第86話 後場
町中華を出た俺達は、照りつける昼の陽射しの中を歩き、再び道造さんの家へと戻った。
12時半を過ぎていたので、後場の相場はすでに始まっている時間だ。
「さて、どんな動きをしていたかのう」
道造さんは椅子に腰を下ろすと、慣れた手つきでパソコンをつけ直し、チャートと板をじっと見つめ、下顎を撫でる。
「フーム。だいぶ下げておるのう。この様子だと、今日の下値はもうそろそろかもしれん」
「やっぱり、今日は下げる日なんですね。落ちるナイフは拾うな、ですか」
「確かにそうなんじゃが――」
道造さんは、マウスを動かしながら続ける。
「この諺、リアルに当てはめる時には、いろいろな見方ができるんじゃ。一日の動きでは下がるナイフじゃが、週足――一週間単位の動きで見れば、落ちるナイフではない。長いスパンで見れば、上昇相場の銘柄じゃ」
「へー。そうなんですか?」
「ほら、過去一年の週足チャートを見てみるぞ」
画面が切り替わり、ローソク足がぎっしりと並ぶ長期チャートが表示される。
「波を打ちながら上げ続けておるじゃろう」
マウスカーソルが、ゆっくりと画面の左から右へとなぞられていく。
確かに、細かい上下を繰り返しながらも、全体としては右肩上がりだ。
「ほんとだ……」
俺は思わず身を乗り出した。
「つまり長いスパンでは、落ちるナイフではないんじゃ。昨日今日の下げは、短期的調整局面」
道造さんの指が、画面の直近の下げ部分をトントンと叩く。
「こういう調整を利用して、下値で拾い、高値で売りぬける。それが、デイに限らず株取引のやり方じゃ」
「なるほど…………同じ銘柄でも、1分足、5分足、日足、週足でチャートの形って違うんですね」
「そういうことじゃ」
道造さんは小さくうなずいた。
「最低でも、週足で右上がりの銘柄を選んでおく方が良いのう」
「待っていれば、マイナスがプラスに戻ってくる気がしますものね」
「うむ。それはそうじゃが――」
道造さんは一度言葉を切り、こちらに視線を向けた。
「資金が拘束された状態じゃから、デイトレードとしては失敗じゃがな」
モニターの中では、相変わらず株価が細かく上下を繰り返している。
だが、その一つ一つの動きが、さっきよりもずっと意味のあるものに見えていた。
「そういう時、損きりをして資金の拘束を解くか、拘束を解かずにそのままプラテンを待ちながら、新たな資金で別途デイトレードするかは状況次第じゃ」
「新たな資金が無ければ、やりたくてもできないですものね」
「そうじゃな。どうしても資金を全部使い切って取引したい、という心理になるからのう。実際、新たな資金を用意できんことの方が多い」
俺なんて、絶対そう。
思わず苦笑。
「わしでも、そういうことはある。じゃがな、銘柄ごとに無理なくさばける金額というものがあるんじゃ」
「無理なくさばける金額……ですか?」
「板を見れば分かる。例えば、1枚の買い板に3千株並んでいるとするじゃろう?」
道造さんは画面を指差す。
「株価が1000円なら、その1枚で約300万円分が一気に約定できる計算になる」
「なるほど……」
「この銘柄で1000万円分を売ろうとすると、どうなる?」
「えっと……3枚以上の板を食うことになりますね」
「その通りじゃ。つまり――」
道造さんはゆっくりとこちらを見る。
「1枚の板の中で完結するような細かい値幅取りはできなくなる、ということじゃ」
「ああ……!」
そこでようやく腑に落ちた。
板1枚の中で抜ける利益を狙うなら、その板に収まる金額で取引しないといけない。
3枚に及んだら、その分株価の利幅が動いていなければ利確できない――つまり売り買いできる確率が低くなる。
「じゃから、仮に300万円が適正な取引量なら――」
「残りの700万円は使わない?」
「そう。余剰資金として残しておく」
「なーるほど……」
俺は思わず感心する。
――全部使った方が効率いいと思ってたけど、逆なんだな。
「資金を分けておけば、拘束された時でも次の手が打てる。それに――」
道造さんは、再び画面に視線を戻した。
「無理なロットは、それだけで負けの原因になるからのう」
確かに、以前そう感じたことがあったわ。
あの感覚を分析すると、こういうことになるんだね。
「奥が深いんですね」
「考え方は色々あるし、やり方が違えば当然考え方は違う。これから、いろいろな経験を積ませてやる。わしだって、いくつもの手口を持っておるからのう」
「はい。お願いします」
これは、一つの考え方に過ぎないんだ。
これで全部を分かったつもりになってはいけない。
千変万化のトレードをできるように、道造さんのノウハウのすべてを、この目でしっかり見ていかなくちゃな。
「さて、そろそろいい頃じゃ。それでは実践を見てもらおうかのう…………」
道造さんが、分足チャート、板、MACD、ボリンジャーバンドをチェックし続けながら、嬉しそうに口の端を上げる。
目がぎらぎらと輝いている。
ボリンジャーバンドはー3σ、MACD線は水平に近づき、シグナル線との乖離も縮まってきている。
「今日の終値は、おそらくこの辺りまでは戻すと思うんじゃ。この値なら、かなりの値幅を狙って見たくなるのう」
道造さんの頭の中には、今日一日の値動きがシミュレートされて、そのチャートが描かれているのだろう。
「いいか、天心。ここに厚い板があるじゃろう。この板を抜けて下に行くのは難しい」
「そうですよね。ボリンジャーバンドもMACDもそろそろ反転しそうだと言っってます」
「分かるか。じゃからここの板の上の板に買い注文を出す。この板に出しては後回しにされて、買えずに反転が始まってしまうからのう」
「この板に出すんじゃないんですか?」
「うむ。この板は、さっき一度食いきられて、また復活してここまで厚い板に成長しておる。二度めは食いきれずに反転するパターンが多いからのう」
なるほど……経験的にそうなんだね。
「じゃから、この板に乗せたのでは買えずに取り残されると予想するのう。1千万分買うつもりじゃから、注文を入れた瞬間反転することだってありそうじゃ」
大きなボリュームの注文が、反転のトリガーになるのはありそうな話だ。
この前も、道造さんの注文が、トリガーになって反転が始まっていた。
自分の注文が、相場に影響を与えることがあるんだな……覚えておこう。
道造さんが注文を入れ始めた。
明日 6:00 閑話をはさみます。




