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シン華物語Ⅱ(最強魔王は誰?)  作者: ゆず華


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第2話 真夜中の異変

龍輝が生後六か月を迎えた、ある日の深夜。


一華とシン、そしてサンの体が、突如として『シン華の家』を眼下に見下ろすようにふわりと空中へと浮遊しだした。もちろん、龍輝の姿もあったが、その小さな体は神秘的な淡い光に包まれていた。


シンは一瞬にして事態を把握した。まだ六か月の龍輝が本能的に魔力を解放し、家族全員を空中へとテレポートさせたのだ。


シンは即座に一華と龍輝の傍へ移動し、一華が愛おしそうに我が子をしっかりと抱きしめる。一方、空中をバタバタと泳ぐようにこちらへ来ようとしていたサンも、テレポートの力で手元へと引き寄せた。シンは四人を取り囲むように、強固な結界を張る。


「いったい、何が起きているの……!?」


その直後、主寝室に残されたスマートフォンから、けたたましく緊急地震速報の警報音が鳴り響いた。


数十秒後、月の明かりに照らされた眼下の街で、地底を揺らすような重い轟音と共に、家々が激しく横揺れを始めた。


「……やだ、嘘……地震?」


家がきしむ嫌な音が、一華の脳内に生々しく響き渡る。


しかし、当の龍輝は事態の重大さなど知る由もなく、キャッキャと無邪気な笑い声を上げていた。一華とシンが驚いて周囲を見渡すと、近くで静かに眠っているはずの近隣の人間たちまでもが、次々と空中へと浮遊させられている。


「……事前に地震の予兆を感知して、龍輝が住民も含めて全員を空中へテレポートさせたようだな。」


シンの言葉通り、数十秒間の激しい揺れが収まると、大仕事をやり遂げた満足感からか、龍輝は一華の腕の中ですやすやと眠りについた。それに伴い、空中に浮かんでいた人々は、まるで逆再生の映像のように、元のベッドや布団の上へとふわりと優しく下ろされていく。


人々は自分が置かれた状況を全く理解できぬまま、眠りから引き剥がされるように布団へと戻された。

起き抜けの頭で大地震の恐怖を味わった直後、家屋の屋根や壁をすり抜けて自室に戻るという異常事態に、「夢か幻か」と混乱して頭を抱える者、「壁にぶつかる!」とじたばたともがく者など、反応はさまざまだった。


その間にシンは一華たちを連れ、主寝室へとテレポートで戻る。

一華はベビーベッドに龍輝をそっと寝かせ、シンは床に下りたサンを優しく撫でた。リビングのテレビを点けて速報を確認すると、目に飛び込んできたのはあまりにも衝撃的な文字だった。


『直下型地震発生』


幸い津波の心配は低いものの、深夜の発生ゆえに被害状況は未知数だ。しかし、少なくとも人身被害に関しては、龍輝の奇跡的な力によって『ゼロ』に抑えられたはずだった。問題は、建物やインフラの深刻な被害だ。


「一華、着替えて状況を見てこようと思うが、二人を置いていけない。龍輝を抱いて一緒に来てくれ。」


「わかった。」


一華は三人のパジャマを外出着へと衣装をチェンジさせ、ベビーキャリアを使って龍輝をしっかりと抱え込む。


「サン、ペガサスに変身してくれ。」


サンが神々しく光り輝く真っ白なペガサスへと姿を変える。一華、シン、そして龍輝を乗せると、シンが自身のテレポート魔力を重ね合わせ、夜空へと静かに羽ばたいた。一般の人間たちの目に決して触れぬよう、強力な隠蔽結界で姿を隠しながら、二人は上空から静まり返った街を見下ろす。


月の光が届く範囲で確認する限り、幸いにも大規模な火災は発生していなかった。しかし、古い住宅街では瓦が崩れ落ち、一階部分が完全に押しつぶされているような深刻な家屋被害があちこちで見受けられた。


元居た場所を突如として失った人々は、龍輝の力によって地表へそっと下ろされたものの、靴も履けず、着の身着のまま避難した状態で、なす術もなくパニックに陥っていた。


その上空を、一華たちを乗せたサンが通り過ぎた瞬間、不思議な現象が起きた。

サンの後方から、かつて魔界で見た美しい光の粒が、夜空にきらめく星屑のようにパラパラと降り注いだのだ。


すると――。

完全に押しつぶされていた家屋が、まるで映画の逆再生のように、自ら組み上がりながら元の形へと修復されていく。


ひび割れていた道路は何事もなかったかのように滑らかに塞がり、隆起したアスファルトは美しい平らな状態へと戻っていく。大きく傾いていたビルやマンションも、みるみるうちに歪みが正され、堂々たる元の姿を取り戻した。


「一華、龍輝が再生の魔力を解放して街を修復している! 俺たちもサポートするぞ!」


「わかった!」


シンの指示を受け、サンが上空を旋回する。一華は、どう魔力を解放すればいいのか手探りではあったが、シンと共に持てる限りの魔力を解き放ち、我が子の奇跡的な修復作業を全力でサポートした。


龍輝の力によって地表へ下ろされていた人々は、目の前で繰り広げられる神業のような復旧劇に言葉を失い、ただただ呆然と立ち尽くしていた。


恐る恐る修復されたばかりの自宅に入ってみると、地震が起きる前の日常が、寸分たがわず完璧に再現されている。


何が起きてしまったのか、これは夢ではないのかと怯えながらも、裸足でいたはずの足に傷一つなく、埃ですらついていないことに気付く。避難すべきか家の中に留まるべきか迷った挙句、あまりの平穏さに、そのまま自宅のベッドに再び横たわる者も続出した。



◇◆◇



時を同じくして、政府官邸では大地震発生直後に緊急対策室を設置し、迅速な参集チームを招集する手はずだった。しかし、あろうことか官邸の危機管理施設自体も被災し、連絡網は完全に寸断されていた。震源地がまさに、この国の首都機能の核心部だったからだ。


これでは、迅速な救助活動やその後の的確な指示が出せるはずもない。携帯電話の電波は通じず、離れた場所から被害状況を収集することも、現場へ指令を出すこともままならなかった。


災害対策本部の予備施設へ移動しようにも、発災直後の真っ暗な夜間では、ヘリコプターを飛ばすことすら不可能な状況だった。



◇◆◇



一方その頃、一刻も早く日常を取り戻さなければ、『合同会社SINQ』の業務に支障が出ると、別の意味で気が気ではないシンたちの戦いがあった。一華の作る『フロールナ・プリン』の仕込みが遅れれば、それだけで莫大なビジネスチャンスが失われてしまう。



「サン、もっとスピードを上げてくれ!」


シンの命じに従い、サンが夜空をさらに加速する。シンと一華も魔力を一段と高め、街の修復作業に拍車をかけた。あちこちに散らばっていたがれきは、元あった場所をまるで記憶しているかのように、目にも留まらぬ速さで組み合わさっていく。


どんなに過酷な夜であっても、地球の自転を止めることはできない。やがて東の空が白み始め、『暁』と呼ばれる静かな時間帯が訪れた。眼下に広がる街並みは、つい数時間前まで大地震の爪痕に泣いていたとは思えないほど、完璧に美しく修復されていた。


「サン、修復作業は完了したようだ。家に帰ろう。」


「にゃんにゃー……!(了解にゃ!)」


サンは美しい急旋回を描き、『シン華の家』へと舞い戻った。



◇◆◇



家に戻った一華とシン、そして龍輝は、外出着からパジャマへと衣装を戻す。


「にゃんにゃー……(お腹空いたにゃ!)」


「一華は少し寝ていてくれ。サンにご褒美でもあげてくる。」


シンはサンを連れて一階へ下り、大好物の猫缶を開けて食器に移してやる。サンはよっぽどお腹が減っていたのかガツガツと夢中で平らげ、水を飲むと、自分のベッドで再び丸くなって心地よさそうに目を閉じた。


食器をきれいに片づけたシンは再び二階へ上がり、すやすやと眠る龍輝の様子を確認してから、すでに深い眠りへと落ちた一華の隣に静かに横たわった。



◇◆◇



それから数時間後。龍輝の元気な泣き声で、二人は目を覚ました。

不思議なことに、夜中のような超常現象でオムツが浮くこともなく、今はごく普通の、純粋な赤ん坊の授乳時間だった。

一華が眠い目をこすりながら母乳を与え、シンは手早く身支度を整えて一階へ下り、家族の朝食の準備に取り掛かる。


授乳を終えた一華も身支度を済ませ、龍輝を抱っこしてリビングへと下りてきた。


「「おはよう」」


リビングの一角にあるベビーベッドへと龍輝を寝かせる。いつもなら龍輝を見つけてサンが駆け寄るはずだが、今は心地よい疲労からか、へそ天状態で爆睡中だ。


「一華、もう起きて大丈夫か?」


「うん。ご飯を食べたら、もう少し横になる……それにしても、世間の地震のニュースはどうなっているのかなぁ。」


テレビを点けると、どのチャンネルも深夜に発生した突然の直下型地震について一斉に報じていたが、画面に映し出されるのは局内の激しい揺れの映像や、街なかの定点カメラが捉えたわずかな映像ばかりだった。


「どうやら、致命的な被害は報道されていないようだな。」


「ねぇ……深夜のあれは、完全に龍輝の魔力だったよね?」


「あぁ、龍輝の『再生』の魔力だ。……とてつもない、底知れぬ力を秘めている。」


湯気の立つ温かいご飯と味噌汁、きれいに焼き上がった出汁巻き玉子をテーブルに並べ、二人は朝食を口に運んだ。

やがて、テレビ画面が切り替わり、気象庁の緊急記者会見が始まった。直下型地震であったことは間違いなく、今後一週間は余震への注意を怠らないようにとのアナウンスが繰り返される。


通常であれば、テレビ局がヘリから撮影した現地の生々しい被害映像や、深刻な瓦礫の山が朝のニュースで大々的に報じられるはずだ。しかし、今回はそれが一切ない。

アナウンサーの口から語られるのは、一般市民からSNSなどを通じて寄せられた、あまりにも奇妙で不可解な証言の数々ばかりだった。


――「地震が来る直前に体がふわっと宙に浮いて……気づいたら家が何事もなく元に戻っていたんです」

――「あれは、夢オチってやつなんじゃ……?」

――「あれが幽体離脱か……?」

――「きっと宇宙人の仕業とか……そういうやつだよな?」


最後の一般人のコメントに、一華とシンは思わず顔を見合わせ、絶句する。


「ふふ、宇宙人だってー。」


一華が思わず吹き出した。


「宇宙人が人間の体を空中に浮かせて、大規模な地震を発生させたというのか? なら、一晩で完璧に元に戻った建物の数々をどう説明する気だ?」


「いいじゃない。世間の人たちには宇宙人の仕業にしといてもらえば。魔界のことが絶対にバレないならそれが一番安全だよ。」


続いて、政府官邸からの記者会見に中継が切り替わった。


『深夜に発生した地震については、確かに直下型地震であり、マグニチュードの観測値にも間違いはありません……ですが、現在に至るまで、人的被害、物的被害は一切確認されておりません。』


『どういうことですか!? あれだけ激しい横揺れが起きたというのに、被害がゼロなんて科学的にあり得ますか!?』


会場の記者たちから、怒号のような質問が殺到する。


『気象庁の発表した数値に間違いはありません。地震直後は通信障害もあったようですが、現時点において人身被害も家屋の倒壊も一切確認されていません。国民の皆様は、昨日と変わらない平穏な朝を迎えることができています。』


『それは一体どういうことですか……!』


政府の公式見解と、肌で揺れを感じた記者たちの疑問は完全に平行線をたどる。不穏な空気を察したのか、情報番組は早々にスタジオの専門家の解説へと画面を切り替えた。


そこに映し出されたのは、一般の住民がスマートフォンで偶然撮影したという、『激しく潰れた家屋が、みるみるうちに逆再生のように元の形へと修復されていく瞬間』の、いささか不鮮明な映像だった。


「い、一華、いま画面を見たか!?」


シンの目が大きく見開かれる。


「ん? なにが?」


一華は美味しそうな玉子焼きに箸を伸ばしており、ちょうどテレビ画面から目を離していたところだった。


「潰れた家が修復されていく映像が流れた……。まるで映画の逆再生のように、そのままの姿で。」


「えっ? じゃあ、私たちも映ってたの?」


「いや、映っているのは崩れた家屋の映像だけだ。俺たちは一切映っていないし、龍輝の放った光の粒もカメラには捉えられていない。」


「じゃぁ、誰かのイタズラかフェイク画像だって世間は思うんじゃない? テレビ局のプロのカメラ映像ならともかく、個人のスマホ映像なんて幾らでも加工できるし、信憑性もないでしょ。そのうちみんな忘れるって。」


「そうだといいが……。」


朝食を食べ終えた一華とシンは手早く片づけを済ませ、一華は再び二階へと上がっていった。どうやら、まだ少し睡眠不足を解消したいらしい。



◇◆◇



それから数分後。

レイモンドを連れたレオナルドとアーリンが、いつも通りの時間に元気に『シン華の家』に出勤してきた。


「「おはようございます!」」


「おはよう」


いつもなら一緒にいるはずの一華の姿が見えないことを心配したアーリンが、きょろきょろと辺りを見回しながら尋ねる。


「一華様は、どうかされたのですか?」


「いや、さっきまで一緒に朝食をとっていたんだが、まだ少し睡眠不足のようで休ませている。実は深夜に大地震が発生してな……街の被害がひどかったから、俺たちで修復作業をしていて明け方に戻ってきたんだ。そういえば、お前たちは見かけなかったな。魔界に帰っていたのか?」


「あ、はい。弟の成人祝いがあり、家族で実家に泊まっておりました。……ということは、街の修復はシン様と一華様のお二人で?」


「いや……龍輝だ。俺たちは魔力を高めてサポートしただけだ。」


「な、なんと……あの小さな体のどこに、そのような魔力が……!」


レオナルドはすやすやと眠る龍輝を見つめ、驚愕の色を隠せない。


「あぁ、しかも、自身の持つ魔力を使うべきタイミングを、あの歳にして本能で完全に理解しているようだ。レオナルド、アーリン、買い出しのついでに、周辺の被害が完全に消え去っているか確認してきてくれ。」


「承知いたしました。ところで、今日のプリンの材料はどうなさいますか?」


「いつも通り、通常分を仕入れてくれ。」


「かしこまりました。では、行ってまいります。」



アーリンはレイモンドをリビングのサークル内に下ろし、「ママ、お仕事だからここでいい子にして遊んでてね。」と優しく声をかけると、レオナルドと共に小型トラックSINQ(シンカ)号を発進させた。レイモンドは寂しがることもなく、新しいおもちゃに手を伸ばして一人遊びを始める。




運転するレオナルドの横で、アーリンは車の窓からあちこちに目を配り、地震の爪痕が本当に残っていないかを注意深く確認する。


「本当に大地震なんて起きたのかな?」


「おそらく……、スマホを見てみろ。」


アーリンがバッグからスマホを取り出し、ニュースアプリを起動させる


「うそ……ものすごい勢いで、潰れた家が元の形に戻っていってる……。まるで映画の逆再生みたいに。」


「それがこの地域全体で起きていたとなると……一晩、いや数時間で街を丸ごと元に戻す魔力が、どれだけ強大か。 いくら、シン様と一華様がサポートしたとはいえ……。魔王族の底知れぬ力を持つ龍輝様をこれから育てるのは、俺たち家臣の想像を絶するかもしれないな。」


「レイモンドに、龍輝様の専属護衛が本当に務まるのかな……?」


「いや、レイモンドだけじゃない。魔界中の同世代の子供を探したって、従来の護衛任務の常識だけでは足手まといになりかねない。あいつは右腕となれるよう、俺たちがしっかり叩き込んで育てないと……。」



☆彡☆彡☆彡【回想】


数年前。レオナルドとアーリンは、魔界で盛大な結婚式を挙げた。魔界にも縁結びの神様が降臨したのか、アーリンは純白のウェディングドレスに身を包み、レオナルドはビシッとタキシードで決めて、多くの仲間たちに祝福された。


将来の護衛任務を強く希望するだけあって、故郷では男勝りで凛々しいことで知られていたアーリンだったが、人間界の美しい衣装に身を包んだ彼女の姿に、両親や弟たちは心からの感嘆の声を漏らしていた。


結婚を機に二人は『シン華の家』のほど近くに一軒家を購入し、生活の拠点を人間界へと完全に移した。生まれてくる子どもを、一華とシンの子どもの忠実な護衛として育てるためだ。その願い通り、約一年前に一人息子のレイモンド(人間界での戸籍名を『怜』とした)が生まれ、アーリンは数日前にようやく育児休暇が明けたばかりだった。


しかし、アーリン一人だけにワンオペ育児を強いるのは物理的にも精神的にも無理があると判断され、育児休暇中であっても親子三人で一緒に職場へ出勤し、仕事の合間に見守るスタイルがとられていた。


この国では本来、育児休暇の取得が法律で義務付けられているが、当事者たちにすれば、収入が減る上に一日中赤ん坊の世話に追われ、自由時間が完全に奪われるのは窮屈でしかなかった。小さな赤ん坊を連れての日常の買い物すら、当時の二人にとっては一苦労だったのだ。


そこでシンが粋な提案をした。


『体の調子が戻ったなら、一緒に出勤して『シン華の家』で子育てをすればいい。サンもいるし、誰かが常に赤ん坊を見守っていられる環境を作ろう。育児休暇中であっても、魔界の会社から給料は全額支給する。』と。


シンのその狙い通り、赤ん坊の存在があることで、仕入れるベビー用品の幅も自然と広がり、子育て中の一般の母親たちが本当に求めているものが手に取るように分かるようになった。一華とシンにとっても、自分たちの本格的な子育てに向けた最高の予行演習となっていた。


そのおかげで、龍輝が実際に生まれてからもベビー用品に事欠くことはなく、レイモンドが成長するにつれてリビングのおもちゃもどんどん充実していった。今や部屋のあちこちにたくさんのおもちゃがあふれ、龍輝もそれらを投げたりしながら、一緒に楽しく遊ぶほどになっていた。


☆彡☆彡☆彡



普段の買い出しはジャンがレオナルドの相棒を務めるが、今日はジャンが別の業務で手が離せないため、代わりにアーリンが買い出しに付き合う決まりになっていた。たまにこうして夫婦二人で買い出しに出かけるのは、個人的な日用品の買い物もでき、日々の良い気分転換にもなると、二人は大いに歓迎していた。



一方の『シン華の家』では、シンがサークル内のレイモンドに時々温かいまなざしを向けつつ、ネットでの発注業務を素早く済ませ、今度は龍輝のための離乳食作りへと取り掛かっていた。


魔力を使って空中浮遊する以外は、龍輝の食生活はごく普通の赤ん坊と変わらず、一度に食べる量が特別多いわけではない。シンがスマートフォンで手際よく離乳食のレシピを検索しながら仕上げ、人肌に冷ましているところに、一華が二階から下りてきた。


「もう起きて大丈夫か?」


「うん。そろそろ龍ちゃんの離乳食の時間かなって思って。」


一華が龍輝のベビーベッドに歩み寄ると、気配を察したのかサンが起き出し、大きな伸びをした後にトコトコと水を飲みに行った。


母親の気配を感じ取った龍輝はぱっちりと目を覚まし、ベッド脇に置いてあったオムツ入れのケースがふわりと楽しげに宙に浮いた。一華が手早くオムツを替えてやると、龍輝は「抱っこして」とばかりに小さな両手を精一杯伸ばし、自分の体をふわりと浮遊させて一華の胸元へと飛び込んできた。一華は愛おしそうに我が子をギュッと抱きしめるが、すぐに苦笑する。


「シン、龍ちゃんがまた浮遊の魔力を解放しだしたよ。」


「……やはり、昨夜の大地震が良い刺激になってしまったか。」


ベビーチェアに座らせた龍輝の前に、シンが手作りした離乳食を置く。一華がスプーンで優しくすくい口元へ運ぶと、龍輝は素直に小さなお口をあーんと開けて美味しそうに頬張った。嫌がる素振りは一切なく、もぐもぐとかわいく口を動かしては、「あっ、あっ」と次のひと口を催促する。


すり潰した野菜をあっという間にすべて平らげたが、まだどこか物足りなさそうな、もっと欲しそうな表情を浮かべている。一華はレイモンドに背中を向けると龍輝を再び抱き上げ、たっぷりと母乳を与えた。


「明日からは、離乳食の量をもう少し多めに増やしてみるか。それとも、昨夜の地震で魔力を使い過ぎて、単純にお腹が空いているだけか?」


「どうなんだろうねぇ。この国の同い年の平均的な体格をすでに優に超えてるみたいだし、少し多めに用意してあげた方がいいのかも。」


「今まで一華の母乳だけでよくここまですくすく育ったものだ……。」


「魔界人の母乳には、何か特別な栄養でも含まれているのかな?」


「レオナルドもアーリンも、特に何も言っていなかったが……。」


「さぁ、お腹もいっぱいになったみたいだし、レイ君とサンちゃんと仲良く遊んでおいで。」


一華は龍輝に可愛いゲップをさせると、リビングのサークルの中へとそっと下ろした。

すると、待っていましたとばかりにサンがすたすたと走り寄って隣に陣取る。龍輝は得意げに魔力を解放し、おもちゃを器用に空中へ舞い踊らせてサンと戯れている……というより、むしろサンをまるで手玉に取っているかのように華麗に遊ばせていた。


レイモンドはその不思議な光景に目を奪われ、サンと一緒に必死におもちゃに手を伸ばしている。いつの間にか、レイモンドの目の前でも龍輝は魔力を隠さなくなっていた。


レイモンドも少しずつ歩けるようになってはいるものの、まだ足元が不安定でバランスを崩しやすい。龍輝はあえて宙に浮かべたおもちゃをくるくると楽しく回転させ、サンのようにレイモンドを愛らしく翻弄する。レイモンドが尻もちをついても決して泣くことはなく、すぐにニコニコと立ち上がって再び小さな手を伸ばした。


「レイ君って、本当にお兄ちゃんみたいに我慢強くて優しいよね。」


一華が目を細めながら微笑ましく呟く。


「龍輝の遊び相手としてはこれ以上ない逸材だな。本当に、実の兄弟みたいなものだ。」


シンがしみじみ呟き、さらに続ける。


「もし本当に兄弟がいたら、こんな感じの賑やかさなのだろうか?」


「ふふ、でも、なんだか立場が逆じゃない? 一般的には、弟の方がお兄ちゃんに遊ばれるものなんじゃ……ほら、レイ君の方がすっかり龍輝に遊ばれてるよ!」


「ふっ、それはきっと……一華の遺伝に違いないな!」


「えっ? どういうこと?」


「高校生の時、よく俺をからかって遊んでいただろ?」


一華は図星を突かれたのか、ふふっと苦笑いしてごまかした。



◇◆◇



そうこうしているうちに、レオナルドとアーリンが買い出しの品を積んで家へと戻ってきた。一華を残し、シンだけが車庫へと向かう。プリンの材料以外の大量の日用品は、車庫内で瞬時に魔界文字へと書き換えられ、そのまま魔界の大型倉庫へとテレポートされていく。


魔界倉庫では、リアムとマリーがテレポートされてきた商品を迅速に入庫処理し、空いた棚へと補充していく。


プリンの材料だけを大切にキッチンへと運び入れたシンとレオナルドは、さっそく息の合った様子でプリン作りに取り掛かった。


アーリンはサークル内のレイモンドの元へと駆け寄り、大好きな母親の顔を見つけたレイモンドはトコトコと嬉しそうに歩み寄る。


「チー(おしっこ)」


アーリンはレイモンドの小さなサインを察知し、急いでトイレへと連れて行く。アーリンが戻ってくるまでお利口にじっと我慢していたようで、一華やシンには一切甘えを漏らさない、実に手のかからない優秀な息子だった。


「シン様、周辺をくまなく確認してまいりましたが、やはり人間の街には被害の痕跡は一切残っておりません。ただ……街の店舗や住民の間では『あれは凄まじい予知夢だったんだ』という噂が瞬く間に広まり、防災用品や保存水、非常食などがどこの店でも飛ぶように売れているそうです。」


「予知夢、か……。あまりに非現実的な出来事を体験したせいで、人間たちはそうやって脳内で辻褄を合わせているわけだな。」


「んー、でも確かに、一睡したあとだったら『変な夢を見たな』って自分の中で片づけちゃいそうだけどね。」


一華は一睡してまだ夢うつつなのか、自分が当事者であるにもかかわらず、どこか他人事のようにのんびりと頷いた。

レオナルドが苦笑交じりに言葉を継ぐ。


「逆に、我々にとっては好都合なのではありませんか? 夢としてうまく片づけてくれる方が、この国の人々にとっても平穏です。あんな大々的な現象が万が一、昼間に起きていたら、海外の衛星やテレビの報道カメラに完全に捉えられて大騒ぎになっていたでしょうからね。」


「まぁ、そうだが……それにしても、龍輝の魔力のおかげで救われたのだから、人間どもはもう少し有難がってくれてもいいものだがな。」


「ダメダメ。人間の目に魔力の証拠を残しちゃいけないのよ。」


シンのぼやきを、一華がピシャリと否定する。


「龍輝が『みんなを助けたい』って純粋に思って自発的に解放した魔力なんだから、感謝を強要するような偽善にしちゃダメだよ。」


「そうだな……一華の言う通りだ。」


シンは気持ちを切り替え、再び目の前のプリン作りに全神経を集中させた。シンが特製のみりんシロップの煮詰めを担当するようになってから、味のブレが完全に消え去った。以前は一華が担当していた際、少しでも集中を欠くと火加減や時間のタイミングがわずかにずれてしまい、味が微妙に変わってしまっていたのだ。


プリン液がなめらかに仕上がると、耐熱容器へと丁寧に流し込み、オーブンでじっくりと時間をかけて焼き固めていく。


その甘い香りが漂う合間に、今度はレイモンドのおやつの時間となった。プリンはまだ赤ん坊には早いので、柔らかいバナナを食べやすい大きさに切って与える。


それを見た龍輝は、「あっ、あっ!」と声を上げ、レイモンドが手にしているバナナを小さな指で一生懸命に指さして強烈にアピールした。


「さっき離乳食をたっぷり食べたばかりなのに、まだ食べるの? 龍ちゃん、そんなにお腹が空いてるの?」


一華が苦笑しながらバナナをスプーンで少し潰して口元へ運ぶと、龍輝は嬉しそうにパクッと大きな口で頬張り、もぐもぐと実に美味しそうに完食した。そして、満足するどころかすぐさま「あっ、あっ!」と次の追加を要求する。


今日一日の龍輝は、いつにも増してすさまじい食欲を見せていた。

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