エピローグ:泥水のように苦く、そして甘い追憶
時は流れ、数十年後。
扶桑国、常陸の国――水戸・西山荘。
庭の紅葉が色づき、秋の深まりを告げる静かな昼下がり。
縁側には、一人の老人が腰を下ろしていた。
白髪と白い髭を蓄え、好々爺といった風情だが、その眼光には若き日と変わらぬ、射抜くような理知の光が宿っている。
のちに「水戸黄門」として諸国漫遊の伝説を残し、『大扶桑史』の編纂に生涯を捧げた名君――徳川光圀である。
「ご隠居様。……長崎の奉行所より、極秘の届け物が参っております」
背後から、しわがれた、しかし芯の通った声がした。
かつての美青年もすっかり白髪の老爺となった、佐々木助三郎(助さん)だ。
「長崎から? 珍しいな」
光圀が振り返ると、そこにはもう一人、巨体を丸めた老人が立っていた。
渥美格之進(格さん)である。
彼の手には、厳重に封がされた木箱が抱えられていた。
「どうやら、南蛮船が持ち込んだもののようです。宛名は……『扶桑国のミツへ』と」
格さんが、怪訝そうな顔で木箱を光圀の前に置く。
「ミツ……だと?」
光圀の目が、僅かに見開かれた。
その呼び名を使う人間を、彼はこの世界で一人しか知らない。
「格、開けてくれ」
「はっ」
格さんが慎重に木箱の蓋を開ける。
中から現れたのは、見慣れない黒い豆が詰まった麻袋と、厳重に封蝋が施された古い羊皮紙の手紙だった。
封蝋に押されていたのは、スペイン王家の紋章ではない。
海を駆けた、誇り高き『黒き聖母』のスタンプだ。
「……助、格。人払いをしてくれ」
光圀は静かに命じた。
「御意」
二人の老臣は、主君のただならぬ気配を察し、音もなく縁側から姿を消した。
秋風が吹き抜ける中、光圀は震える手で羊皮紙の封を切った。
そこに記されていたのは、流麗なスペイン語の筆記体。
光圀の脳内に、あの燃えるような赤髪の少女の声が、数十年の時を超えて鮮やかに蘇る。
『親愛なるミツへ。 この手紙が届く頃、お前はきっと立派な「王」になっていることだろう。 私か? 私はもう船を降りた。今は海辺の小さな町で、次代の船乗りたちに海の広さと、海賊としての誇りを教えている』
光圀の口元が、自然と綻んだ。
(……相変わらず、強気な女だ)
『インカの都は、あれから少しずつだが良くなっている。 お前が直してくれたあの「術式」は、今もあの町の広場で、穏やかな光を放ち続けているそうだ』
手紙は、かつての冒険の思い出と、世界が少しずつ前へ進んでいることを伝えていた。
そして、羊皮紙の最後の行には、こう記されていた。
『お前が国へ帰る日。あの波音にかき消された言葉を、ようやく伝える気になった。
――「どうやら私、お前という泥まみれの馬鹿な男を、死ぬまで忘れられそうにない」と。
追伸。 あの泥水の豆を送る。お前好みの、とびきり甘い淹れ方で飲むといい。 ……いつかまた、あの海で逢おう』
光圀は、手紙を静かに膝の上に置いた。
秋の空は高く、どこまでも澄み渡っている。
あの日の、太平洋の空のように。
「……忘れるわけがねぇだろうが。海賊王の淹れた、あの不味い泥水の味を」
光圀は目を閉じ、天を仰いだ。
シワの刻まれた頬を、一筋の涙が伝い落ちる。
それは、国を背負う重圧から解放された、ただの一人の「男」としての涙だった。
「……助、いるか」
光圀が声をかけると、障子の向こうから「はっ」と返事があった。
「この麻袋の中の豆を、細かく砕いて熱湯を通し、そのしずくを集めてくれ。……ああ、それと、砂糖と乳を、これでもかというほどたっぷりとな」
「……承知いたしました」
しばらくして、縁側に一杯の熱い飲み物が運ばれてきた。
黒く、濁った液体。だが、その香りは、光圀の胸の奥底に眠る「野心」と「初恋」の記憶を呼び覚ます魔法のようだった。
光圀はカップを手に取り、ゆっくりと口に運ぶ。
そして、西の空を見つめながら、満足そうに微笑んだ。
「……ああ。悪くねぇ」
泥水のように苦く、そして、どこまでも甘い追憶の味。
水戸の暴れ龍の心は、今もあの果てしない大海原を、一人の気高き海賊王と共に駆け巡っているのだった。
(水戸黄門外典 光圀は海賊王がお好き 完)
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