第62話 中条明日香
「ふーん。テストなんて簡単だと思ってたんだー。あ、ごめんなさい。盗み聞きしていたわけじゃないのよ。でも、聞こえちゃったの」
後ろから声をかけてきたのは、副委員長――中条明日香だった。
保健室前の廊下の窓から入る風に、肩までの黒髪がふわりと揺れる。
白いシャツの袖を軽くまくった姿は、どこか涼しげで、いかにも真面目そうな優等生という雰囲気だ。
実際、優等生なんだけどね。
「また満点を取る自信があるんだねー。初めて勉強をしたんだー。ふーん、そうなんだー」
中条明日香は、後ろで手を組みながら近づいてきて、少しだけ身をかがめるようにして俺の顔を覗き込んだ。
距離が近い。
「今度は負けないからね!」
……負けないって言われても、そういうつもりはないんだけどなあ。
俺は思わず一歩だけ後ろに引いた。
「松本先生に教えてもらったんだー? あの先生、綺麗だものね。勉強する気になっちゃった?」
「……え?」
綺麗だと、どうして勉強する気になるんだろう?
論理性に欠けるんじゃないか?
言っている意味が分からず、首をひねった。
「赤嶺君って、サッカー大会でも活躍してたよね」
「……そうかな。無理やりゴールキーパーをさせられただけなんだけど」
「相手のすごいシュート、止めてたじゃない」
「そんなにすごいシュートだったか? あの後みんなに褒められたりしなかったけど……あ、松本先生は褒めてくれたか……」
一瞬、中条明日香の顔色が曇る。
「すごいシュートっていうか、普通は点が入るところだったと思うよ。何回もそういうシュート止めてたし」
少しだけ声を落として、続ける。
「みんなが赤嶺君を褒めないのは……君がハブられてるから」
面と向かって「ハブられてる」って言われると、正直きついわ。
「ハブられてる俺と、こんなに話して大丈夫?」
俺がそう言うと、中条明日香は少しだけ肩をすくめた。
「私はたぶん大丈夫だと思う」
それから、周りをちらっと見て、少しだけ苦笑する。
「でも今日は、これくらいにしておくわ」
そう言って、小さく手を振った。
「じゃあね、赤嶺君」
中条明日香は軽く小走りになって廊下を去って行った。
黒髪が揺れて、角を曲がるとすぐに見えなくなる。
――なんだったんだ、今のは。
テストで俺に負けたのが、悔しかったのかな?
でも平田君とは違う対応。
俺を認めて、勝負宣言してきたってことか?
別に俺は、……勝負だなんて思ってないけどね。
俺は、誰もいなくなった廊下を眺めてしばし固まっていた。
職員室から松本先生が出てくる。
その手には、二人分の給食。
オッと、一つは俺の分だ――手伝わなくちゃ。
「先生! 運ぶの手伝います」
「ありがとう。天心君」
俺は、松本先生から給食を受け取ろうとすると、先生は一人分の給食を差し出した。
自分の分は、自分で運びたいらしい。
……俺に触られるのは嫌だよね。
いつも、給食を運んでもらって申し訳ない。
職員室の中に入るのって、なんとなく苦手なんだよね――。
ごめんなさい。
「いつも、給食を運んでもらって申し訳ありません」
「いいのよ。天心君、職員室苦手でしょう」
お見通しだったわ。
「……すみません」
「職員室、苦手な子は多いわよね」
「はい」
保健室に入り、一緒に給食を食べる。
今日の献立は、麦ごはんに牛乳、鮭のパン粉焼きとフルーツゼリー。
そこそこ美味しい。
食べ終わったら、昼休みだ。
「午前中はどうだった? 単語はたくさん覚えられた?」
牛乳を片手に、松本先生が聞いてくる。
俺は、口に入った麦ごはんを咀嚼し終わると先生を見て答える。
「二回は目を通したので、だいたいは覚えていると思いますよ」
「へー、興味あるな。どれくらい覚えているか、食べ終わったら……ちょっとテストして良いかな?」
「えー、テストですか?」
「テストと言っても、聞いたものに答えてくれればいいの。英語を言うから、日本語を答えて」
「分かりました」
俺は、給食を食べ終わると『高校生の覚えるべき英単語2500』を取り出し、先生に渡す。
先生は、その中からランダムに問題を出した。
もちろん、答えられない問題はない。
「すごいわねー。本当に午前中だけで覚えちゃったの? 信じられないわ」
「でも、明日になったら、忘れている単語もあると思いますよ」
「それにしてもだわ」
細い顎の先に右手をつけて、松本先生が真剣なまなざしを俺に向ける。
「たった半日で、高校生が習う英単語を全部覚えてしまうなんて、聞いたこともないわ。頭が良すぎる。絶対進学するべきよ。一番難しい大学にだって、余裕で入れるに決まってるもの。お金だってあるんだし、探索者だって学校に通いながらだってできるでしょう。今だってできてるわけだし」
「それは――できないこともないですが、時間に応じて稼ぎも違いますし」
探索者は、時間的制約はまるでない。
一年探索をしなくても、その資格が失われるということはないのだ。
だから、高校に通いながら、探索者を続けることだって難しいことではないだろう。
だが、その稼ぎについては大きな違いが出るだろうことは、容易に想像できた。
当然だが、探索していない分の稼ぎがなくなるのだ。
通いながらでは、稼ぎが半減すると考えるのが妥当だと思う。
「親御さんは、なんて言っているの?」
「え……」
親がなんて言ってるかと聞かれても、何とも言ってないとしか言えない。
だって、とーちゃんは刑務所の中、かーちゃんは家出をしちゃったみたいだから。
「親は、何にも言ってないです」
「一度お母さまと、お話ししてもいいかしら?」
「え! でも、俺自身、行く気がないんですけど」
その件については、この前先生も納得してくれたはず。
「でもね、天心君の才能を埋もれさせてしまうのはもったいなさすぎると思ったの。やっぱり天心君は、T大学に行くべきよ。天心君なら絶対合格できる」
――T大学は日本一の大学だ。
俺が、T大学に行くべき?
今の知力なら、勉強すれば入学試験を突破できそうな気はする。
でも、探索者の俺がT大学に行ってどうなるというのだろう。
「T大学受験は置いておいて、高校受験はいらないじゃないですか。高卒認定試験で合格すれば、大学受験はできるんでしょう」
「そうだけど、天心君に任せておいたら大学受験しないでしょう」
うん……たぶんそうなる。
実は、高卒認定試験を受けるかだってあやしいもんだ。
だって、試験日のころには、松本先生は側にいないし、やる気がなくなってると思うんだもん。
「だから、お母様にお願いしておこうと思ったの」
でも、かーちゃんどっかに行っちゃったんだよねー。
なんて答えたらいいんだろう。
かーちゃんがいなくなっちゃったことは、隠しておきたいんだけど。
「分かりました。かーちゃんに言わなくても、受験の年になったらT大学を受けてみます。それでいいですよね」
「あら……なんだかすんなり大学受験することになったわね。本気かしら?」
本気じゃないけど、この場はそう言っておくことで、すんなり事が運ぶ。
受験の年に、松本先生がチェックしに来るはずがないからね。
仮に松本先生がチェックしに来たとしても、受けるだけならたいした負担じゃないわけだし。
「本気ですよ。だから、かーちゃんには言わないでください」
「あら、どうして?」
「どうして」って言われても、「かーちゃんが家出をしちゃったから」なんて言えない。
「俺、あの千万円のことを秘密にしてるんで……今はちょっと」
「ふーん。でも、三者面談の時には天心君の実力のことだけは、言及させてもらうわよ。T大合格間違いないってね」
「たぶん信じないと思いますよ」
三者面談に母ちゃんが来ることはないんだな……これが。
「大丈夫。ちゃんと説得するから」
俺は、この話を打ち切るように社会科の参考書を読み出した。




