメロにするにゃ!)」
サンは得意げに子猫の体を自分の大きな体で包み込み、安心させように喉をゴロゴロと鳴らし始めた。その微笑ましい様子を見届けてから、一華は立ち上がる。
「さぁ、私たちもご飯、ご飯にしよ。」
すっかり冷めてしまったスープを温め直すため、一華は再びダイニングへと戻った。
シンは龍輝の乱れた服を綺麗に整えてから、キッズチェアへと優しく座らせる。一華も温め直したスープを配膳して自分の椅子に腰を下ろした。
温め直したスープからふわりと湯気が立ち上る。 一口飲むと、冷えかけていた体に温かさがじんわりと行き渡り、先ほどまでの緊張の糸がようやくほどけていくのを感じた。
静かに箸を動かすシンの気配を感じながら、一華は(小さな命を無事に繋ぎ止められたことへの安堵と、いつの間にか増えた家族の気配に)、胸の奥がじんわりと満たされていくのを覚えていた。
そんな、穏やかな静けさに包まれたダイニングの空気を切り裂くように、キッズチェアにちょこんと座る龍輝が、クリクリと丸い目を輝かせながら突如として口を開いた。
「ママ、おっぱい、でないの?」
「へっ?」
一華は、手元の箸を落としそうになり、動きをピタリと止めた。龍輝の口から唐突に発せられたその言葉の破壊力に、頭の中が真っ白になる。
「ふっ……すまない、一華。」
向かい側に座ったシンは、先ほどの出来事を思い出したのか、こらえきれずに吹き出しそうになりながら説明を始めた。
「さっき、サンがおっぱいを吸われてただろ? あれを見て、龍輝は『自分だったらおっぱいが出ると思った』らしくてな……。ゴンに飲ませようとして自分の服を一生懸命めくっててさ……」
シンは思い出し笑いを必死にこらえつつ、続ける。
「だから俺が、『サンも龍輝もパパも、男だからおっぱいが出ない。』って教えてやったんだ。そしたら『ママは?』って聞くから、『ママは出るには出るけど、今は赤ちゃんがいないから出ない。』って説明したんだが……」
シンはそこで一度言葉を切り、苦笑を浮かべた。
「目の前に『ゴン』という赤ちゃんがいるのに、なんでママからは出ないのか、よく分かっていなくてな。さっきからずっと首を傾げていたんだよ。」
一華は、顔を真っ赤にしながら龍輝の顔を見た。
「ふふっ……そっかぁ。ママはね、龍ちゃんを産んだばかりの頃はたくさん出てたんだけどね。龍ちゃんがこうやってすくすく大きく育ったから、もう出なくなっちゃったんだよ……って言っても、まだわかんないよねぇ。」
一華が少し困ったような、しかし愛おしそうな笑顔を浮かべながら言うと、龍輝は「?」と首を傾げた。
「……弟か妹か産んだ時には出るようになるんだけどね。」
一華は少し考えて口にした言葉に、龍輝は無邪気にこう続けた。
「じゃぁ、うんでー。」
深い意味など全くなく、ただその場の流れで、聞こえた言葉をオウム返しにしただけの無垢な一言。
だが、その言葉の威力は絶大だった。
一華とシンは、同時にピタッと動きを止め、みるみるうちに顔を真っ赤に染め上げた。今さらだが……。
――二人目が欲しいという気持ちがまったくなかったわけではない。龍輝の育児がようやく一段落し、少しずつ落ち着いてきたところだ。けれど、プリンの種類も増え、毎日の仕事は忙しさを増すばかり。最近では和の国の要人からの特別依頼まで舞い込み、アーリンの出産休暇も間近に迫っている。今、自分が妊娠でもしようものなら、シンの負担がどれほど増すか……。
頭の片隅でそんな現実的な計算がよぎり、一華の表情にわずかな葛藤の影が落ちた。しかし、夫であるシンは、その妻である一華の小さな迷いを見逃さなかった。
シンは静かに、しかし真剣な眼差しで一華を見つめると、ゆっくりと口を開いた。
「一華。仕事の負担やタイミングのこと、気にしているなら……そんなの心配しなくていいからな。」
「シン……。」
「龍輝の時だって、アーリンの妊娠期間と重なっていたんだ。今さら二人目が重なったところで、大して変わらないさ。」
シンの優しく力強い言葉に、一華は胸が熱くなるのを感じた。シンの顔を見つめ、少しだけ震える声で答える。
「……うん。そうだよね。今さらだよね。」
「あぁ、むしろ、年齢が近い方が、おむつもミルクも離乳食の準備もまとめてできて、かえって楽かもしれないぞ?」
「ふふっ……なんだかシンまでもが、欲しがってるみたいじゃない。」
一華が照れくさそうに笑うと、シンは真摯な表情を崩さずに頷いた。
「俺は素直に、もう一人欲しいと思っている。でも、何よりも一華の体が一番心配だから……最終的には、一華のペースに任せるよ。」
「うん……ありがとう、シン。」
一華はシンの言葉に素直に頷くと、少しだけ気持ちが軽くなったのを感じて、ふっと笑顔を作った。それから、隣でキョトンとしている龍輝へと視線を向け、優しく尋ねる。
「ねえ、龍ちゃん。これからはパパのお仕事、お手伝いしてくれるかな?」
龍輝は大きな目で一華を見つめると、力強く「うん、うん!」と二度頷いた。
もちろん、仕事を手伝うという言葉の意味がどこまで分かっているのかは怪しいものだが、その返事の勢いだけは一人前だ。
それに釣られるように、今度はシンも龍輝に顔を近づけて尋ねた。
「じゃぁ、龍輝。これからはママのお仕事も、パパと一緒に手伝ってくれるか?」
龍輝は再び「うん、うん!」と元気よく首を縦に振る。
「「ふふっ」」
一華とシンは顔を見合わせ、声を合わせて笑い合った。
この前までは、レイモンドと一緒にリビング内を駆けずり回り、無邪気に遊びに興じていた龍輝だが、両親の仕事姿をいつの間にかしっかりと見ていたのだろう。二人とも、大人の仕事に興味を示しているのは確かなようだ。
もちろん、実際に戦力になるのはまだまだずっと先の話になるだろうが――。
「いつか大きくなったら、遊びがてら色々教えていくのも、案外楽しいかもしれないね。」
「あぁ、そうだな。」
新しい家族――小さな白猫のゴンを迎え入れ、賑やかさを増したリビングには、穏やかで甘い家族の時間が、いつまでもいつまでも温かく満ちていた。




