第56話 競馬?
道造さんは、少しの間、玉を打っていたが、すぐに打つのをやめた。
「天心、飯食いに行こう。おごってやる」
確かに十二時を回っている。
「俺、金は持ってますよ」
「いいんじゃ。ついといで」
パチンコ台に小物を置いて立ち上がる道造さんについて、外に向かった。
小物を置いたということは、また戻ってきてこの台で打つつもりだろう。
外に出ると夏の日差しと、むわっとしたアスファルトの熱気が迎えてくれた。
でも、排ガス交じりとは言え、空気は外の方が新鮮かな?
やっぱ、パチンコ屋って、たばこ臭いよね。
服をぱたぱたとはたいて、においを払う。
「中華でいいか?」
「はい。俺、中華好きですよ」
「空いていれば、いいのじゃがな」
細い横道に入って買取所で換金を済ませ、さらにその道を先に進んでワンブロック向こうの明るい道に出る。
右に曲がると赤いのれんのかかった町中華が目に入った。
少し色あせた看板。
油で黒ずんだ換気扇のフード。
入口の横には、手書きの「冷やし中華はじめました」の紙。
ガラガラっと引き戸を開けて中に入ると、三つのテーブル席と、七、八席のカウンター。
床は古いタイルで、ところどころ色が剥げている。
テーブルの縁は丸くすり減っていて、長年使われてきたのがわかる。
運よく、テーブル席が一つ空いていた。
道造さんが店主らしい中年の男に視線を向けると、男は右掌でテーブル席を示した。
顔なじみかな?
席に着くと、おばちゃんが冷たい水と少し角の折れたメニューを置いていった。
コップの外側に、細かな水滴がびっしりとついている。
「わしは、高菜チャーハンと餃子じゃ。天心は何にする?」
「じゃあ、俺もそれにします」
「あいよー」
おばちゃんの声が厨房へ飛ぶ。
「高菜チャーハン二つ、餃子二枚!」
すぐに火が入る音がした。
「ここの高菜チャーハンは、絶品じゃぞ」
「そうなんですね。ここには、よく来るんですか?」
「土日は、よくくるのう」
「へー。じゃあ期待しよ」
道造さんは、クフフと微笑んでコップの水を一口飲んだ。
俺は店内の様子を改めてみまわした。
壁には色あせたメニュー札がずらりと貼られている。
ラーメン。
味噌ラーメン。
タンメン。
レバニラ炒め。
回鍋肉。
エビチリ。
天津飯。
手書きの文字が少し傾いていて、いかにも町中華という感じだ。
テレビは壁の上の隅に設置され、ワイドショーが音を絞って流れている。
厨房の奥からは、中華鍋を振るう音が響いてくる。
ガコン!
シャッ、シャッ、シャッ!
強火で一気に炒める音。
油がはじける音。
にんにくとごま油の香りが鼻をくすぐる。
腹の虫が、ぐう、と小さく正直に鳴いた。
「もうすぐじゃぞ」
道造さんがにやりと笑う。
「はーい。高菜チャーハン二つ、餃子二枚ね。ごゆっくりどうぞ」
おばちゃんが、そっけなくチャーハンと餃子をテーブルに並べた。
湯気がふわりと立ちのぼる。
高菜の混じった黄金色の米粒が、油をまとってつやつやと光っている。
横には小ぶりの餃子が五つ、きれいに弧を描いて並び、焼き目はこんがり狐色だ。
チャーハンの横には、澄んだ中華スープ。
刻みねぎが浮かび、白い湯気の向こうに透き通った琥珀色が揺れている。
「ほんとだ。うまそうですね」
「クフフ……」
道造さんは、誇らしげに鼻を鳴らした。
レンゲを差し込み、ひと口。
ぱらり、とほどける米。
高菜の塩気と酸味がじわっと広がり、そのあとに卵の甘みが追いかけてくる。
強火で一気にあおった香ばしさが、鼻に抜ける。
うまい。
言葉より先に、もう一口。
「どうじゃ」
「……これ、ほんとにうまいですね」
「じゃろう」
道造さんは満足そうに頷き、餃子を箸でつまんだ。
皮がぱりっと音を立てる。
俺も真似をする。
かじると、じゅわっと肉汁があふれた。
腹が落ち着いてきたところで、俺はふと思い出す。
「土日は、株はやってないんでしたっけ?」
「市場が開いておらんからのう」
「じゃあ、土日はだいたいパチンコですね?」
「そうでもないのう。府中に行くこともけっこうあるぞ」
「府中?」
「府中競馬場じゃ」
道造さんの目が、ほんの少しだけ遠くを見る。
「競馬ですか?」
「そう。競馬じゃ。G1はだいたい行くのう」
……G1?
俺が首をかしげると、道造さんは餃子を飲み込んでから説明してくれた。
「G1っちゅうのは、決勝戦みたいな権威のある大きなレースのことじゃ」
なるほど、決勝戦ね。
「年に一回は必ず行くって感じですか?」
「ちがう。ちがう。G1は、年に二十回以上ある。決勝戦と言ったが、最高ランクのタイトル戦と言い替えた方が良いかのう」
「へー。十回以上もあるんですね」
「んむ。じゃから、二週に一回くらいは府中に行っとる感じかの」
「あ、そんなに行ってたんですね。ちょっとイメージが違ってたみたい」
俺の中では「年に一度の大イベント」くらいの感覚だったが、実際は違ったようだ。
馬の年齢や雄雌、距離の違いなどで、いくつかにクラスが分かれているのかな?
年に一回と二十回以上では、だいぶイメージが違う。
そんなに通っていたんだなあと、改めて驚いた。
道造さんって、根っからのギャンブル好きなんだな。
「はは、そうじゃのう。年に一回と二十回以上では、だいぶ違うからのう」
「競馬って、やっぱり儲かるもんですか?」
道造さんのことだから、パチンコのようにいつも勝っているのだろうと、俺は思った。
だが、答えは違った。
「競馬はいつも負けているのう。たまーに、当たるのが癖になるんじゃ。もう足を洗った方が良いのじゃよなあ。……分かっておるんじゃが……」
渋い顔をする道造さん。
こりゃあ、だいぶ損をしてるんだな。
「……天気が良いときには、競馬場は気分が良いところじゃぞ。ピクニックには持ってこいじゃ」
ピクニックに最適?
広い芝生。
青空。
スタンドのざわめき。
遠くから響く歓声。
確かに、独特の高揚感はあるかもしれない。
でも、本当に言いたいのは――
……馬券は買うなって言いたいのね。
「ピクニックですか。彼女でもいれば、それも良いかもしれませんが、俺には縁がないですね」
冗談めかして、競馬場にはいかない宣言。
分かりました。
……馬券は絶対買いませんよ。
冗談めかして言ったつもりだったけど、彼女がいたことなど一度もない。
……幼馴染の女の子もいなかったな。
言っていて、なんだか落ち込んでくるわ。
「天心、何を言ってるんじゃ。彼女を作るのはこれからじゃぞ。中三なんじゃからのう」
そんなことを言われても、クラス中、学校中の生徒から避けられてるんだから、できるわけがないよね。
変な期待は、とっくのとうに捨ててるぜ。
こうして昼間から、道造さんと町中華でチャーハンを食っている自分を思うと、なんだか同級生たちとは違う場所にいる気もする。
スープを一口すすりながら、道造さんの顔を見た。
「これからですか? そうか……これからですよね」
「そうじゃ。これからじゃ」
だったらいいなと思いながら、これっぽちも期待を持てない俺は、うまそうな餃子に箸をのばした。




