第1話 誕生
20××年×月×日、この国の夜は、煌々と輝く満月の神秘的な光に包まれていた。
「オギャー、オギャー」
待ちに待った第一子となる男児が、この世界へと産声をあげる。
◇◆◇
一週間の入院期間を経て自宅へと戻ると、リビングの一角にはすでに特製のベビーベッドが設置され、真新しい布団が主の訪れを静かに待ちかねていた。
しかし、その小さな主がベッドに入るより先に、大きくたくましい腕へとそっと預けられる。
「じぃじだよー!」
母親の手を離れたことなど知る由もなく、すやすやと穏やかな寝息を立てる赤ん坊。
『じぃじ』となった魔王ハオは、小さな孫を壊れ物でも扱うかのように、恐る恐る、しかし全身で喜びを噛みしめるように抱きかかえた。
ソファへと腰を下ろした一華が、ふうっと長く息をつく。
「ふわぁー、やっぱり、我が家が一番落ち着くねー!」
「本当にお疲れ様!」
『ばぁば』となったアズサから、温かい労いの声がかかる。まだ若々しいアズサが早くも『ばぁば』になったというのに、その瞳は我が子を見つめる時以上に愛おしげに細められていた。
ハオにとっても、こんなにも小さな赤ん坊を間近で見るのはシンが生まれた時以来のことだ。愛娘である一華の時は、魔界の政務に追われて抱くことも育てることもできなかった分、今回の感慨はひとしおだった。
「シンに似ているな。シンも生まれた時はこんな顔をしていたぞ。」
「だよねぇ。……将来の学校生活は色々と大変そうだなー。」
一華は、息子がシンの二の舞にならないかと、早くも余計な心配を口にして苦笑する。
一方のシンは、一華の入院中の荷物を手際よく片づけていた。
「一華、名前はもう決めたの?」
アズサの問いに、一華はシンへと視線を投げる。
「あ、シン、用意してくれた?」
「あぁ、そうだ。持ってくる。」
シンは二階の主寝室へ命名書を取りに行き、木製の美しいフレームに入ったそれを手に下りてくると、リビングのチェストの上に丁寧に飾った。
「『龍輝』です。」
「かっこいい、素敵な名前ね。」
「魔界でも呼びやすく、人間界でも同じ呼び名として通用するように、漢字で表記できる名前にしたの。今日から『龍ちゃん』だよ。」
「リューキか、なんだか強そうな、いい名前だな!」
ハオの目じりが、我が子の時とはまた違う、深い慈愛の色を帯びて優しく垂れ下がった。
「にゃんにゃ……!(俺の弟にゃ!)」
「サンちゃん、今日からお兄ちゃんだから、龍ちゃんに優しくしてあげてね。」
「にゃんにゃ……(任せろにゃ!)」
愛猫のサンも誇らしげに胸を張る。
「さぁ、冷めないうちにみんなで食べましょ。」
アズサはハオの腕から龍輝を難なく受け継ぎ、優しくベビーベッドへと寝かせる。
「一華の時より、随分としっかりして重いわね。」
一華が入院している病院へシンが迎えに行っている間に、アズサが手早く祝い膳を作ってくれていた。一人分ずつ美しく盛り付けられた伝統的な料理の数々が、テーブルの上で食欲をそそる。
「ママが作ったの? すっごーい! いっただきまーす!」
一華が真っ先に箸を伸ばし、一口頬張る。
「んー、美味しいー!」
「こんな豪華な料理は初めてです。盛り付けも美しくて……本当に美味しい。」
シンも一口食べ、心からの感嘆の声を上げた。アズサは嬉しそうに微笑む。
「豪華でも何でもないわよ。この国では節目に縁起物を食すのよ。お赤飯や尾頭付きの鯛、出世魚のお造りに、紅白なます、それに夫婦円満を願ってハマグリのお吸い物とかね。久しぶりの本格的な料理だったから口に合うか心配だったんだけど、そう言ってもらえてよかったわ。」
考えてみれば、家族水入らずで囲む食卓はこれが初めてだった。今まで食事の席には常に給仕の従者が控えていた。しかも今日は、レオナルドもアーリンも気を利かせて遠慮したため、護衛任務の任を解き、会社も休みにしていた。
「一華は、明日からもう仕事に復帰するの?」
「うん、仕事と言ってもプリン作りだけだし。みんなが手伝ってくれるから大丈夫だよ。」
シンがすかさず穏やかに補足する。
「一華には、最後の『フロールナ・パワー』の注入をしてもらうだけですので、体への負担も最小限です。」
「でも、体は本当に大丈夫なの? 魔力を解放しているんでしょ?」
アズサは、産休明けの一華の体を心の底から心配していた。
「それがね、自分でも不思議なんだけど、魔力を解放している感じが全然しないんだよね……。いつもみたいに強く念じてはいるんだけど。」
「そうなの? でも、疲れたら無理をしないで早めに言うのよ。ママが龍輝のことはいくらでも見てあげるから。」
その後、ハオとアズサは片づけを済ませると、名残惜しそうに常時接続されたゲートを抜けて魔界へと戻っていった。
こうして、とうとう家族三人きりの静かな夜が訪れた――かに思われたが。
「フギャー、フギャー」
静寂を破るように、龍輝が突如として激しく泣き出した。
一華とシンは慌てて顔を見合わせ、「オムツか?」「それとも母乳か?」と、呼吸を合わせてベビーベッドへと駆け寄る。
一華がオムツの具合を確認しようと手を伸ばした、その瞬間だった。
ふわふわと紙おむつが一つ、まるで意志を持っているかのようにふわりと宙に浮き、一華の手元へと自ら近づいてきたのだ。
二人は驚いて目を見開き、顔を見合わせた。
「シン……?」
「いや、俺じゃない。」
「にゃんにゃん……(にゃんか臭うけど、俺の魔力じゃにゃいにゃん。)」
愛猫のサンまでもが前足を振って魔力の解放を否定する。その直後、シンはハッとしたように目を見開いた。
「……龍輝から、かすかな魔力を感知する。」
一華が恐る恐るオムツを交換してみると、事前に産院で教わった手順通りに手がスムーズに動き、驚くほど手早く、完璧に終わらせることができた。
「なんか、まるで操作されているみたいにスムーズだったな!?」
「なんだろう、体が勝手に動くというか……。」
「これも、龍輝の魔力なのか?」
「……間違いないね。オムツ替えだよって教えてくれて、お世話の手際までよくしてくれたんだ……。」
「病院にいた時はどうだったんだ?」
「お部屋が別々だったから分からないけど……、龍ちゃん、魔力なんて使ってなかったよね? 看護師さんたちも何も言っていなかったし……。」
「つまり、俺たち二人きりになった途端に、魔力を解放しだしたってことか!?」
「にゃんにゃ……(さすが俺の弟はえらいにゃ!)」
「シンも、赤ちゃんの頃はこんな感じだったのかな?」
「どうだろうな? 人間界で育てられていた時の感じでは、義父上も義母上も特に何も言ってなかったしな。」
二人の強力な遺伝を濃く受け継いだ龍輝は、生後七日目にして早くも魔界人としての強大な力を無意識のうちに覚醒させてしまったらしい。このまま人間界で普通に育てていってよいものか、一華とシンの悩みの種がまた一つ、静かに増えた瞬間だった。
その後の沐浴の際も全く同じだった。まるで新米の両親を導くかのように不思議な魔力が働き、初めての沐浴とは思えないほど手際よくこなしてしまった。一華は、魔界人の赤ん坊というのはこれほどお世話が簡単なものなのかと、密かに感心させられていたのだった。
◇◆◇
翌日、レイモンドを伴ったレオナルドとアーリンが、いつも通りに出勤してきた。
「一華様、ご出産、本当におめでとうございます。」
アーリンから一華へ、温かい祝福の言葉と共に可愛らしい出産祝いが手渡される。
「ありがとう! わぁ、わざわざ気を使わせちゃってごめんね。」
一華は満面の笑みで、ラッピングされた豪華なオムツケーキを受け取った。
「レイモンドの出産の時にいただいたオムツケーキがとても重宝しましたので、私たちも同じものを選ばせていただきました。」
「オムツケーキなんて、最初に考えた人って本当に天才だよねぇ。」
不思議なことに、三人が出勤してくると、龍輝はピタリと不思議な魔力の解放をやめるのだった。誰かの前ではただのすやすやと眠る穏やかな赤ん坊に戻り、交代で抱っこされてもぐずることすらない。
一華がプリン作りに取り掛かっている最中も、サンと一緒にベビーベッドでおとなしく眠っている。しかし、一華の手が止まると、『お腹が空いた』、『オムツを交換してくれ』と、決まって絶妙なタイミングで激しく泣いて教えてくるのだった。
「にゃんにゃ……(オムチュ臭いにゃ!)」
オムツを替えてほしいと泣く時はサンが伝え、そうでない時は二階の主寝室へと移動して母乳を与える。そんな独特のルーティーンが、いつの間にか自然と出来上がっていた。
生後一か月を迎える頃には、ハオとアズサも交えて和やかなお宮参りに出掛け、生後百日目には伝統的なお食い初めの儀式も滞りなく済ませた。
その間も、両親以外の誰かの前では決してその強大な魔力を表に出さず、徹底して『普通の赤ん坊』として振る舞い続ける龍輝の姿に、一華とシンは感心するばかりだった。
生後五か月が近づく頃には、龍輝は一人でお座りができるようになっていた。大人が見ている前では普通におもちゃを投げ、誰もいない隙を見計らっては、小さなおもちゃを宙にふわりと浮かせてサンと一緒に楽しそうに遊び始める。
サンにとってもこの上なく格好の遊び相手ができ、一緒に遊び、一緒に食べ、ベビーベッドで並んで昼寝をするのが毎日の日課となっていた。
夜のとばりに包まれると、龍輝は二階の主寝室にあるベビーベッドへ。一華とシンはこれまで通り寄り添って同じベッドで眠り、サンは一階の特等席である自分のベッドで丸くなって深い眠りにつく。
それこそが、魔界と人間界の絆を繋ぐ、この家族にとってかけがえのない揺るぎないルーティーンだった。




